第116話 石の下に眠るもの
森の入口へ戻る頃には、木々の影が道の上へ長く伸び始めていた。
魔導二輪の出力を落とし、後ろを確かめる。二頭の馬は、少し距離を空けてついてきていた。先を行くブラノールさんが、こちらへ頷く。
朝と同じ場所に車体を止めると、ほどなく二人も馬を下りた。
駆動音が消え、代わりに馬の鼻息と、鞍の金具が触れ合う音が聞こえてくる。
「ここから先は、根が多くなります」
「ああ。馬もここに置いていこう」
ブラノールさんは手綱を引き、道脇の木へ馬を繋いだ。
俺が荷物を背負い直している間も、視線が時折、魔導二輪へ向いている。
「……何か気になりますか?」
「止まっている時も、思ったより安定しているな」
「支えを出してますから」
「なるほど」
しゃがんで覗き込みそうになったところで、セフィリアが声を掛けた。
「師匠。続きは帰ってからにしましょう」
「分かっている」
ブラノールさんが身体を起こす。
その手は、既に剣の位置を確かめていた。
「案内を頼む」
「はい」
俺は森へ向き直った。
朝につけた車輪の跡が、湿った土にまだ残っている。その先へ、一歩踏み出した。
◇
行きに確かめた目印を辿り、木々の間を進む。
二股の幹を過ぎ、坂を下りたところで、ブラノールさんが足を止めた。
「これか」
「はい。奥へ続いています」
蹄の跡に、爪の跡が重なっていた。
朝に見たものより、縁がはっきりしている。倒れた草の上にも、新しく泥が付いていた。
「俺が帰った後にも、通っていますね」
セフィリアがしゃがみ、少し離れた足跡へ目を向ける。
「こちらにもあります。大きな足跡が」
人に似た形だった。
けれど、俺の足を二つ並べても収まりそうなほど大きい。爪先の先では、何かを引きずった跡が落ち葉を押し分けていた。
ブラノールさんは地面から顔を上げた。
「立ち止まっている時間は、あまりなさそうだな」
声は落ち着いていた。
俺は頷き、先へ進んだ。
黒い粒子を見た倒木の周りには、今は何も漂っていなかった。
場所だけを伝え、通り過ぎる。二人とも足を緩めて周囲を見たが、手を伸ばすことはしなかった。
やがて、重い鼻息が聞こえてきた。
その奥で、硬いものが石に当たる音がする。
低い尾根の手前で身を屈めた。
ブラノールさんとセフィリアも、それぞれ幹の陰へ入る。
「この先です」
枝の隙間から、斜面の下を覗いた。
魔物は、まだそこにいた。
牙の片方が欠けたファングボアが、土を鼻先で掘り返している。その横には、盾と剣を持つゴブリンナイトが二体。少し離れて、杖を抱えたゴブリンシャーマンが立っていた。
さらに奥で、赤い背中が動いた。
レッドオーガ。
肩に担いだ棍棒が枝を押し上げ、溜まっていた雫を落とす。
その向こうから、もう一つ頭が現れた。
額の下に、大きな目が一つ。
サイクロプスが身を屈め、石積みへ手を伸ばしていた。
「……サイクロプスまで」
セフィリアの声が低くなる。
大きな指が土を掻いた。
根の間から土の塊が転がり落ち、ファングボアの背中に当たる。猪は唸って振り返ったが、すぐにまた石の隙間へ鼻を戻した。
「互いに争わないというのは、本当だな」
「朝も、あんな様子でした」
『石が、さっきより見えているわ』
セレスに言われ、視線を下げる。
確かに、根の下に覗く灰色の面が広がっていた。魔物が周りの土を掘っているのだ。
ブラノールさんが、石積みから周囲の地形へ目を移した。
「ここで暴れさせれば、入口ごと崩される。手前へ引くぞ」
「俺が出ます」
尾根の脇には、幹の間隔が広い場所があった。
そこまで下がれば、刀を振れる。石積みからも距離を取れる。
ブラノールさんは一度その場所を見て、頷いた。
「レグルスはオーガを。セフィリア、武器を持った三体だ。大きい方は俺が引き受ける」
「はい」
「獣は、近い者が処理する。互いの位置を見失うな」
柄へ手を掛けた。
体内を巡らせる魔力を増やすと、脚から背中へ、熱が通った。
セフィリアが新しい剣を抜く。
刃を前へ向けた時、肩が自然に下がった。帝国で見た構えとは、少し違っていた。
俺は尾根を下り、幹の陰から出た。
◇
最初に気づいたのは、フォレストウルフだった。
茂みの中で鼻先が上がる。
黄色い目が俺を捉え、低い唸り声が漏れた。
獅心を抜く。
刃を見せたまま、一歩下がった。
狼が飛び出す。
その声にファングボアが振り向き、レッドオーガも棍棒を肩から下ろした。
俺は足元を確かめながら、幹の間へ下がった。
追ってきた狼が跳ぶ。
開いた顎の外へ身をずらし、下から刃を通した。
喉を裂かれた身体が脇へ落ちる。その向こうから、ファングボアが突っ込んできた。
牙が低い。
俺の膝を狙う高さで、土を蹴ってくる。
横へ足を運んだ瞬間、猪の側面を一本の剣が抜けた。
ブラノールさんだった。
すれ違いざまに刃を引き抜き、そのまま奥へ進む。ファングボアは数歩走ってから前脚を折り、土の上へ崩れた。
「そのまま下がれ」
「はい!」
レッドオーガが吠えた。
倒れた猪を跨ぎ、棍棒を振り上げる。
俺はもう一歩、石積みから離れた。
棍棒が落ちる。
足を置いた土から重さを抜き、斜めへ移った。すぐ横で地面が弾け、泥と木片が頬を掠める。
オーガの腕が伸びきっていた。
だが、今の位置からでは刃が浅い。
棍棒を引き戻す動きに合わせ、懐へ入った。
大きな手が柄を握り直す。
その指へ刃を通すと、棍棒が傾いた。
喉の奥から、耳を刺す咆哮が上がる。
残った左手が俺を掴もうと伸びてきた。
肩だけを逃がさない。
足を運び、腰を回す。指先が胸の前を通り過ぎたところで、獅心を右肩の上へ収めた。
斬る先を見る。
厚い肩から、胸の奥へ。
「《袈裟吼絶》【ルギトゥス・カエスーラ】」
踏み込んだ。
刃が肉を割り、骨を断つ。
抵抗を受けた腕へ、脚と腰の動きを繋いだ。途中で緩めず、刀を最後まで振り抜く。
赤い巨体が揺れた。
切り口から血が溢れ、膝が地面を打つ。
俺はその横を抜け、倒れる身体から距離を取った。
背後で重い音が響く。
息を吐きながら、セフィリアの方へ目を向けた。
盾が、彼女の正面へ突き出されていた。
ゴブリンナイトの剣が、その陰から伸びる。
セフィリアは刃を合わせ、わずかに外へ流した。
盾の前へ踏み込まず、その脇へ足を置く。剣先が短く返り、露出した首を切り裂いた。
もう一体が迫る。
彼女は斬り終えた腕を大きく引かず、身体の向きを変えながら刃を戻した。
金属が鳴った。
相手の剣が外へ弾かれ、細い刀身が喉へ入る。
動きが続いていた。
一太刀ごとに構え直していた印象が、今は薄い。剣を振った先に、次の足が収まっている。
『奥の杖』
セレスの声で視線を動かした。
ゴブリンシャーマンが口を動かしていた。
杖の先に赤い光が集まる。
「セフィリア、奥!」
「見えています!」
返事とともに、彼女が駆けた。
倒れかけたゴブリンナイトの横を抜け、杖を振り下ろそうとする腕へ斬り込む。
赤い光が散った。
宙へ上がった杖を追わず、セフィリアはもう一度踏み込んだ。剣が胸を貫き、シャーマンの声が止まる。
その時、頭上を大きな影が動いた。
サイクロプスの腕だった。
ブラノールさんを狙い、横薙ぎに振るわれる。
俺は思わず足を止めた。
ブラノールさんは、巨腕の下へ入っていた。
膝を落とした姿勢から剣が走る。サイクロプスの脚に赤い線が開き、片膝が折れた。
巨体が、石積みとは反対へ傾く。
地面についた手の横を、ブラノールさんが踏み抜いた。
剣先が上がる。
下りてきた首へ、一筋の刃が通った。
大きな目が見開かれた。
叫びは続かなかった。
ブラノールさんが離れた直後、サイクロプスは肩から地面へ倒れた。重い振動が足裏まで届き、枝の上から葉が落ちてくる。
土煙の向こうで、剣が一度振られた。
血を払ったブラノールさんが、こちらを見る。
「残りは」
俺は周囲へ意識を向けた。
木々の間。尾根の向こう。石積みの前。
「見える範囲には、いません」
「こちらもです」
セフィリアが答える。
しばらく待っても、新たに飛び出してくるものはなかった。
ブラノールさんは俺と、倒れたオーガを順に見た。
「最後まで通したな」
獅心を握る手に、少しだけ力が入った。
「……はい」
「その足場でできれば、十分だ」
短い言葉だった。
けれど、爺ちゃんの庭で繰り返した動きを見てもらえた気がして、胸の奥が熱くなった。
◇
魔物がいなくなると、石積みの前は妙に静かだった。
地面には、蹄や爪で掘り返された跡が幾重にも残っていた。
根の皮は剥がれ、石の表面にも新しい傷がついている。その間に、古くからあるらしい黒ずんだ溝が見えた。
俺はしゃがみ、顔を近づけすぎないように覗いた。
「ここ、模様があります」
セレスが肩から浮かび、少し横へ移る。
『土の下にも続いているわ。擦らないで、上に乗った分だけ落としてみて』
布の端で、乾いた土をそっと払った。
細い線が現れる。
石の継ぎ目を跨ぎ、曲がって、別の線と重なっていた。
ブラノールさんも片膝をついた。
「術式か」
『ええ。かなり古いものね。見えている分だけでは、働きまでは読めないけれど』
「魔物を集めているのも、これでしょうか」
セフィリアが尋ねる。
セレスは線を追ったまま、少し首を傾けた。
『その可能性もあるわ。でも、まずは何のための場所なのか、確かめたいわね』
石積みの端へ回ると、朝には見えなかった下の部分が覗いていた。
加工された縁の奥に、平らな石がある。
一段下にも、同じ幅の石。
「階段です」
脇へ寄り、二人にも見えるようにした。
入口の上半分は、根と土に覆われていた。
けれど、その下には、人が身を屈めれば通れるほどの隙間が開いている。横へ傾いた石扉が、壁に寄り掛かるように止まっていた。
扉の割れ目には、細い根が入り込んでいた。
今日、魔物が壊したものではない。
「前から開いていたんですね」
「ああ。土に隠れていたのだろう」
ブラノールさんが、入口の上を見上げる。
支えになっている石と、根の張り方を確かめてから、荷物の中の灯りを取り出した。
小さな魔導灯が点く。
差し出された光が、階段の奥へ届いた。
段は下へ続いていた。
途中から壁も天井も、土ではなく石になっている。
「まずは下りた先まで見る。閉じた扉や術式には触れるな」
「はい」
俺とセフィリアが頷く。
ブラノールさんは剣を抜き直し、入口を潜った。
続いてセフィリアが入り、俺は最後にもう一度森を見渡した。
倒れた魔物の向こうで、枝が風に揺れている。
『足元、気をつけてね』
「ああ」
獅心を手に、身体を屈める。
一段下りると、頬に触れる空気が冷たくなった。
◇
階段の途中から、土の匂いが薄れた。
壁は湿っていた。
魔導灯に照らされると、石の表面に細かな水滴が浮かんでいる。踏む場所によって、靴底が僅かに滑った。
下りきった先には、まっすぐな通路があった。
人が二人並んで歩けるほどの幅。
左右には幾つかの入口があり、奥は灯りの届かない暗がりに沈んでいた。
「建物が、丸ごと埋まっているのか……」
声が思ったより響いた。
自分の言葉が壁に返り、奥へ消える。
ブラノールさんは通路の手前で立ち止まり、灯りを低くした。
床には薄く泥が入り込み、その上に小さな足跡が残っていた。途中で向きを変え、階段へ戻っている。
「小さい魔物は、入っていたようだな」
「奥へは行かなかったんでしょうか」
「確かめよう」
最初の部屋は、扉が外れていた。
ブラノールさんが中を照らし、俺は通路の奥を見張った。
石の台が二つ。
壁際には錆びた金具が並び、その下に、木の棚だったらしいものが崩れていた。
人はいない。
寝台も、食器も見当たらなかった。
「何に使った部屋でしょう」
セフィリアが入口から覗く。
俺も目を向けた。
台の表面には、浅い溝が幾つも刻まれていた。
丸い窪みを囲むように線が走り、端の金具へ繋がっている。
『何かを置いて、固定していたのかもしれないわね』
セレスが言う。
金具の一つは、輪の形をしていた。留めるための穴が、幾つも並んでいる。
俺は入口に立ったまま、室内を見回した。
窓はなかった。
次の部屋にも、似た台があった。
こちらは中央から割れ、片側が床へ落ちている。壁の下には陶器の破片が溜まり、その奥で、金属の箱が蓋を開けたまま錆びついていた。
何かを調べる場所だったのか。
それとも、しまっておく場所だったのか。
分かるものを探すほど、見慣れない造りが目についた。
通路へ戻り、歩いた距離と部屋の位置を紙に書き留める。
その間、セフィリアが俺の先に立ち、剣を下げたまま奥を見ていた。
「さっきの剣、振りやすそうだったな」
紙をしまいながら言うと、彼女が少しだけ振り返った。
「はい。まだ、慣れている途中ですけど」
「二体目へ移るところ、前より速かった」
「師匠に、肩と足の位置を見直していただいたんです」
新しい剣へ視線を落とし、柄を握り直す。
「前は、教わったとおりにしようとして、力が入っていたみたいで」
「……それ、少し分かる」
爺ちゃんの足の運びを真似ようとして、上体まで傾けてしまった時のことを思い出した。
形を追っているつもりで、余計なところまで動かしていた。
前方から、ブラノールさんの声が届く。
「続きは地上でやれ」
「はい」
二人で返事をして、顔を見合わせた。
セフィリアが小さく笑う。
俺も口元を緩めかけた。
その時、通路の奥から、冷たいものが喉へ触れた。
息を止める。
匂いではなかった。
身体の内側へ、細い棘が引っ掛かったような感覚だった。
セフィリアの表情も変わっていた。
「……師匠」
「感じたか」
「はい」
ブラノールさんは既に足を止めていた。
灯りの先で、通路が終わっている。
そこには扉があった。
◇
近づくにつれ、扉の大きさが分かった。
通路の幅いっぱいに、黒ずんだ金属の板が嵌め込まれている。
左右に開く造りらしいが、握り手はない。中央の継ぎ目を跨ぐように、細い線が何重にも刻まれていた。
その線は、扉の縁から壁へ、さらに床へ続いていた。
『そこで止まって』
セレスの声に、足を止めた。
靴の少し先で、床を横切る溝が鈍く光っている。
ブラノールさんが灯りを下げた。
「まだ動いているのか」
『ええ』
セレスは俺の肩から離れず、扉を見つめていた。
入口で術式を見ていた時より、声が硬い。
『近くで魔力を流さないで。どこまで繋がっているか、まだ分からないわ』
体内を巡る魔力を、静かに保つ。
獅心の切っ先を下げ、扉の表面を見た。
中央の線には、光が残っていた。
けれど、右下では途切れている。
壁に亀裂が走っていた。
天井の端から斜めに下り、扉の枠へ届いている。その途中で、刻まれた術式がずれていた。
割れた石の縁は黒ずみ、溝には細かな砂が詰まっている。
ここも、俺たちが来るより前から傷んでいたのだろう。
ちりん、と。
音がした。
セフィリアが剣を握り直した。
俺も、扉から目を離せなくなる。
森で聞いたものより、近かった。
金属の板を隔てた向こうから、確かに響いてきた。
扉の右下で、何かが滲んだ。
黒い粒。
二つ、三つと浮かび、床の溝へ触れる。
淡い光が走った。
粒は形を崩し、薄くなって消えた。
「……押さえているのか」
俺の呟きに、セレスが頷いた。
『少なくとも、ここに残っている術式は、外へ出ようとするものを止めているわ』
ブラノールさんは扉を見たまま、剣先を下げなかった。
「封印か」
『そう考えた方がよさそうね』
セフィリアが、ゆっくりと息を吐いた。
その顔から、先ほどの笑みは消えていた。
「向こうに、何かあります」
「魔族か?」
「帝国で感じたものに、似ています。でも……」
言葉が途切れる。
彼女は胸元へ片手を添え、それから首を横に振った。
「今までの相手とは、少し違います」
扉の向こうから、足音はしなかった。
呼吸も、衣擦れも聞こえない。
ただ、傷んだ術式の光が、明るくなっては弱まっていた。
俺は灯りの届く範囲を見渡した。
扉の脇、壁の高い位置に、小さな四角い窪みがある。その下には、錆びた金属の板が取り付けられていた。
汚れの間から、文字らしいものが覗いている。
「ブラノールさん。あそこに」
「ああ」
持ち上げられた灯りが、壁を照らす。
板の上部には、同じ大きさの文字が並んでいた。
ほとんどは錆に埋もれ、俺には読めない。
けれど、その下に刻まれた図は分かった。
円。
その周囲に並ぶ、幾つもの留め具。
四方から中央へ伸びる線。
先ほどの部屋で見た台と、よく似ていた。
ただ、中央に描かれているものが違った。
俺は目を細めた。
曲線を追い、その下に並ぶ細かな線を見る。
歯のように見えた。
もう一度、鈴が鳴った。
すぐ向こうにある扉が、ひどく薄いものに思えた。




