外伝 第7話 勇者、再び戦場へ
休息日が終わった翌朝。
私は、再び王城の訓練場へ立っていた。
手にしているのは木剣ではない。
刃を潰した訓練用の騎士剣。
実戦で使っているものと重さも長さも近く、両手で構えると、ずしりとした重みが腕へ伝わってくる。
「始めろ」
正面に立つブラノールの声が響いた。
「はい!」
右足を踏み込む。
一撃目は、正面からの斬り下ろし。
剣を止めず、その勢いを利用して身体の横へ流す。
左足を前へ運びながら剣を返し、二撃目の斬り上げ。
さらに腰を回転させ、三撃目の横薙ぎへつなげる。
風を切る音が、三度続いた。
「遅い」
最後の横薙ぎを止めた直後、団長の声が飛んでくる。
「二撃目へ移る時、右肩が下がっている。それでは剣を戻す動きが相手に読まれる」
「申し訳ありません。もう一度お願いします」
「謝る必要はない。直せ」
「はい」
剣を構え直す。
一撃目。
二撃目。
三撃目。
「右足が流れている」
また剣を構える。
「踏み込みが深すぎる」
もう一度。
「剣だけを振るな。脚から腰、腰から肩へ力を伝えろ」
言われたとおりに身体を動かそうとする。
団長の剣は、一つ一つの動きが途切れない。
斬り下ろした時には、すでに次の斬り上げへ移るための体勢ができている。
斬り上げた剣は、そのまま横薙ぎへつながる。
余分な動きがなく、どこで攻撃が終わったのかさえ分からない。
私は、その型を正確に再現しようとしていた。
以前の私ならば、最初の一撃へすべての力を込めていた。
避けられた後のことなど考えず、相手を倒すためだけに剣を振っていた。
けれど、今は違う。
一撃目を避けられても、二撃目がある。
二撃目を受けられても、三撃目へつなげられる。
団長の型を学び始めてから、私の剣は確かに変わっていた。
「もう一度だ」
「はい!」
再び踏み込む。
斬り下ろしから、斬り上げへ。
二撃目へ移る途中、右脚の傷があった場所に小さな痛みが走った。
僅かに重心が崩れる。
その瞬間、団長が動いた。
腰の少し上へ斜めに佩いていた長剣を鞘ごと外し、私の右足の前へ差し出す。
「止まれ」
踏み出した右足が、鞘へ触れる直前で止まった。
「今、痛んだな」
「……少しだけです」
「少しでも痛みは痛みだ。隠すな」
「ですが、動けないほどではありません」
団長は私の右脚へ視線を向けた。
何かを考えるように、僅かに眉を寄せる。
「一度、休憩を――」
そう言いかけた時、訓練場の入口から一人の騎士が駆け込んできた。
「団長、次元境界観測所からの定時報告です」
差し出された書類を、団長が受け取る。
「異常は」
「昨夜、王国北部と西部で小規模な揺らぎを観測しました。ただし、空間の断裂には至っておりません」
「国外は」
「帝国とルミナス魔導連合からも、同様の報告が届いています。現在、各国の観測所が警戒を継続しています」
「分かった。何か変化があれば、時間を問わず報告しろ」
「承知しました」
騎士が一礼し、訓練場から出ていく。
ブラノールは書類へ視線を落としたまま、しばらく動かなかった。
「あの……」
声をかけると、ようやく顔を上げる。
「何だ」
「次元の亀裂は、また開くのでしょうか」
「分からん」
ブラノールは書類を折り畳み、腰へ差し込んだ。
「次に開くのが明日なのか、一年後なのか。それとも、二度と開かないのか。今の俺たちには何も分からない」
「では、先ほどの揺らぎというものは……」
「次元の境界が不安定になっている証拠ではある。だが、それだけだ」
団長の視線が、私の手にある騎士剣へ向けられる。
「だからこそ、急ぐ必要がある」
「急ぐ……」
「次の亀裂が開いた時、俺が近くにいるとは限らない」
リュミエールでの戦いが、頭を過ぎった。
極光を使い果たし、地面へ膝をついた私。
魔族の手が首へ伸び、心臓へ影の刃を向けられた。
団長の到着が僅かでも遅れていれば、私は死んでいた。
「俺の剣は、長い実戦の中で組み上げてきたものだ」
ブラノールが、鞘に収めた長剣を再び腰の少し上へ佩く。
柄が右上を向き、鞘の先端が左下へ傾いた。
「お前が一から自分の剣を作るよりも、完成している型を覚えた方が早い」
「はい」
「まずは、この型を身体へ刻め。考えなくても次の剣が出るようになるまで繰り返せ」
ブラノールは、先ほど一度は止めようとした訓練場の中央を示した。
「少し休んだら再開する。右脚に強い痛みが出た場合は、すぐに言え」
「分かりました」
私は騎士剣を胸元へ抱え、訓練場の端へ向かった。
その時の私には、団長の判断が間違っているとは思えなかった。
実際、彼の型を学ぶたびに、私は強くなっていた。
それでも。
私の右脚を見つめた団長が、なぜあれほど迷っていたのか。
その理由を知るのは、ずっと後のことだった。
◇
午前の訓練を終え、用意された部屋へ戻ろうとすると、廊下の先にアイシャが立っていた。
「お疲れさま、セフィリア」
「アイシャ様。どうされたのですか?」
「以前、紹介したい人がいると言ったでしょう?」
「ノヴァ・アカデミアの術式師の方ですね」
「ええ。ようやく捕まえたの」
「捕まえた……?」
「放っておくと、研究室から何日も出てこない人だから」
アイシャは何でもないことのように言う。
紹介してもらって、本当に大丈夫な人物なのだろうか。
「すぐに出られる?」
「着替えてからでもよろしいですか? このままでは、少し……」
訓練着は汗と砂で汚れている。
「もちろん。馬車を用意して待っているわ」
「ありがとうございます」
部屋へ戻り、身体を拭いてから青を基調とした上衣へ着替える。
腰には、リュミエールから持ってきた騎士剣を佩いた。
王城の正門へ向かうと、紋章を目立たなくした馬車と、数名の護衛騎士が待っていた。
私が乗り込むと、アイシャが向かいの席から身を乗り出してくる。
「今日は、あの変装した騎士団長はいないから安心して」
「団長のことですか?」
「ほかに誰がいるの?」
「前回も、命令で護衛されていたのですよね」
「ええ。だから怒ってはいないわ。ただ、あの姿で平然と植え込みから出てこられると、どう反応すればいいのか困るでしょう?」
深く被った帽子。
目元を隠す色の濃い眼鏡。
普段より目立たない色の服を着たブラノールを思い出す。
本人は周囲へ溶け込んでいるつもりだったようだが、立っているだけでどこか近寄り難かった。
「私は、少し似合っていたと思います」
「セフィリアは優しいのね」
馬車が静かに動き始める。
王城の敷地を出ると、窓の外には多くの人々が行き交う王都の大通りが見えた。
「今日会う方は、アイシャ様のご友人なのですか?」
「そうよ。少し年上だけど、昔から付き合いがあるの」
「どのような方なのでしょうか」
「優秀で、真面目で、礼儀正しい術式師よ」
「それなら安心しました」
「少なくとも、人前ではね」
「人前では?」
問い返しても、アイシャは楽しそうに微笑むだけだった。
◇
ノヴァ・アカデミアは、王都の北側に広大な敷地を持つ魔術学園だった。
正門の向こうには、白い石造りの校舎がいくつも並んでいる。
敷地の各所には背の高い尖塔が立ち、その周囲を淡い光の帯が巡っていた。
魔力の流れを調整する巨大な術式らしい。
門をくぐった瞬間から、肌へ触れる空気が王城とは違って感じられた。
杖や魔導書を持った生徒たちが行き交い、離れた演習場からは魔法が弾ける音が響いている。
「あれは……」
私たちに気づいた生徒が足を止めた。
「勇者様ではないか?」
「どうしてアカデミアに……」
小さな声が、周囲へ広がっていく。
視線が集まり、無意識に身体が強張った。
その時、アイシャが私の手を取った。
「こちらよ、セフィリア」
「アイシャ様?」
「正面から行くと人が集まるから、別の道を使いましょう」
アイシャに引かれ、校舎脇の細い通路へ入る。
王女である彼女が、迷うことなく裏手の道を進んでいく。
「よくご存じなのですね」
「何度も来ているもの。正面玄関を通ると、私も捕まってしまうから」
「王女様でも、捕まるのですか?」
「教師たちにね。せっかくですから授業を見学されては、式典でお言葉を、研究費について陛下へお願いを――と、次々に頼まれるの」
「それは……大変ですね」
「だからアリシアの研究室へ行く時は、いつもこちらを使うの」
校舎の裏口から中へ入り、長い廊下を進む。
二階へ上がり、さらに渡り廊下を通った先で、アイシャが一枚の扉を開けた。
「アリシア。連れてきたわよ」
部屋の中から返事はなかった。
最初に目へ入ったのは、机や床を埋め尽くす大量の紙だった。
複雑な術式が描かれた紙。
魔導器具の部品。
色の異なる液体が入った硝子瓶。
壁際の棚にも魔導書が隙間なく詰め込まれ、その一部が崩れかけている。
部屋の中央にある机では、私たちより少し年上に見える少女が、一枚の術式紙へ顔を近づけていた。
「アリシア」
「もう少し待って。ここの接続が、どうしても安定しないの」
「勇者を連れてきたのだけど」
「勇者でも術式の接続は待ってくれないわ」
少女は紙へ新しい線を書き加えた。
直後、術式の一部が赤く光り、小さな煙を上げる。
「あ」
少女が短く声を漏らした。
術式紙の中央が黒く焦げ、そのまま二つに裂ける。
「……待たせたわね」
何事もなかったように立ち上がり、こちらを向く。
身につけているのは、ノヴァ・アカデミアの制服だった。
長い髪は作業の邪魔にならないよう、後ろで簡単にまとめられている。
少女は服についた紙の切れ端を払い、背筋を伸ばした。
「初めまして。ノヴァ・アカデミアで術式を学んでおります、アリシア・クレハルトと申します」
先ほどまでとは別人のような、丁寧な挨拶だった。
「セフィリア・アウロラです。本日は、私のためにお時間をいただき、ありがとうございます」
「いえ。勇者様の力を調べる機会をいただけることは、術式師として大変光栄――」
「アリシア」
アイシャが、その言葉を遮った。
「何?」
「いつまで猫をかぶっているつもり?」
「初対面なのだから、これくらい普通でしょう」
「私が迎えに来た時は、面倒だから一人で検査しておいてと言っていたではないですか」
「アイシャ。それは本人の前で言わないで」
アリシアの丁寧な口調が、早くも崩れた。
「えっと……」
「ごめんなさい、セフィリアさん。検査が面倒なのではなく、少し術式がいいところだったの」
アリシアは焦げた術式紙を見下ろす。
「結果的には、まったくよくなかったけれど」
思わず、アイシャと顔を見合わせる。
「紹介するわ。アリシア・クレハルト。私の友人で、アカデミアでも指折りの術式師よ」
「その紹介は少し大げさね」
「では、研究室を何度も焦がしている術式師」
「最初の方でお願い」
二人のやり取りに、張りつめていた力が少しだけ抜けた。
アリシアが部屋の奥にある台を示す。
「さっそくで悪いけれど、《極光》を見せてもらってもいい?」
「はい。何をすればよろしいですか?」
「普段、剣へ込めている量よりも少なくていいわ。できるだけ弱く流してみて」
「分かりました」
台の周囲には、複数の術式紙が置かれている。
アリシアがそれぞれの位置を調整し、床へ魔力を流す。
紙に描かれた術式が、淡い青色の光を帯びた。
「これは魔力の流れと属性を調べるための術式よ。前に王城で使ったものより、細かな変化まで記録できるように組み直してあるわ」
「短い期間で作ったのですか?」
「正確には、元々研究していた別の術式を無理やり作り替えたの。だから、少しくらい壊れても気にしないで」
「壊れることが前提なのですか?」
「念のためよ。たぶん大丈夫」
アイシャが、私の横から小さな声で囁く。
「アリシアの『たぶん大丈夫』は、あまり信用しない方がいいわ」
「聞こえているわよ」
私は腰の騎士剣を抜き、両手で構えた。
ブラノールとの訓練を思い出す。
全身に広がる魔力を感じ取り、そのうちの僅かな量だけを剣へ流す。
少しだけ。
灯火をともす程度。
そう意識したはずだった。
白金色の光が、一気に刀身を包み込んだ。
「――っ!」
床へ置かれていた術式紙が激しく明滅する。
青かった光が白く塗り潰され、部屋に並ぶ魔導器具が一斉に甲高い音を立てた。
「止めて!」
アリシアの声に、すぐ魔力を断つ。
白金色の光が消えた。
術式紙からも光が失われ、静けさが戻ってくる。
「申し訳ありません!」
「大丈夫。壊れてはいないわ」
アリシアは床へ膝をつき、術式紙を一枚ずつ確認していく。
「やっぱり、普通の光属性とは違う」
「何か分かったのですか?」
「いいえ。正直に言えば、分からないことが増えたわ」
「そうですか……」
落胆を隠せずにいると、アリシアが一枚の術式紙を拾い上げた。
本来ならば属性に応じた色へ変化するはずの線が、すべて白く塗り潰されている。
「属性を剣へ纏わせること自体は、珍しい技術ではないの」
アリシアは壁際に置かれていた短い訓練剣を手に取った。
柄を握ると、刀身へ淡い青色の魔力が流れていく。
青い光は少しずつ水へ変わり、薄い膜となって剣を包んだ。
「私も水属性を剣へ纏わせることができるわ」
「綺麗……」
刀身を覆う水は、床へ一滴も落ちていない。
剣の形に沿って流れ続けながら、薄い刃のように保たれている。
「水属性なら、流れを作って刀身の表面へ留めればいい。火、風、土についても、これまで多くの術式師や剣士が扱ってきた記録がある。性質が確認されている属性なら、魔力の流し方や纏わせ方について私にも助言できるわ」
アリシアが魔力を止めると、剣を覆っていた水が崩れ、床へ落ちる前に青い光となって消えた。
「でも、《極光》は違う」
白く変色した術式紙へ視線を戻す。
「そもそも、これが既存の属性と同じものなのかも分からない。光属性が変化したものなのか、勇者だけが使えるまったく別の力なのか。それすら、今の術式では確認できなかった」
「では、どうすれば剣へ上手く纏わせられるのでしょうか」
「ごめんなさい。今の私には答えようがないわ」
アリシアは、はっきりと言った。
「分からないものを、分かったつもりで教えることはできない。私の推測を信じて使い方を誤れば、傷つくのはセフィリアだから」
「……はい」
「ただ、調べることまで諦めるつもりはないわ。すぐに答えを出せるとは約束できないけれど、今日の記録を使って、もう一度術式を組み直してみる」
「ありがとうございます、アリシアさん」
「アリシアでいいわ」
「ですが、今日初めてお会いしたばかりですし……」
「アイシャの友人なのでしょう?」
「はい」
「なら、たぶん私とも長い付き合いになるわ。私もセフィリアと呼んでいい?」
一瞬、返事が遅れた。
王都へ来てから、私を名前で呼んでくれた最初の人がアイシャだった。
そして今、二人目ができようとしている。
「はい。よろしくお願いします、アリシア」
「だから、敬語もいらないわ」
「それは、もう少し時間をください」
「分かった。無理に変えなくてもいいけどね」
◇
検査が終わると、アイシャが持ってきていた箱を机の上へ置いた。
蓋を開くと、中には果実を使った小さな焼き菓子が並んでいた。
「検査に付き合ってもらったお礼よ」
「さすがアイシャ。よく分かっているわね」
アリシアが、迷うことなく一つ手に取る。
先ほどまで魔力の流れについて話していた時とは違い、その表情は年相応に柔らかい。
「アリシアは、甘いものがお好きなのですね」
「好きよ。研究していると、すぐに頭が疲れるもの」
「もう三つ目よ」
アイシャが呆れた声を出す。
「これは二つ目」
「私たちが《極光》を見ていた間に一つ食べていたでしょう」
「あれは検査前だから数に入らないわ」
「どういう数え方なの?」
二人のやり取りを見ていると、自然に笑みがこぼれた。
それに気づいたアイシャが、嬉しそうに私を見る。
「ようやく笑ったわね」
「私、そんなに難しい顔をしていましたか?」
「アカデミアへ来てから、ずっと肩へ力が入っていたもの」
「勇者として注目されれば、仕方がないでしょう」
アリシアが、もう一つ焼き菓子へ手を伸ばす。
それをアイシャが先に取った。
「あ」
「これはセフィリアの分よ」
「まだ残っているでしょう?」
「あなたが全部食べる前に分けているの」
アイシャから焼き菓子を受け取る。
一口食べると、柔らかな生地の中から甘酸っぱい果実の味が広がった。
「美味しいです」
「でしょう? 王都でも人気のお店なの」
「今度、三人で行きましょう」
アリシアが何気なく言った。
「私も一緒に行ってよろしいのですか?」
「そのために言ったのだけど」
「アリシアは研究室から出すだけでも苦労するから、先に日を決めた方がいいわね」
「アイシャが迎えに来ればいいでしょう?」
「どうして王女である私が、毎回あなたを迎えに行かなければならないの?」
「友人だから?」
「便利な時だけ友人を使わないで」
アリシアが小さく笑う。
初めに見せた真面目で礼儀正しい姿からは、想像できない表情だった。
「アリシアは、ご家族の前でも今のように話されるのですか?」
何気なく尋ねると、アリシアの手が止まった。
「家族の前では……もう少し、しっかりしていると思うわ」
「自分で言うのね」
「少なくとも、弟の前では真面目な姉でいるつもりよ」
「ご兄弟がいらっしゃるのですか?」
「ええ。二人いるわ。兄と弟」
アリシアは手にしていた焼き菓子へ視線を落とす。
「特に弟は、自分に足りないものばかり気にするところがあるから。姉の私まで頼りなく見えるのは、あまりよくないでしょう?」
先ほどまでの砕けた口調のまま、それでも声だけが少し優しくなる。
「優しいのですね」
「そういうことにしておいて」
「でも、甘いものを四つ食べたことは内緒なのね」
アイシャが言う。
「三つよ」
「今、手に持っているもので四つ目でしょう」
「……この話は弟にはしないで」
真剣な顔で頼まれ、私はまた笑ってしまった。
勇者としてではなく。
ただ、同じ年頃の友人たちと話して笑う。
王都へ来たばかりの頃には、想像もできなかった時間だった。
◇
それから数日。
朝はブラノールとの訓練。
午後は《極光》の制御や身体の状態を調べる検査。
空いた時間には、アイシャやアリシアと会うことも増えていった。
少しずつではあるが、王都での暮らしにも慣れ始めていた。
ブラノールの型も、以前より身体へ馴染んでいる。
斬り下ろし。斬り上げ。横薙ぎ。
三つの動きが、止まることなくつながる。
「もう一度だ」
「はい!」
朝の訓練場へ、剣が風を切る音が響く。
一撃目から二撃目へ。
二撃目から三撃目へ。
最後の横薙ぎを振り抜き、剣を止める。
「今のは」
ブラノールが何かを言いかけた。
その瞬間だった。
王城の奥から、低い鐘の音が響いた。
一度。
二度。
三度。
訓練場の周囲にいた騎士たちの表情が変わる。
「これは……」
「緊急警報だ」
ブラノールが、訓練場の入口へ顔を向ける。
間もなく、通信器を抱えた騎士が駆け込んできた。
「団長!」
「報告しろ」
「次元境界観測所が、大規模な空間の揺らぎを確認しました!」
胸が強く脈打った。
「場所は」
「王都に次ぐ第二都市フルーヴィア、その外縁部です。貨物集積地の上空に次元の亀裂が発生。現在も拡大を続けています!」
「魔物は」
「現時点では確認されておりません。ただし、亀裂の向こう側から複数の魔力反応があります。現地の駐留騎士団が、周辺住民と作業員の避難を開始しました」
「フルーヴィアまでの距離は」
「外壁から離れてはいますが、貨物用の魔導列車線が都市内部へつながっています。魔物が線路沿いに侵入した場合、市街地への到達を防げません」
ブラノールの目から、訓練中に見せていた僅かな迷いが消えた。
「専用艇を出せ。操縦担当と機関担当を飛行場へ呼べ」
「承知しました!」
「現地の駐留騎士団には、討伐より避難を優先させろ。亀裂へ近づく必要はない。俺たちが到着するまで、魔物を都市へ入れなければいい」
「ただちに伝えます!」
騎士が通信器へ手を添えながら、訓練場を出ていく。
団長は続いて命令を出そうとした。
けれど、その前に私を見た。
刃を潰した訓練剣を持って立つ私を、真っ直ぐに見つめる。
その視線が、一度だけ私の右脚へ向けられた。
「セフィリア」
「はい」
「行けるか」
命令ではなかった。
勇者だから戦えとも、国のために剣を取れとも言わなかった。
私自身へ尋ねているのだと分かった。
リュミエールで見た光景が蘇る。
空を裂いた黒い亀裂。
そこから現れた魔物。
父の胸を貫いた黒い槍。
極光を使い果たし、何もできずに膝をついた自分。
怖くないと言えば、嘘になる。
今すぐ剣を置き、この場から逃げたい気持ちもあった。
それでも。
今度こそ、守りたい人の前で力尽きないために、私は王都へ来た。
団長から剣を学んだ。
アイシャやアリシアと出会った。
逃げれば、何のためにここまで来たのか分からなくなる。
私は訓練剣を下ろした。
「行きます」
「これは訓練ではない」
「分かっています」
「次も俺が助けられるとは限らん」
「それも、分かっています」
自分の声が震えている。
それでも、団長から目を逸らさなかった。
「私は、そのために剣を学んできました」
団長は何も言わず、私を見つめていた。
やがて、僅かに頷く。
「三分で装備を整えろ。飛行場へ来い」
「はい!」
◇
王城上部の飛行場では、細長い高速魔導艇が出航の準備を進めていた。
リュミエールから王都へ来た時と同じ艇だった。
操縦を担当する従騎士が、前方の術式盤を確認している。
もう一人の従騎士は後部区画に立ち、魔導機関へ魔力を流していた。
「主推進術式、起動します!」
「第二都市までの進路を設定。いつでも出航できます!」
私は青い上衣の上から軽い胸当てを身につけ、実戦用の騎士剣を腰へ佩いていた。
団長は、胸当てや鎧など防具を着けず、腰の少し上に、柄を右上へ向けた長剣を斜めに佩いている。相変わらずの姿だった
特別な鎧も、外套もない。
それでも、彼が艇へ乗り込むだけで、場の空気が変わった。
「出るぞ」
「はい!」
側面扉が閉じる。
直後、魔導艇の周囲へ複数の術式が展開された。
船体が浮き上がる。
王城の飛行場を離れた高速魔導艇は、そのまま一気に速度を上げた。
窓の外で王都の建物が後方へ流れていく。
やがて巨大な城壁を越え、街道と魔導列車の線路が延びる平原へ出た。
艇内には、魔導機関の駆動音だけが響いている。
誰も話さない。
私は膝の上に置いた両手を握り締めていた。
「力を抜け」
向かいに座る団長が言った。
「ですが……」
「今から身体を強張らせていれば、到着する前に疲れる」
「はい」
息をゆっくり吐く。
握っていた指を開き、もう一度閉じる。
「現地へ到着した後は、駐留騎士団の指示に従うのでしょうか」
「いや。俺が全体の指揮を引き継ぐ」
「私は、どうすれば」
「まずは住民の避難を助けろ。魔物が現れた場合でも、亀裂へ近づきすぎるな」
「魔族が出てきた場合は?」
「俺が斬る」
迷いのない答えだった。
「お前は目の前の敵だけを見ろ。倒した後は、必ず周囲を確認しろ。リュミエールの時のように、すべてを一撃で終わらせようとするな」
「一撃目の後には、二撃目がある」
「そうだ」
「二撃目の後には、三撃目がある」
「そのために教えた」
団長の言葉に、少しだけ呼吸が整った。
窓の外へ目を向ける。
遠くに、大きな都市が見え始めていた。
「フルーヴィアを確認!」
操縦席から声が響く。
王都ほどではないものの、幾重もの建物が広大な土地を埋め尽くしている。
都市の中心には高い塔が立ち、その周囲を太い外壁が囲んでいた。
外壁の外には農地と倉庫群が広がり、何本もの魔導列車線が貨物集積地へ集まっている。
地上では、荷馬車や作業員たちが都市へ向かって移動していた。
駐留騎士団が列を作り、避難を誘導している。
「亀裂は」
「都市外縁、貨物集積地の北側です!」
高速魔導艇が僅かに進路を変える。
そして、見えた。
何もない空へ刻まれた、一本の黒い線。
線はゆっくりと左右へ開き、その向こうから赤黒い光が漏れ出している。
リュミエールで見たものと同じ。
世界と異界をつなぐ、次元の亀裂。
胸の奥で、恐怖が膨れ上がる。
逃げろと、身体のどこかが訴えている。
その時、ブラノールが立ち上がった。
「着陸地点を駐留騎士団の後方へ変更。高度を落とせ」
「承知しました!」
高速魔導艇が、貨物集積地へ向けて降下を始める。
黒い亀裂が、さらに大きく開いた。
向こう側に、赤黒い雲が見える。
浮かぶ岩山。
不自然に蠢く、無数の影。
やがて、亀裂の奥から低い咆哮が響いた。
一体の異形が、こちらの世界へ腕を伸ばす。
続いて二体。
三体。
リュミエールを襲ったものとよく似た、黒い翼を持つ魔物たちが次々と姿を現す。
腰にある騎士剣の柄を握る。
手の震えは、まだ止まっていなかった。
それでも、剣から手を離すことはなかった。
船体が地面へ降りる。
着陸と同時に、側面扉が開いた。
強い風が艇内へ吹き込む。
ブラノールが先に地上へ降り、私を振り返った。
「行くぞ、セフィリア」
「はい、ブラノール様」
私は騎士剣を抜き、彼の後を追って地上へ降りた。
これは、勇者となってから二度目の戦い。
そして――。
誰かに守られるのではなく、自分の意志で向かう、初めての戦場だった。




