外伝 第8話 勇者、戦列に立つ
地上へ降りた途端、湿った風が頬を打った。
水運都市フルーヴィア。
貨物集積地の西側には大きな川が流れ、石造りの岸壁へ何隻もの運搬船が横づけされている。
船と倉庫の間には荷車が並び、その先で幾筋もの魔導列車線が分かれていた。
積み上げられた木箱。
放置された穀物袋。
荷を吊り上げたまま止まった魔導機械。
つい先ほどまで大勢の人々が働いていた場所へ、魔物の咆哮が響いていた。
「騎士団長殿!」
駐留騎士団の一人が駆け寄ってきた。
兜の下から覗く顔には、汗が浮かんでいる。
「現在、第一隊が北側の線路沿いで交戦中。第二隊は倉庫群と河岸の避難を誘導しております!」
「船は出せるか」
「積み荷を下ろせば、すぐにでも」
「荷はそのままでいい。乗せられる人数だけ乗せて、下流へ離れさせろ。陸路の避難は南側の橋へ集めるな。東の街道と分けろ」
「承知しました!」
「上空への警戒を切らすな。飛び越えた敵は後列の魔術師が落とせ。前列は追うな」
ブラノールが歩き出す。
腰の少し上へ斜めに佩いていた長剣を抜くと、周囲の騎士たちが道を開けた。
「ここからは俺が指揮を執る。各隊長へ伝えろ」
「はっ!」
返事をした騎士が、私へ視線を向けた。
一瞬だけ目を見開く。
「勇者様も……」
「セフィリアは避難の援護に入る。東側の倉庫へ案内をつけろ」
その言葉に、若い騎士が進み出た。
「私がご案内します!」
「お願いします」
そう答えた直後、頭上を黒い影が横切った。
翼のある魔物だった。
鋭い爪を前へ突き出し、倉庫の屋根すれすれを飛んでいく。
その姿を見た瞬間、足が止まった。
黒い翼。裂けた口。
人に似ていながら、人とは決定的に違う身体。
忘れようとしても忘れられなかった姿が、すぐ近くにある。
「弓隊、右上!」
誰かが叫ぶ。
放たれた矢の一本が翼を貫き、魔物が屋根へ激突した。
瓦が砕ける。
それでも魔物は止まらず、屋根へ爪を立てて起き上がった。
喉の奥が狭くなった。
「セフィリア。息を吐け」
団長の声が届いた。
私は浅く息を吐いた。
「もう一度だ」
今度は、少し長く。
握り締めていた剣の柄が、手の中で僅かに動く。
「お前の持ち場へ行け」
「……はい、団長」
ブラノールが北側へ走る。
私は若い騎士の後を追い、倉庫の間へ入った。
◇
「こちらです!」
倉庫の裏手には、まだ十数人の作業員が残っていた。
二人がかりで負傷者を支えている者もいれば、腰を抜かして動けなくなった者もいる。
若い騎士が、近くの作業員へ負傷者を託した。
「東の街道へ! 白い旗のある場所に救護班がいます!」
「分かった!」
人々が動き出す。
私は列の最後尾へ回り、倉庫の角から北側を窺った。
線路の向こうで、騎士たちの盾が並んでいる。
その上を、魔法の光が飛び交っていた。
「勇者様、こちらも移動を――」
若い騎士の声が途切れた。
頭上で瓦が鳴った。
見上げるより先に、黒い影が落ちてくる。
「下がってください!」
私は前へ出た。
石畳へ降り立った魔物が、翼を広げる。
先ほど矢を受けた個体だった。
片方の翼には穴が開き、折れた矢柄が突き出している。
赤い目が、私の剣を捉えた。
魔力を流す。
白金色の光が刀身を包んだ。
眩しさに魔物が顔を歪める。
私は右足を踏み込んだ。
「はっ!」
正面から斬り下ろす。
魔物が両腕を交差させた。
刃が硬い爪へ食い込み、腕に衝撃が返ってくる。
止められた。もっと力を。
そう考えかけた時、訓練場で聞いた団長の声が頭を過ぎった。
一撃目の後には、二撃目がある。
押し込もうとしていた力を抜く。
刃を相手の腕に沿わせて流し、身体の横へ落とした。
魔物の爪が、私の顔へ伸びる。
左足を運ぶ。
下から返した剣が、伸ばされた腕を肘の下から斬り飛ばした。
悲鳴が上がる。
そこで止めない。
腰を回す。足裏で石畳を押し、横薙ぎへつなげる。
白金色の刃が、魔物の首を通り抜けた。
黒い身体が崩れた。
私は剣を引き戻した。
息が荒い。
倒せた。
そう思った直後、倉庫の奥で何かが動いた。
もう一体。
「左から来ます!」
「見えています!」
今度は、すぐに身体を向けられた。
魔物が飛びかかってくる。
私は一歩退き、振り下ろされた爪を剣で外へ逸らした。
横から若い騎士の槍が伸びる。
穂先が魔物の脇腹を貫いた。
「今です!」
私は剣を振り下ろした。
魔物が石畳へ倒れ、動かなくなる。
刀身の光を消す。
静かになったわけではない。
離れた場所では、まだ剣戟も咆哮も続いている。
それでも、私たちの前を塞ぐものはいなくなっていた。
「ありがとうございます」
若い騎士が槍を引き抜いた。
「こちらこそ、助かりました」
振り返る。
作業員たちは、倉庫の向こうへ抜けようとしていた。
誰も倒れていない。
私はもう一度、周囲を見た。
「行きましょう」
「はい!」
走りながら、剣を握る指へ力を入れ直す。
まだ怖かった。
爪が顔へ迫った瞬間には、身体が固まりそうになった。
けれど、剣は次へ動いた。
毎朝繰り返した動きが、私を立たせてくれていた。
◇
倉庫群の東側まで避難の列を送り届けた頃には、背中が汗で濡れていた。
《極光》を使っていた時間は、それほど長くない。
それでも、身体の奥から魔力が減っている感覚がある。
弱く流そうとしても、光は思った以上に強くなる。
剣を振ることに意識を向ければ、今度は流す量が分からなくなった。
「勇者様、少しお休みを」
「まだ大丈夫です。ほかに残っている方は?」
「河岸の確認が終わっていません。今、別の班が――」
「誰か! こっちだ!」
倉庫の反対側から声がした。
若い騎士と顔を見合わせ、角を曲がる。
川へ続く荷運び用の通路で、一台の荷車が横倒しになっていた。
その脇に、年配の作業員が座り込んでいる。
右脚が車輪と石段の間に挟まれていた。
「動かせますか!」
「二人で持ち上げれば……!」
若い騎士が荷車へ手をかける。
私も剣を鞘へ収め、反対側を持った。
「せーの!」
荷車が僅かに浮く。
作業員が脚を引き抜き、通路へ転がった。
「ありがとう、助かっ――」
その顔が強張った。
川側の低い屋根から、魔物が跳んだ。
私は荷車から手を離し、剣を抜く。
光を纏わせる時間はなかった。
作業員の前へ入る。
右足を踏み込もうとして、爪先に荷車の縁が触れた。
いつもの幅では踏み込めない。
足を近くへ置く。
身体を横へ向けながら、剣を斜めに立てた。
爪が刃の上を滑り、重い衝撃が肩を抜ける。
私はそのまま小さく回り、魔物の横へ出た。
剣を返す。
無防備な首筋へ、刃が深く入った。
魔物が暴れた。
抜こうとした剣が骨へ引っかかり、手首を持っていかれそうになる。
「押さえます!」
若い騎士の槍が、魔物を横から石壁へ縫い止めた。
私は両手で柄を引き、ようやく剣を抜いた。
血が石畳へ散る。
息を吐くと、右脚の奥が鈍く痛んだ。
「勇者様!」
「脚が、少し痛みました。歩くことはできます」
隠さずに答えた。
若い騎士が頷き、作業員へ肩を貸す。
「ここは私が。向こうの隊と合流してください」
「お願いします」
作業員が何度も頭を下げながら離れていく。
私はその背中を見送り、剣先を下げた。
今の動きは、訓練場とは違っていた。
踏み込みも浅かった。
それなのに、爪を受け流した時だけは、不思議なくらい身体が軽かった。
「セフィリア」
声に振り向く。
北側の通路から、ブラノールが歩いてきていた。
長剣の先から、黒い血が落ちている。
「避難は」
「東側の倉庫は終わりました。今の方が、こちらに残っていた最後の一人だと思います」
「河岸も確認が取れた。北の荷役場を残して、退避は済んでいる」
団長が私の足元を見た。
「脚は」
「今、少し痛みました」
「後列へ入れ。走って追うな」
「はい」
私は頷き、団長の後について通路を抜けた。
視界が開く。
北の荷役場では、魔物の群れが騎士たちの盾へ押し寄せていた。
その向こうに、亀裂がある。
到着した時よりも、さらに大きい。
下端は地面のすぐ上まで伸び、赤黒い景色が倉庫の壁と重なって見えた。
騎士たちの魔法が飛ぶ。
炎の塊が魔物を焼き、続く風の刃が翼を裂いた。
そのうちの一本が、亀裂の縁へ触れた。
消えた。
弾かれたわけではなかった。
黒い縁に触れた部分から、風の刃が欠け落ちた。
残った光も、そのまま跡形なく失われる。
「今のは……」
呟いた時、地面が揺れた。
◇
亀裂の奥から、巨大な頭が現れた。
平たく潰れた顔。
顎の左右から突き出す牙。
目は小さく、厚い骨の下で赤く光っている。
続いて、前脚がこちらの地面へ降りた。
石畳が砕けた。
「大型!」
騎士の声が響く。
魔物が、亀裂から身体を引き抜いた。
四本の脚で立つ身体は、荷車を何台も並べたほど大きい。
背中には黒い甲殻が幾重にも重なり、肩から生えた突起が貨物用の標識を折った。
近くにいた翼の魔物が踏み潰される。
巨大な顎が開き、唾液が糸を引いた。
「前列、下がれ!」
ブラノールが命じた。
騎士たちが盾を構えたまま退く。
後列から炎の槍が飛んだ。
甲殻へ突き刺さり、爆ぜる。
煙の中から現れた巨体には、焦げた跡が残っているだけだった。
魔物が頭を下げた。
四本の脚が石畳を掻く。
突進してくる。
「中央を空けろ! 左右へ退避!」
ブラノールが前へ出た。
私は近くの騎士とともに、倉庫の脇へ退いた。
荷役場の中央に、ブラノールだけが残る。
その先では、巨大な魔物が石畳を踏み砕きながら迫っていた。
団長の眼帯の奥へ、力が集まっていくのを感じた。
肌が粟立つ。
私は思わず、息を止めた。
ブラノールが長剣を構える。
刀身へ集まった魔力が、刃に沿って濃く輝いた。
構えにも、足の運びにも、淀みがない。
あれほどの巨体が迫っているのに、団長は少しも急いでいるように見えなかった。
魔物が顎を開く。
長剣が頭上へ上がった。
「《初断・竜閃》」
踏み込みとともに、剣が振り下ろされた。
鋭い光が、荷役場を一直線に走る。
魔物の額が裂けた。
分厚い甲殻を断ち、斬撃が背中まで通り抜ける。
その下で、石畳が乾いた音を立てて割れた。
剣の軌跡に沿って砂煙が上がる。
巨体はなお一歩進もうとして、左右へ崩れ落ちた。
重い音が地面を伝い、足裏を震わせる。
吹きつけた風に、私は目を細めた。
砂煙が薄れていく。
魔物の下には、深い斬り跡が一本、真っ直ぐに延びていた。
その縁では石が欠け、ところどころに短い亀裂が走っている。
ブラノールはすでに剣を引き戻し、亀裂から現れる次の敵へ顔を向けていた。
「前列を戻せ。残りを落とすぞ」
「はっ!」
騎士たちが動き出した。
私は、まだ団長の剣から目を離せずにいた。
あの巨体を、一撃で。
剣を上げ、踏み込み、振り下ろす。
毎朝、私も繰り返している動きだった。
けれど、団長の剣は、構えた瞬間から振り終えるまで一つにつながっていた。
どこにも迷いがない。
あの硬い甲殻へ触れても、刃は進む方向を変えなかった。
私も、いつかあのように振れるのだろうか。
柄を握る自分の手へ、僅かに力が入った。
「勇者様、後列はこちらへ!」
呼ばれ、私は足を動かした。
今の自分にも、することがある。
負傷して退いてきた騎士へ肩を貸し、倉庫の陰まで運ぶ。
戻る途中で、もう一度亀裂を見た。
巨大な魔物は倒れた。
翼のある魔物も、その数を減らしている。
けれど、黒い裂け目は閉じていなかった。
◇
「亀裂、拡大しています!」
報告を受け、ブラノールが顔を向けた。
黒い縁が波打っている。
その向こうでは、まだ無数の影が動いていた。
「また出てくるぞ!」
「負傷者を先に下げろ。防衛線を南へ移す」
騎士たちが互いに声をかけ、退き始める。
私は盾を持つ騎士の後ろで、北側を見ていた。
リュミエールでは、戦いが終わった後に亀裂も消えていた。
けれど、目の前にあるものは違う。
縁を覆う黒いものが、何度も膨らんでいる。
裂け目を、内側から押し広げているように見えた。
剣を握る手が、熱くなった。
「……え?」
まだ魔力は流していない。
それなのに、指先へ小さな疼きがある。
視線を落とす。
刀身は、普段の鋼の色をしていた。
「後列、下がれ!」
声に顔を上げた。
亀裂の下端が、こちらへ伸びていた。
空中を裂く黒い線が、石畳すれすれを走る。
その進路に、折れた貨物用の支柱があった。
黒い線が触れる。
支柱の中央が消えた。
切断面さえ見えなかった。
支えを失った上半分が傾き、音を立てて落ちる。
「近づくな!」
ブラノールが叫ぶ。
騎士たちが退く。
私の前にいた盾持ちの騎士が、足元の枕木につまずいた。
膝が地面へ落ちる。
黒い線が、その背へ近づいていた。
私は騎士の襟元を掴んだ。
「こちらへ!」
後ろへ引く。
右脚に痛みが走った。
踏ん張り切れず、二人でよろめく。
間に合わない。
私は剣を差し出した。
白金色の光が、刀身を覆った。
光が、黒い線へ触れた。
手の中で、剣が震えた。
斬った時の感触はなかった。
重いものを押し返すような抵抗が、腕から肩へ伝わってくる。
私は歯を食いしばった。
黒い線が止まった。
その先端が、僅かに縮む。
白金色の光に触れている部分から、黒いものが剥がれるように消えていった。
「セフィリア!」
団長が私の肩を掴み、後ろへ引いた。
剣が黒い線から離れる。
私は騎士とともに、数歩分退いた。
「怪我は」
「ありません……!」
盾持ちの騎士が答える。
団長が私を見た。
私は頷こうとして、亀裂を見たまま止まった。
黒い線があった場所に、向こうの荷役場が見えている。
歪んだ赤黒い景色が消え、石畳と倒れた支柱が、普通に続いていた。
「今、閉じました」
自分の声が、妙にはっきり聞こえた。
「光が触れたところだけ……」
「ああ。見た」
ブラノールも、同じ場所を見ていた。
私の剣ではなかった。
剣を覆っていた、《極光》。
あの黒いものへ触れた時、確かに押し返した。
亀裂が伸びてくるのを止め、その一部を元へ戻した。
私は刀身へ目を落とした。
白金色の光は、まだ揺れている。
この力に名前があると知った時のことを思い出した。
誰かに教えられたわけではなかった。
頭の中へ、《極光》という言葉が浮かんだ。
今も、それに似ていた。
なぜできるのかは分からない。
どうして、この光だけが届くのかも。
けれど、触れた瞬間に感じたものは、まだ手の中へ残っていた。
「団長」
「何だ」
「私なら、閉じられるかもしれません」
口にすると、胸が強く脈打った。
大きな亀裂を見上げる。
今、消えた部分など、全体からすればほんの僅かだった。
あれをすべて閉じる。
考えただけで、剣を握る手が強張る。
「今ので、どれほど使った」
団長の問いに、私は身体の奥へ意識を向けた。
「魔物を斬った時より、多く……。ですが、まだ使えます」
「全部閉じるまで持つか」
「分かりません」
その言葉だけは、誤魔化せなかった。
アリシアの顔が浮かぶ。
分からないものを、分かったつもりで教えることはできない。
私は剣先を下げ、光を消した。
「でも、今のように少しずつなら、確かめられます」
団長は黙って私を見た。
その間にも、亀裂の奥から新たな翼が現れる。
後列の魔術師が放った炎に包まれ、地面へ落ちた。
次の影が、その後ろに続いている。
「無理だと判断したら退く。俺が止めた時もだ」
「はい」
「これ以上、魔物に力を使うな。剣は亀裂へ向けるために残しておけ」
ブラノールが振り返った。
「各隊、聞け!」
よく通る声が、荷役場へ響いた。
「勇者の力で、亀裂の一部が消えた。これより接近し、閉鎖を試みる!」
近くにいた騎士たちが、私を見る。
私は剣を握り直した。
「中央は俺が開く。左右の敵を押さえろ。後列は上空を警戒。退路を必ず残せ!」
「承知しました!」
盾が並ぶ。
槍が前へ向けられる。
先ほど倉庫でともに戦った若い騎士が、私の隣へ戻ってきた。
「避難は済みました。こちらにつきます」
「ありがとうございます」
「足元は私が見ます。勇者様は、前を」
私は頷いた。
ブラノールが先頭へ立つ。
その向こうで、黒い亀裂が大きく脈打った。
赤黒い景色の奥に、何かがいる。
翼のある魔物たちが、左右へ離れた。
開いた隙間を、一つの影が歩いてくる。
二本の脚。
真っ直ぐに伸びた背筋。
その歩き方を見た瞬間、喉が冷たくなった。
ブラノールの長剣が、僅かに上がる。
「手を止めるな、セフィリア」
団長の声が、私へ届いた。
「あれは俺が受け持つ」
私は息を吐いた。
剣へ、白金色の光を灯す。
「はい、団長」
騎士たちと足を揃え、私は亀裂へ向かって進み始めた。




