第114話 森の奥へ続く足跡
窓の外には薄い雲が広がっていた。
屋根の向こうに見える森は、朝日に照らされて緑を取り戻している。昨夜、あれほど暗く見えた場所と同じとは思えなかった。
窓を開けると、パンを焼く匂いが微かに届いた。
『よく眠れた?』
「ああ。寝台が広くて、ちょっと落ち着かなかったけど」
『途中から、そんなことも忘れていたみたいね』
振り返ると、セレスが机の上で脚を揺らしていた。
俺は肩を回し、身体の具合を確かめる。長く握り手を掴んでいた掌にも、腕にも、疲れは残っていない。
部屋の空いた場所で、ゆっくりと足を運んだ。
踏み出す前に身体を傾けず、足を置いたところへ重さを移す。爺ちゃんの足運びを思い返しながら、数歩進んで戻った。
『朝から熱が入りすぎないようにね』
「分かってる。今日は調査だ」
腰に獅心を差し、地図を荷物へ収める。
食堂で朝食を済ませてから、裏手の置き場へ向かった。
魔導二輪に異常はなかった。
車輪と留め具を確かめ、荷物を固定する。駆動を入れると、昨日と同じ低い音が足元で響いた。
ギルドへ立ち寄ると、受付では既に仕事が始まっていた。
夜の間に、新たな目撃報告はなかったらしい。
「まずは、マルクに教わった場所へ向かいます。そこから足跡を確認して、奥の様子を見てきます」
「承知しました。お戻りは夕方までの予定ですね」
「はい。状況が変われば、調査を切り上げて戻ります」
受付嬢は頷き、手元の紙に書き込んだ。
「お気をつけて」
「行ってきます」
外へ出ると、朝の通りを荷馬車がゆっくりと進んでいた。
その後ろにつき、街の門へ向かう。
◇
森へ続く道には、まだ朝露が残っていた。
車輪が通るたびに、道端の草から雫が落ちる。畑が途切れ、木々が近くなると、風に湿った土の匂いが混じり始めた。
林道へ入ってしばらく進んだところで、速度を落とす。
道幅が狭くなり、地面を横切る根が増えていた。
「ここからは歩くか」
『そうね。音も、よく響くようになってきたわ』
少し手前にあった平らな場所へ戻り、道を塞がない位置に魔導二輪を止める。
駆動を切った途端、鳥の声が近くなった。
必要な荷物を背負い直し、車体を確かめてから森へ足を向ける。
枝の間から落ちる光が、地面にまだらな模様を作っていた。
濡れた落ち葉。木の根のくぼみに溜まった水。遠くで何かが枝を揺らす音。
入口の辺りは、以前歩いた森と変わらない。
それでも、道を外れる前に一度立ち止まり、周囲へ意識を向けた。
体内を巡る魔力は、少量のまま保っている。
目に映るものと、耳に届く音を確かめてから進んだ。
マルクに教わった目印は、すぐに見つかった。
二股に分かれた幹。その脇を下る細い道。
坂を下りきった場所で、草の倒れ方が変わっていた。
「……ここだな」
膝をつき、地面を見る。
柔らかな土に、深く割れた蹄の跡が残っていた。その横には、爪の先まで分かる別の足跡がある。
大きさも、歩幅も違う。
何度も踏まれたところでは形が崩れていたが、少し先へ目を移せば、また同じ二種類の跡が見つかった。
『どちらも奥へ向かっているわね』
「ああ」
草が倒れた方向を追う。
急に向きを変えた跡も、地面を激しく掻いた跡も見当たらなかった。
木の皮には擦れた箇所があったが、争って幹へぶつかったような傷ではない。大きな身体が、狭い場所を通り抜けたのだろう。
「マルクの言ったとおりだ」
種類の違う魔物が、同じ場所を通っている。
しかも、追いかけ合って走った様子がない。
地図を開き、目撃地点に短く書き添える。
先へ進む前に、帰りに見分けられる木を確かめた。
『足跡だけに気を取られないでね』
「分かってる」
立ち上がり、倒れた草の先へ目を向けた。
◇
木々の向こうで、枝が折れた。
足を止める。
少し遅れて、落ち葉を踏む重い音が聞こえた。
近くの幹へ身を寄せ、枝の隙間から覗く。
低い茂みの間を、灰色の背中が動いていた。
フォレストウルフだ。肩口の毛が逆立ち、口元から長い牙が覗いている。鼻を地面へ近づけることもなく、まっすぐ歩いていた。
その先には、湾曲した二本の牙を持つファングボアがいた。
太い首と、泥のこびりついた硬い毛皮。木の根を踏み越えるたび、重い胴が左右に揺れる。
両者の距離は、互いの存在に気づかないほど離れてはいない。
フォレストウルフは、無防備な後ろ脚へ飛びつこうとしなかった。
ファングボアの方も、振り返って威嚇しない。
『見えるだけで三体。少し右にもいるわ』
セレスの小さな声に、視線を動かす。
灌木の向こうを、もう一体のフォレストウルフが通り抜けていった。
獲物を追う動きではなかった。
左右へ分かれて追い込む様子もなく、二体ともファングボアと同じ方へ進んでいる。
距離を保ったまま、木陰を移った。
足元の枝を避け、乾いた落ち葉の少ない場所へ足を置く。
その時、先頭のファングボアが止まった。
後ろのフォレストウルフも止まる。
右側の一体まで、ほとんど同時に顔を上げた。
俺も動きを止めた。
耳を澄ませる。
葉擦れの音がした。
頭上で、小さな鳥が鳴いた。
ほかには何も聞こえない。
魔物たちはしばらく同じ方向を向き、それから、また歩き出した。
足並みは揃っていない。それぞれの速さで、けれど進む先は変わらなかった。
「……何かに反応したな」
『ええ。でも、何を感じたのかまでは分からないわ』
「音か、魔力か……」
セレスは森の奥を見たまま、首をわずかに傾けた。
『まだ決めつけない方がよさそうね』
頷き、追跡を続けた。
風が変わったのは、斜面の脇を回ろうとした時だった。
頬を撫でていた風が止み、背中側から葉が揺れる。
一番近くにいたフォレストウルフの鼻先が上がった。
次の瞬間、黄色い目がこちらを向いた。
唇が捲れ、牙が露わになる。
低い唸り声とともに、後ろ脚が沈んだ。
俺は柄へ右手を添えた。
左足の先には、濡れた根がある。その外側に、土の露出した場所があった。
フォレストウルフが地面を蹴った。
幹の陰へ飛び込んでくる。
開いた顎が、喉の高さに迫った。
足を置き、身体をずらす。
急いで上体だけを逃がさない。踏みつけた土が僅かに沈むのを足裏で受けながら、突進の線から外れる。
同時に鞘を引いた。
抜けた刃を、そのまま横へ通す。
首の付け根に、確かな抵抗があった。
足から腰、腕へと動きをつなぎ、刃先が抜けるところまで運ぶ。
フォレストウルフは俺の脇を抜け、落ち葉の上へ崩れた。
地面を滑った身体が根にぶつかり、止まる。
俺の足は、最初に選んだ土の上に収まっていた。
肩にも、腕にも、余計な力は残っていない。
すぐに刀を戻さず、周囲へ目を向ける。
ファングボアが振り返っていた。
もう一体のフォレストウルフも、こちらを見ている。
距離を詰めてくる様子はなかった。
ファングボアの耳が動く。
やがて森の奥へ顔を戻し、歩き始めた。
残ったフォレストウルフは、倒れた一体を見た。
鼻を鳴らし、数歩だけこちらへ寄りかける。
だが、途中で足を止めると、ファングボアと同じ方向へ去っていった。
「……そっちの方が気になるのか」
返ってくる唸り声はなかった。
枝を押し分ける音だけが、遠ざかっていく。
『今の動き、覚えておいた方がいいわね』
「ああ。こっちに気づかなかったわけじゃない」
襲ってくる一体もいれば、そのまま進むものもいる。
すべて同じように動かされているわけではなさそうだった。
それでも、奥へ向かおうとする何かがある。
倒れたフォレストウルフを確かめる。
毛皮にも目にも、外から分かるような異常はなかった。
獅心の刃を拭い、納める。
爺ちゃんとの修練を思い返したのは、その後だった。
あの足の置き方が、今の場所でも使えた。
以前なら大きく跳んで避けていたかもしれない。そうして根に足を取られれば、次の動きが遅れる。
『うまく通ったわね、今の一太刀』
「……ああ」
柄から手を離す。
確かめたいことはあったが、今は刀のことばかり考えている場合ではなかった。
魔物たちが去った方向へ、足を向けた。
◇
倒木を回り込んだ先で、黒いものが視界を横切った。
虫かと思い、目で追う。
それは木漏れ日の中を漂い、幹の前でふっと薄くなった。
足を止めた。
「セレス」
『見えているわ』
少し先にも、同じものがあった。
煤のように細かな粒が、木々の間に散っている。
火の匂いはしない。煙もない。
風に運ばれているようで、葉の揺れとは違う方向へ動くものもあった。
帝国で見た亀裂が、頭に浮かんだ。
あの周囲にも、こんな黒いものが漂っていた。
喉の奥に、僅かな不快感が残る。
息を整え、周りを見回した。
幹と幹の間には、普通に向こうの景色が見える。
空間が裂けたような場所はない。
「似てるな」
『ええ。けれど、ここに亀裂が開いているようには見えないわ』
セレスも、粒子の向こうを見つめていた。
手を伸ばさず、その場で動きを観察する。
一つの粒が淡くなり、消えた。
続いて、枝の下に漂っていたものも見えなくなる。
しばらく待つうちに、木漏れ日の中には何も残らなくなった。
「……消えた」
『出てきた場所は、見つけられなかったわね』
「ああ」
幹に付着したものも、地面へ落ちたものも見当たらない。
地図を取り出し、道筋を振り返って位置を記した。
目印になる倒木と、近くの斜面の形も書き添える。
足元には、魔物の足跡が続いていた。
黒い粒子が漂っていた、その下を通っている。
「魔物が通っている場所で、粒子も出てるんだな」
『ええ。関係があるのか、もう少し確かめたいわね』
地図をしまい、水を一口飲む。
周囲の音を確かめ、再び歩き出した。
◇
奥へ進むにつれ、足跡が増えた。
横の斜面から下りてきたもの。茂みを抜け、今追っている跡へ重なるもの。
蹄や獣の足跡に混じり、人の足に似た跡も現れ始めた。
その一つは、俺の靴より遥かに大きかった。
深く沈んだ足跡の縁で、湿った土が盛り上がっている。少し先には、何か重いものを引きずった跡もあった。
腰を落とし、周囲を見渡す。
「獣だけじゃないな」
『大きなものも通っているわ。気をつけて』
歩く速さを落とした。
前方から、重い鼻息が聞こえる。
その少し横では、硬いもの同士が擦れる音がした。
近くの斜面へ回り、低い尾根に身を伏せる。
葉の間から先を覗いた。
斜面の下に、ファングボアがいた。
片方の牙の先が欠けている。先ほど追っていた個体だ。
その少し奥で、金属が擦れた。
継ぎ合わせた鎧。縁の欠けた盾と、幅広の剣。
ゴブリンナイトが二体、木々の間に立っていた。その脇には、骨飾りを下げた杖を握るゴブリンシャーマンの姿もある。
俺は視線を動かした。
さらに奥の幹から、赤い肩が覗いている。
「……レッドオーガまでいるのか」
赤褐色の肌を覆う、分厚い筋肉。
そいつは棍棒を片手に下げ、斜面へ顔を向けていた。足元をゴブリンシャーマンが通っても、目を向けようとしない。
そこで、赤い肩の向こうにあった影が動いた。
太い脚が、木々の間から踏み出す。
ゆっくりと上へ視線を移した。
盛り上がった背中と、太い首。その顔の中央に、大きな目が一つあった。
サイクロプス。
息を細く吐いた。
さっき見つけた大きな足跡を思い返す。
あれを残したのは、こいつだろう。
『随分、集まっているわね』
「ああ。これは、早く知らせた方がいい」
ファングボアとフォレストウルフの移動だけではない。
武装したゴブリンに、レッドオーガ、サイクロプスまでいる。
これらが街の方へ動けば、採集の依頼を制限するだけでは済まなくなる。
身体を伏せたまま、見える魔物の種類と数を確かめた。
木々に遮られている場所もある。ここから見えているものですべてだとは限らなかった。
ゴブリンナイトは盾を構えていない。
ゴブリンシャーマンも、杖を掲げる様子はなかった。レッドオーガのそばを離れ、数歩進んでは、また同じ斜面へ顔を向けている。
サイクロプスは根の張った地面に片膝をつき、大きな手を土へ置いた。
ゴブリンたちが指示を出している様子もない。
身体の大きさも種類も違う魔物が、互いを追い払うことなく、一か所に留まっていた。
『正面の斜面。根の下を見て』
セレスの声に、視線を移す。
土が崩れていた。
その奥に、灰色の面が覗いている。
最初は大きな岩に見えた。
けれど、表面を追ううちに、直線の継ぎ目が分かった。
「……石積みか」
大きさを揃えた石が、上下に重なっていた。表面には苔が広がり、太い根がその前を横切っている。
崩れた土の下から見えるのは、ごく一部だけだ。
地図に、建物を示す印はなかった。
目を凝らすと、石積みの端に加工された縁が見えた。
そこだけ僅かに奥へ引っ込んでいる。
入口なのか。それとも、壁の一部なのか。
ここからでは分からない。
ファングボアが、石積みの前で足を止めた。
鼻先を下げ、石の隙間へ近づける。
横にいたゴブリンナイトが押され、盾を引いた。剣を持つ手が動いたが、振り上げることなく下がる。
「この辺りに、何かある」
『ええ。石積みの位置も記録しておきましょう』
地形と、ここまでの経路を地図へ書き加える。
魔物を倒して近づくことも考えた。
だが、戦えば、この斜面や石積みを巻き込むかもしれない。土の下に何があるか分からない以上、今は手を出さずに持ち帰る方がいい。
最後に、身体を起こさないまま周囲を見渡した。
ほかの入口。新しく掘られた跡。人が通った道。
見える範囲で、確かめられるものを探す。
その時だった。
ちりん、と。
細い音がした。
俺は動きを止めた。
風に揺れていた枝が、ゆっくりと元へ戻る。
ゴブリンシャーマンが顔を上げた。
ゴブリンナイトも、ファングボアも、石積みへ向き直る。
レッドオーガの棍棒が地面を擦った。
最後に、サイクロプスが身を屈め、その一つ目を暗い隙間へ近づけた。
「……聞こえたか」
『ええ』
セレスの返事は短かった。
俺の肩で、まっすぐ斜面を見つめている。
耳を澄ませても、続く音はなかった。
目に見える場所に、鈴を持った者はいない。
王都にある箱が脳裏をよぎる。
封印された、あの鈴。
けれど今の音は、確かにここで聞こえた。
苔むした石積み。
その下に広がる、土に隠れた暗がり。
鈴の音は、地面の奥から響いてきたように思えた。




