外伝 第10話 勇者、再会へ続く旅路
王都へ戻った時には、窓の外はすっかり暗くなっていた。
治癒術師にもう一度身体を診てもらい、着替えを終えて椅子へ座る。
机の上には、温かなスープと柔らかなパンが用意されていた。
匙を持つと、指の付け根が少し痛んだ。
亀裂へ向けて剣を構えていた時の感覚が、まだ腕に残っている。
私は匙を置き、両手を開いた。
閉じたのだ。あの黒い亀裂を。
何度思い返しても、最後に倉庫の壁が見えた瞬間だけが、妙にはっきりと蘇った。
扉が叩かれた。
「セフィリア。入ってもいい?」
聞き慣れた声に、顔を上げる。
「はい、どうぞ」
扉が開き、アイシャが入ってきた。
その後ろには、紙束を抱えたアリシアもいる。
私は立ち上がろうとした。
「そのままでいいわ」
アイシャが早足で近づいてくる。
すぐ側まで来ると、私の顔を見て、それから包帯の残る右脚へ目を落とした。
「傷が悪くなったの?」
「いいえ。少し痛みが出ただけです。治癒術師からも、休めば大丈夫だと言われました」
「本当に?」
「はい」
アイシャの肩が、僅かに下がった。
「……よかった」
小さな声だった。
アリシアは机の上を見て、抱えていた紙束を脇へ置いた。
「夕食の途中だったのね」
「まだ食べ始めたばかりです」
「なら、先に食べて。話は後で聞くわ」
「亀裂のことでしたら、今でも――」
「明日でも亀裂の話はできるでしょう」
アリシアが向かいの椅子を引いた。
「今日は、ちゃんと帰ってきたか確かめに来たの」
返事が、すぐには出なかった。
アイシャが隣へ腰を下ろす。
「おかえり、セフィリア」
その言葉を聞いた途端、張っていたものが胸の中で緩んだ。
王都へ来たばかりの頃、この部屋は広すぎた。
扉が閉じれば、自分の呼吸しか聞こえなくなった。
けれど今は、二人がいる。
「……ただいま戻りました」
私が答えると、アイシャが微笑んだ。
アリシアはパンの籠へ目を向けている。
「それ、一つもらってもいい?」
「アリシア。セフィリアの夕食よ」
「分かっているわ。だから聞いているの」
「どうぞ。私一人では、少し多いと思っていたので」
「ありがとう」
アリシアがパンを手に取り、アイシャが呆れたように息を吐く。
私は匙を持ち直した。
スープは、まだ温かかった。
◇
翌日、私はフルーヴィアで起きたことを、覚えている限り話した。
剣に纏わせた極光が、亀裂の縁へ触れたこと。
黒い部分が退き、光が輪郭に沿って伸びていったこと。
強く流しすぎると、急に魔力が減ったこと。
アリシアは時折質問を挟みながら、紙へ書き留めていった。
ブラノールも同席し、私が見ていなかった周囲の変化を補っていた。
「光が上まで届いた時、剣を動かした?」
「いいえ。同じ場所へ当てていました」
「では、刀身から離れた後も、縁に沿って作用が続いたのね」
アリシアの筆が止まる。
紙の上には、亀裂を模した細長い図が描かれていた。
「何か分かりますか」
「《極光》が亀裂を閉じる力を持つこと。それは、今回確認できたわ」
「どうして閉じられるのかは……」
「まだ分からない」
アリシアは顔を上げた。
「でも、何が起きたかを残せば、次に比べられる。前より少ない魔力でできたのか、亀裂の大きさによって違うのか。そういうことを、一つずつ確かめていきましょう」
「はい」
「それと、閉じる前に魔力を使い切らないことね」
私は頷いた。
フルーヴィアでも、最初から何もかも一撃で倒そうとしていたら、最後まで持たなかったと思う。
「接近するまでの戦闘は、護衛が受け持つ」
ブラノールが言った。
「現地の指揮官にも伝える。勇者を亀裂へ到達させ、その場を守る必要がある」
「私も、魔物が近づくと剣を向けそうになりました」
「周囲が持ちこたえているなら任せろ。崩れた時は退く。その判断も覚えろ」
「分かりました、団長」
亀裂を閉じられる。
それは、私の役目が一つ分かったということだった。
同時に、その役目を果たすためには、多くの人の助けが必要なのだと知った。
◇
右脚の痛みが治まり、外を歩く許可が出た日に、私たちは三人で菓子店へ向かった。
大通りから一本入った先にある、小さな店だった。
硝子の向こうには、果実を飾った菓子や、焼き色のついたパイが並んでいる。
扉を開くと、甘い香りが流れてきた。
「ここよ」
アイシャが振り返る。
「前に持っていった焼き菓子も、このお店のものなの」
「今日は種類が多いわね」
アリシアは、すでに陳列棚の前に立っていた。
「どれにしようかしら」
「研究室を出る時より真剣ね」
「選んだ後で後悔したくないもの」
「研究でも、そのくらい慎重にしてくれると安心なのだけど」
「研究は試してみないと分からないでしょう」
アイシャとアリシアのやり取りを聞きながら、私は棚を覗き込んだ。
薄く切った果実を重ねたパイが目に留まる。
「これ、美味しそうですね」
「なら、私は隣のものにするわ」
アイシャが言った。
「少しずつ分ければ、両方食べられるでしょう?」
「それなら、私は三つ選んでもいい?」
「どうして増えるの?」
「三人いるから」
結局、アリシアが選んだのは二つだった。
窓際の席へ座り、運ばれてきた皿を並べる。
私がパイへ刃を入れると、薄い生地が小さく崩れた。
「難しいですね……」
「剣より扱いにくい?」
アイシャの言葉に、思わず笑ってしまった。
「剣とは、勝手が違います」
「お皿まで斬らないでね」
「そんなことはしません」
話しているうちに、私の肩から力が抜けていった。
窓の外では、買い物籠を抱えた人たちが歩いている。
店の奥から、新しく焼けた菓子を並べる音が聞こえた。
次も、この席で二人と話したい。
そう思った。
帰ったら何をしようかと考えられることが、今は嬉しかった。
◇
フルーヴィアで亀裂を閉じたという報告は、やがて国外へも伝わった。
王城には、各国からの問い合わせが届くようになった。
そして、救援の要請も。
私はブラノールとともに、高速魔導艇へ乗り込んだ。
窓の下を流れる景色が変わっていく。
広い平原。幾重にも連なる山々。
地図の上でしか知らなかった国境を越え、その先にある町へ向かう。
初めて国外で亀裂を閉じたのは、山間の街道だった。
道幅が狭く、避難する荷馬車の列が長く延びていた。
私が到着した時、現地の兵士たちは盾を並べ、魔物を坂の下へ通さないようにしていた。
「最後の馬車が通過します!」
声が上がる。
ブラノールが前へ出て、魔物の群れへ踏み込んだ。
私は現地の兵士に導かれ、開かれた道を進んだ。
足元は石畳ではなく、湿った土だった。
靴が沈む。
斜面へ足を取られそうになり、歩幅を小さくした。
「ここなら立てます」
私が伝えると、兵士たちが周囲へ展開した。
剣を抜く。
白金色の光を纏わせ、黒い縁へ触れさせる。
フルーヴィアと同じ重みが、両腕へ伝わってきた。
怖さがなくなったわけではない。
途中で力が尽きたらどうしようという不安もあった。
それでも、光が縁を伝う様子を確かめながら、私は剣を支え続けた。
亀裂が消えた時、側にいた兵士が深く息を吐いた。
「助かりました、勇者様」
額から血を流したまま、その人は笑った。
私は剣を下ろし、頭を下げた。
「守ってくださって、ありがとうございました」
別の国では、魔術式師たちが結界を張り、亀裂の周囲を囲んでいた。
その結界を一部だけ開けてもらい、私たちは中へ入った。
また別の場所では、町から離れた農地に亀裂が開いていた。
踏み荒らされた畑の脇で、一人の老人が何度も畑へ戻ろうとしていた。
家畜が残っているのだと、現地の兵士が教えてくれた。
亀裂を閉じた後、柵の向こうから羊が連れ戻されてきた。
老人はその背を撫で、何かを繰り返し呟いていた。
私は、その光景を覚えている。
国の名前だけでは思い浮かばなかったものが、少しずつ増えていった。
街道で待っていた荷馬車。
結界を支えるために、杖を握り続けていた手。
泥のついた羊の背。
守らなければならない世界には、そういうものが暮らしていた。
◇
王都へ戻れば、報告と検査が待っていた。
十分に休み、身体の状態を確かめてから、訓練場へ向かう。
「始めろ」
「はい!」
斬り下ろし。斬り上げ。横薙ぎ。
何度も繰り返した動きは、以前より滑らかにつながるようになっていた。
右脚の傷も治り、踏み込んだ時に痛むことはなくなった。
それでも、団長からの指摘はなくならない。
「剣を返す前に肩が動いている」
「はい」
「もう一度だ」
私は構え直した。
団長のように振りたい。
その思いは、戦場で剣を見るたびに強くなっていた。
足の位置。腰を回す順序。刃を返す角度。
一つずつ確かめながら、教わった型を身体へ覚え込ませる。
実戦では、その型に助けられることが増えていた。
最初の一撃を受けられても、剣を止めずに次へ移れる。
敵を倒した後に、周囲を見ることも忘れにくくなった。
けれど、団長と同じ動きをしているつもりでも、腕へ余分な力が入ることがあった。
まだ、正確にできていないのだと思った。
私はまた剣を振った。
極光も、少しずつ扱いに慣れていった。
亀裂のどこへ触れさせれば、光が伝わり始めるのか。
どの感覚が出た時に、消耗を伝えるべきなのか。
何度も経験するうちに、分かることは増えていった。
それでも、僅かな量だけを刀身へ留めようとすると、光は思った以上に膨らんだ。
力を長く保つことと、無駄なく使うことは、同じではなかった。
検査を終えるたび、アリシアの紙束が厚くなっていく。
「今日の分も、前の記録と比べておくわ」
「お願いします」
「その代わり、次に国外へ行ったら、お菓子を一つ」
「アリシア」
アイシャが名前を呼ぶ。
「分かっているわ。余裕があれば、よ」
私は小さく笑った。
「持ち帰れるものがあれば、探してみます」
旅から戻る理由が、また一つ増えた。
◇
いつからか、緊急の知らせが届く間隔が長くなっていた。
以前より多くの日を王都で過ごせるようになり、訓練や検査の予定が途中で変わることも減った。
各国から届く報告でも、亀裂の発生数は少なくなっていた。
開いた場合でも、フルーヴィアのような大群が現れる例は減っているらしい。
「このまま、なくなるのでしょうか」
訓練を終えた後、私は団長へ尋ねた。
ブラノールは、手にしていた報告書を閉じた。
「そうなればいいがな」
「団長は、そう思われないのですか」
「減った理由が分からん」
短い答えだった。
「俺たちが閉じたことで、何かが変わったのかもしれん。向こう側に別の事情があるのかもしれん。今ある報告だけでは決められない」
私は訓練剣を見下ろした。
亀裂が減ったと聞いた時、ほっとした。
それは、今も変わらない。
けれど、次に開かないという約束は、どこにもなかった。
「では、今のうちにできることを増やします」
「まずは、今日指摘したところを直せ」
「……はい、団長」
ブラノールが訓練場の中央を示す。
私はもう一度、剣を構えた。
◇
出発しない朝には、故郷へ手紙を書くこともあった。
父様から届く便りには、リュミエールの復旧の様子が綴られていた。
道の修理が終わったこと。
店が再び開いたこと。
畑の収穫を、予定どおり運び出せたこと。
そして最後には、必ず私の身体を気遣う言葉があった。
私は返事に、傷が治ったことを書いた。
王都に友人ができたこと。
剣の訓練を続けていること。
外国の町で食べた料理のこと。
戦いのことを書く時だけは、少し手が止まった。
心配させたくない。
けれど、何も伝えなければ、父様は別のところから届く噂だけを聞くことになる。
私は考えた末に、その日も無事に戻ったと書いた。
最後に、一文を添える。
帰ったら、また庭で剣を見てください。
書き終えた紙を眺め、インクが乾くのを待つ。
窓の外からは、王都を走る魔導列車の音が聞こえていた。
◇
帝国からの知らせが届いた日、私は訓練場にいた。
駆け込んできた騎士の報告を聞き、剣を下ろす。
次元の亀裂。
現地では、すでに対応が始まっているという。
ブラノールが出航の指示を出した。
私は部屋へ戻り、装備を整えた。
青い上衣。軽い胸当て。腰に佩く騎士剣。
留め具を確かめ、鞘が脚の動きを妨げない位置へ直す。
鏡の前で、一度だけ足を動かした。
問題はない。
廊下へ出ると、途中でアイシャに会った。
「出発するのね」
「はい。帝国へ向かいます」
「気をつけて」
「行ってきます、アイシャ様」
アイシャが頷いた。
「帰ったら、話を聞かせて」
「はい」
私は飛行場へ向かった。
高速魔導艇では、従騎士たちが出航の準備を進めていた。
ブラノールが先に乗り込み、術式盤の前で報告を受けている。
私も席へ座り、剣の位置を確かめた。
側面扉が閉じる。
船体が浮き上がり、王都の建物が窓の下へ遠ざかっていった。
「団長。現地の避難状況は分かっていますか」
「確認中だ。到着までに続報が来る」
「亀裂へ向かう経路も、確認をお願いします」
「ああ」
私は頷き、背もたれへ身体を預けた。
到着するまでは、休んでおく。
窓の外を、雲の影が流れていく。
初めてフルーヴィアへ向かった時、私は膝の上で両手を握り締めていた。
今も、不安がないわけではない。
どのような魔族が現れるのか。
どれほど大きな亀裂なのか。
向かっている間に、誰かが傷ついてはいないか。
考え始めれば、きりがなかった。
だから、ゆっくりと息を吐いた。
到着したら、周囲を見る。話を聞く。自分の役目を確かめる。
そのために、今は身体の力を抜いた。
◇
帝国の地へ降りた時、遠くから戦いの音が聞こえた。
呼び交わされる声。
魔法が弾ける音。
その向こうに、見慣れたくない黒い亀裂があった。
私は騎士剣の柄へ手を添えた。
地面を踏み、足元を確かめる。
ブラノールが現地の状況を確認している間にも、人々は動き続けていた。
負傷者を運ぶ者。
避難の方向を指し示す者。
武器を手に、魔物へ向かう者。
ここにも、守ろうとしている人たちがいる。
私は顔を上げた。
その時、一人の青年が目に入った。
黒い髪。腰に佩いた刀。
初めは、人違いかと思った。
記憶にある姿と、どこか違って見えたからだ。
立ち方だろうか。
周囲へ向ける視線だろうか。
何が変わったのか、すぐには言葉にできなかった。
けれど、顔がこちらへ向いた瞬間、分かった。
こんなところで会うとは、思っていなかった。
私が憧れている東方文化の刀を持っていた人、話したいことがいろいろあった。
けれど今は、戦場だった。
私は一度だけ息を整え、その人へ声をかけた。
「……あなたは」
そう言いながら、私は一歩、前へ進んだ。
◇
「魔王側は、リソースを整え始めたか」
その者は冷笑を浮かべた。
「さて、こちらの神は……次にどう駒を動かす?」
問いに答える声はなかった。




