第112話 再び、始まりの街へ
王都のギルドから使いが来たのは、朝の修練を終えたところだった。
庭先で汗を拭っていると、門の向こうから名前を呼ばれた。差し出された封書には、できるだけ早く来てほしいとだけ記されていた。
『帰ってきたばかりなのに、忙しいわね』
左肩に腰掛けたセレスが、俺の手元を覗き込む。
「わざわざ使いを寄越すくらいだ。何かあったんだろ」
着替えを済ませ、獅心を腰に差す。
家を出る前に、庭を一度振り返った。踏み固め始めた土には、今朝つけた足跡が残っている。爺ちゃんのようには、まだ動けない。それでも、足の運びを意識するたびに、以前なら気づかなかった身体の揺れが分かるようになっていた。
『続きは帰ってからね』
「ああ」
門を閉め、ギルドへ向かった。
案内されたのは、受付の奥にある小さな応接室だった。
机の上には数枚の書類と、蓋を閉じた箱が置かれている。箱の縁には細かな術式が刻まれ、留め具には封印を示す札が掛かっていた。
「以前、ベルクラードで回収された鈴を覚えていますね」
向かいに座った職員の言葉に、背筋がわずかに強張った。
「……あれに、何かあったんですか」
「保管中に異変が起きました。こちらをご覧ください」
差し出された記録には、発生した時刻と、観測された現象が簡潔に記されていた。
鈴の表面から、黒い粒子が滲み出した。
粒子は周囲を漂った後に消失。現在、同様の現象は確認されていない。
「黒い粒子……」
「次元の亀裂が発生した周辺で確認されたものと、特徴が似ています。まだ、同じものだと断定はできませんが」
帝国で見た亀裂が脳裏をよぎる。
あの向こうから現れた魔族。肌に触れるだけで不快だった、異質な気配。
『私も気になるけれど、今ここで開けてもらうのはやめておきましょう』
肩元に届いた声に、視線だけで応じた。
「今は、何も起きていないんですね」
「はい。封印にも異常はありません。ただ、もう一件、気になる報告が届いています」
次に差し出された書類の上部には、見覚えのある支部名があった。
ベルクラード。
「現地でも、黒い粒子を見たという報告が上がっています。支部から周辺調査の依頼が来ました」
「鈴が見つかった場所との関係は?」
「それも含めて、調べる必要があります」
俺は書類に目を落とした。
目撃場所と時刻。支部が確認した範囲。まだ報告は少なく、大きな被害も出ていない。
だからこそ、何が起きているのか分からないまま放っておくわけにはいかなかった。
「現地を知り、以前の一件にも関わったあなたに、調査をお願いしたいのです。魔族の関与が疑われる件として、王室にも報告を上げます」
最初に冒険者として歩いた街。
あの頃の俺は、依頼書を選ぶだけでも随分と迷っていた。
「分かりました。受けます」
返事に迷いはなかった。
「ただし、異常の規模が不明です。現地の支部と連携し、調査で得た情報を優先してください」
「はい」
書類を受け取り、席を立とうとしたところで、職員がもう一通の封書を取り出した。
「出発前に、アカデミアへ立ち寄っていただけますか」
「アカデミア?」
「以前の『蠍』に関する一件を受けて、試作魔導具の運用試験をお願いしたいと申請が来ていまして。今回の移動に使えるものだそうです」
『今度は何を渡されるのかしら』
セレスの声に、少し楽しそうな響きが混じった。
◇
「……これに乗るのか?」
アカデミアの工房で足を止めると、姉さんが得意そうに口元を緩めた。
「そう。魔導二輪。まだ試作品だけどね」
黒い骨組みに、前後二つの車輪。
中央には魔力を通すための機構が収められ、細長い座席の前から左右に握り手が伸びている。馬車よりずっと小さく、余分な装飾もない。
その分、金属の継ぎ目や刻まれた術式が、妙にはっきりと目についた。
「姉さんが作ったのか?」
「私が担当したのは、魔力の供給調整と姿勢を補助する術式の一部。全部じゃないわ。車体そのものは、別の人たちの仕事よ」
姉さんは車体の横にしゃがみ、外装の一部を指で叩いた。
「魔石からの供給を基本にして、乗り手の魔力でも補えるようにしてあるの。ただし、一度に流しすぎないこと」
「……分かった」
「今の間は何?」
「何でもない」
『最初に言っておいて正解ね』
姉さんが、俺の肩にいるセレスと頷き合う。
どうにも、この二人には勝てる気がしない。
説明を聞き、敷地内の試走路へ押して出る。
跨ってみると、両足は問題なく地面についた。車体の重みが股の間に収まり、握り手を掴むと、自然と少し前に身体が傾く。
「右側で出力を調整。制動はこっち。補助術式があっても、曲がる時に身体を固めないでね」
最初は、歩く程度の速さだった。
二つの車輪で進む感覚に戸惑い、止まる時には思ったより身体が前へ出た。何度か発進と停止を繰り返し、広い弧を描くように曲がる。
視線を近くに落とすより、進みたい先を見る方がいい。
肩から力を抜くと、車体の傾きが急に分かりやすくなった。
「そう。それでいいわ」
試走路の端で、姉さんが手を振っていた。
もう一周して戻ると、姉さんは車体の各部を確認しながら頷いた。
「ちゃんと止まれるし、曲がれるわね。街道に出ても、慣れるまでは速度を上げすぎないこと」
「列車より時間はかかりそうだな」
「特急ならベルクラードまで二時間ほどだもの。でも、これなら現地の調査にも使えるでしょう。出発時刻も気にしなくていいし」
それは確かに助かる。
街に着いてから、毎回足を手配する必要もなくなる。
「戻ったら、走行中に気になったことを教えて。振動とか、曲がりにくさとか。途中で不調が出たら、無理に動かさないで」
「ああ。ありがとう、姉さん」
荷物を固定していると、姉さんが何気ない調子で尋ねてきた。
「そういえば、帝国では勇者にも会ったんでしょう?」
「セフィリアのこと?」
姉さんの手が止まった。
「……名前で呼んでいるのね」
「何度か話したし、一緒に戦ったからな。姉さんも知ってるのか?」
「ええ。友人よ」
「そうだったのか。世間って狭いな」
王都に戻ってから会う機会があったのだろうか。
セフィリアと姉さんが並んで話しているところを想像する。何となく、姉さんの方が話を引っ張っていそうだった。
「どんな話をしたの?」
「どんなって……刀のこととか。あとは、亀裂を塞ぐ時に――」
「刀のことだけ?」
「いや、全部は覚えてないけど」
『アリシア、出発が遅れるわよ』
セレスに言われ、姉さんは一度口を閉じた。
「……そうね。帰ってから聞くわ」
工房の外まで見送られ、俺は魔導二輪に跨った。
低い駆動音が足元で響く。
「じゃあ、行ってくる」
「気をつけて。試作品なんだから、無茶はしないでね」
「分かってる」
ゆっくりと車輪を回す。
振り返ると、姉さんはまだそこに立っていた。
◇
弟の姿が見えなくなってから、アリシアはようやく息を吐いた。
「……聞いてないんだけど」
セフィリアからも、弟からも。
一緒に戦ったというだけなら分かる。けれど、あのあまりにも自然な呼び方は何なのだろう。
別に、二人が知り合って困ることはない。
むしろ、友人と弟が親しくなるのは喜ばしいことだ。
それなのに、自分だけ話を知らずにいたことが、妙に落ち着かなかった。
「帰ってからって言ったけど……」
セフィリアに会えば、その前に聞ける。
そう考え、すぐに首を振った。今は渡したばかりの試作機について、記録を整理する方が先だ。
工房へ戻り、机に広げた用紙を手に取る。
最初の一行を書きかけたところで、また筆が止まった。
「……いつから名前で呼ぶようになったのかしら」
◇
王都の門を抜けると、風の匂いが変わった。
建物の間を通っていた風が、今度は正面から頬を撫でてくる。街道の先は明るく、行き交う荷馬車の向こうまで見渡せた。
十分に距離を取り、少しずつ出力を上げる。
『楽しそうね』
「……分かるか?」
『それだけ顔に出ていればね』
風に髪を揺らしたセレスが、肩で笑った。
身体を運ぶために脚を動かしているわけではないのに、景色が後ろへ流れていく。
馬とも、列車とも違う。
道の凹凸が伝わるたびに力を抜き、車体の動きに身体を合わせた。
腰には獅心がある。
肩にはセレスがいる。
あの街を出た時から、手にしたものは増えた。
それがどこまで通じるのかは、まだ分からない。
「行こう、ベルクラードへ」
街道の先へ視線を向け、握り手を握り直した。
◇
レグルスが王都を発つより、少し前。
訓練場で剣を構えていたセフィリアは、正面に立つ団長の言葉に瞬きをした。
「今の振り方は、窮屈ではないか」
「……窮屈、ですか?」
「ああ。正直に言っていい」
言われて、自分の腕を見る。
何度も教えられ、繰り返してきた形だった。間違えないようにと意識していた分、考えたこともなかった。
「振り下ろした後に、少し。次へ移る時、肩が……」
「なら、構えを少し変えてみろ。俺と同じ位置まで、肘を上げる必要はない」
団長はすぐに手を添えて直すことはしなかった。
こちらが動くのを待っている。
セフィリアは肘を下げ、足の位置をわずかにずらした。
一度振る。
剣先が通り、腕が下りる。その先で、いつも感じていた小さな詰まりが薄れた。
「あ……」
「もう一度だ」
二度、三度と振る。
軽くなった気がした。剣の重さが変わったはずはないのに。
「今の感覚を覚えておけ。ただし、それで完成だとは思うな。動きながらも確かめろ」
「はい。でも……団長。私、教わった形から変えてもいいんですか?」
「基本を崩していいという話ではない。お前の身体で、無理なく剣を働かせろと言っている」
団長は少しだけ黙った。
それから、自分の手へ目を落とした。
「俺とお前では、腕の長さも、肩幅も違うからな」
ブラノールの脳裏に、あの座敷が浮かんでいた。
湯呑みを手にしたラウルは、剣を合わせていた時とは打って変わって、くつろいだ顔をしていた。
勇者への指南を口にした時、返ってきたのは、自らの剣を見つけさせろという助言だった。
時折、技を見せてやれとも言われた。
孫も、そうすると喜ぶのだと。
その言葉を思い返し、ブラノールは剣の柄に手を掛けた。
「少し離れていろ」
セフィリアは頷き、訓練場の端へ下がった。
団長の雰囲気が変わる。
けれど、以前のように空気を押し広げる圧迫感はなかった。
静かだった。
あまりに静かで、瞬きをしてはいけない気がした。
「《初断・竜閃》」
剣が走った。
細い線が、訓練場の向こうへ伸びる。
遅れて、据えられた標的の上半分がずれた。切り離された部分が地面へ落ち、重い音を立てる。
それだけだった。
周囲の土は抉れていない。余波に煽られた砂煙さえ、ほとんど上がらない。
それなのに、セフィリアは息を止めていた。
前に見た時より、ずっと静かだった。
細くなった剣線の中に、力が収まっている。散っていたものが、一つ残らず刃の進む先へ届いたように見えた。
「……綺麗」
思わず、声が漏れた。
団長が剣を下ろす。
その姿を見ながら、胸の奥が熱くなる。
あんなふうに振りたい。
ただ力を出し切るだけでなく、斬ろうとしたものへ、迷いなく届く剣を。
「何が変わったか、分かったか」
「全部は……でも、前より、力が散っていないように見えました」
「そうか」
団長の口元が、わずかに緩んだ。
「俺も、まだ直すところがある」
「クレハルト領で、何かあったんですか?」
「レグルスの祖父であるラウル殿に立ち合っていただいた」
セフィリアは目を見開いた。
「レグルスさんのお祖父様と?」
「ああ」
「……どうして」
「どうした」
「どうして、私も連れていってくださらなかったんですか」
団長が黙った。
その沈黙で、余計に頬へ力が入る。
「私だって見たかったです。団長が、そんなふうに変わる立ち合いなんて」
「急いでいた」
「声を掛ける時間もなかったんですか?」
「……気が変わられるかもしれなかったからな」
「お祖父様の?」
「ああ。次も受けていただけるとは限らん。行ける時に行くべきだと思った」
セフィリアは団長の顔を見つめた。
真面目な顔だった。
けれど、言っていることは、楽しみにしていたものを待ちきれず、一人で駆け出した子供のようだった。
「団長だけ、ずるいです」
「……それは、悪かった」
素直に謝られ、今度はこちらが言葉に詰まる。
もう少し拗ねていたかったのに、困ったような顔を見ると、それ以上は責められなかった。
団長は一度咳払いをし、壁際に置いてあった細長い包みを手に取った。
「それと、渡すものがある」
「何ですか?」
「開けてみろ」
布を解くと、鞘に収まった剣が現れた。
華美な装飾はない。柄は今使っているものより細く、握った時、指が自然に収まった。
「抜いても?」
「ああ」
鞘から刃を引き出す。
光を受けた刀身に、細かな術式が浮かんだ。
軽い。
そう思ってから、違うと気づく。
重さそのものよりも、手元への収まりが違った。剣先を持ち上げても、手首が余計に引かれない。
「王国の鍛冶師に頼んでいた。お前の体格に合わせてある」
「私の……ために?」
「そうだ。試作品だがな。使って、不具合があれば伝えろ」
セフィリアは剣を見下ろした。
自分のために。
いつの間に、そんな準備をしてくれていたのだろう。
「渡すかどうか、少し迷っていた」
団長の声に顔を上げる。
「俺が選んだ剣に、お前を合わせさせることになるかもしれんと思ってな」
「……」
「だが、使ってみなければ分からん。合わなければ直せばいい。お前の剣まで、俺が決める必要はない」
新しい柄を、そっと握り直す。
先ほど教わった構えを取ると、団長が頷いた。
「これから確かめていけ。自分が、どう振るのかを」
「はい」
胸の奥にあった熱が、今度はゆっくりと広がっていく。
「ありがとうございます、師匠」
言ってから、自分で少し驚いた。
けれど、言い直そうとは思わなかった。
目の前の人は、王国騎士団の団長だ。
そして、自分に剣を教えてくれる人だった。
師匠はわずかに目を細めた。
「礼はいい。まずは素振りだ。まだ《極光》は流すなよ」
「……少しだけでも駄目ですか?」
「先に、普通に振った感覚を覚えろ」
「はい、師匠」
今度は、はっきりとそう呼んだ。
試作剣が風を切る。
ブラノールはその動きを見ながら、鍛冶師と交わした話を思い返していた。
勇者の《極光》を受け止め、刃へ伝えられる剣。
通常の魔力とは異なる力を扱うには、まだ分からないことが多すぎる。
素材も、術式も、これから確かめなければならない。
それでも、その先に目指すものはある。
人の手で造る、勇者のための聖剣。
今、少女が振っているのは、その最初の一本だった。
◇
そして、レグルスがベルクラードへ出発した日。
王室からの呼び出しを受けたブラノールとセフィリアに、王都ギルドの報告が示された。
保管されていたアーティファクトの鈴。
そこから生じ、既に消えた黒い粒子。
同じ鈴が発見されたベルクラードでも、類似した異変が確認されているという。
「亀裂そのものは、まだ確認されていないのだな」
ブラノールの問いに、報告を読み上げていた担当官が頷いた。
「はい。ただ、過去の発生地点で見られた現象との類似から、早急な調査が必要と判断されました。ギルドからも、以前の件に関わった冒険者が向かっています」
「誰だ」
「レグルス・クレハルトです」
セフィリアは顔を上げた。
隣で、師匠が短く息を吐く。
「……あいつか」
驚きより、納得の混じった声だった。
「勇者セフィリア殿には、亀裂が確認された場合の封鎖に備え、現地へ向かっていただきます。ブラノール団長には、その同行を」
「承知した」
「はい」
セフィリアも頷いた。
腰にある試作剣の重みを感じる。
あれから何度も振った。
構えを変え、踏み込みを変え、師匠に確かめてもらった。
まだ、自分の剣を見つけたとは言えない。
それでも、何を考えながら振ればいいのかは、少しずつ分かり始めている。
部屋を出ると、師匠がこちらを見た。
「支度ができ次第、発つぞ」
「はい、師匠」
返事をして、歩き出す。
ベルクラード。
レグルスさんが先に向かった、その街へ。
窓から差す光が、腰の鞘を白く照らしていた。




