外伝 第5話 剣を握る前に
空が白み始めるよりも早く、私は騎士団の修練場へ向かった。
王城の北側に設けられた修練場は、リュミエールの庭とは比較にならないほど広い。
踏み固められた地面。
整然と並べられた訓練用の人形。
壁際には木剣や槍、盾などが種類ごとに置かれている。
まだ早い時刻だというのに、すでに何人かの騎士が身体を動かしていた。
その中に、ブラノールの姿がある。
今日も服装は変わらない。
動きやすそうなシャツとスラックス。
腰の少し上には、柄を右上へ向けた長剣が斜めに佩かれている。
あの剣を使った修行が始まる。
そう思うと、自然と足が速くなった。
「おはようございます、団長」
「ああ」
ブラノールは空を見上げ、それから私へ視線を戻した。
「時間どおりだな」
「遅れるなと言われましたから」
「少しは早く来ると思っていた」
「時間どおりなのですから、問題ないのでは?」
「明日からは俺より先に来い」
「……分かりました」
早くも注意を受けてしまった。
それでも、これから剣を教えてもらえるのだと思えば、不満はない。
私は壁際に並ぶ木剣へ目を向けた。
「どの剣を使えばよろしいでしょうか」
「必要ないと言ったはずだ」
「ですが、剣の修行をするのですよね?」
「その前に確かめることがある」
ブラノールが、修練場の外周を指差す。
「走れ」
「……走るのですか?」
「そうだ」
「どのくらいでしょうか」
「俺が止めるまでだ」
それだけ告げると、ブラノールは腕を組んだ。
冗談ではないらしい。
周囲では騎士たちが剣を打ち合わせている。
その中で、私だけが修練場を走ることになる。
本当にこれが剣の修行なのだろうか。
疑問はあったが、ブラノールが考えを変える様子はない。
「分かりました」
私は地面を蹴った。
最初から速度を上げる。
身体能力には自信があった。
リュミエールでも毎日のように剣を振り、父や駐留騎士たちと一緒に身体を鍛えていた。
修練場を走る程度ならば、すぐに終わると思っていた。
一周。
二周。
三周。
ブラノールは何も言わない。
四周目に入る頃には、息が乱れ始めていた。
傷が塞がったばかりだからだ。
そう考え、足を止めずに走り続ける。
しかし、いくら待ってもブラノールから止めるという言葉は出なかった。
喉が乾く。
脚が重くなる。
最初の半分ほどまで速度が落ちた時、ようやくブラノールが片手を上げた。
「そこまでだ」
私は速度を落とし、ブラノールの前まで歩いて戻った。
「はぁ……はぁ……」
「随分と早かったな」
「……ありがとうございます」
「最初だけはな」
褒められたわけではなかった。
「戦場へ出た途端、全力で走るつもりか」
「敵がいるなら、少しでも早く近づくべきではないのですか?」
「その敵を倒したあと、動けなくなってもか」
「それは……」
「敵が一人とは限らん。最初の一体を倒して力尽きるなら、リュミエールの時と同じだ」
何も言い返せなかった。
あの時も、私はヴァルゼクを倒すことだけを考えていた。
その先のことなど、考える余裕すらなかった。
「速く走ることだけが目的なら、今の走り方でも構わん。だが、戦い続けるためには、自分の力をどこまで使うのか把握する必要がある」
「もう一度、走ります」
「必要ない」
「ですが、今度は速度を考えて――」
「次だ」
ブラノールは踵を返し、修練場の中央へ歩いていく。
私は乱れた呼吸を整えながら、その背中を追った。
ブラノールは地面へ落ちていた細い枝を拾うと、横へ一本の線を引いた。
そこから十数歩ほど離れた場所を指差す。
「あそこから、この線まで走れ」
「今度は、ここで止まればよいのですか?」
「ああ。線を越えるな」
先ほどよりも簡単に思えた。
私は指示された場所へ立ち、地面を蹴る。
《極光》は使わない。
速度を上げ、線の直前で足を止める。
右足のつま先が線へ触れているが、越えてはいない。
「できました」
「そうか」
ブラノールが私へ近づいてくる。
何をするのかと思った直後、右手で肩を押された。
「きゃっ」
身体が後ろへ傾く。
踏ん張ろうとしたものの、足がもつれ、そのまま尻餅をついた。
「止まれていない」
「線は越えませんでした」
「足が止まっただけだ。身体は止まっていない」
ブラノールが見下ろしてくる。
「戦いの最中、敵の前まで走って止まったとする。その状態で攻撃を受ければ、今のように倒れる」
「今のは、いきなり押されたからです」
「敵が攻撃する前に教えてくれると思うか」
「……思いません」
立ち上がり、服についた土を払う。
「もう一度お願いします」
先ほどの位置へ戻り、再び走る。
今度は線の直前で歩幅を狭くした。
両足を開き、押されても倒れないように腰を落とす。
ブラノールが肩を押す。
倒れなかった。
「これならどうですか」
「止まることしか考えていない」
「え?」
ブラノールの左手が動いた。
額を軽く指で弾かれる。
「痛っ」
「今の姿勢から、横へ避けてみろ」
腰を落としすぎている。
両足へ力を入れているため、すぐに動けない。
それに気づいた時には、もう遅かった。
「止まったあと、次に動けない姿勢では意味がない」
「では、どうすればいいのでしょうか」
「考えろ」
「教えてはいただけないのですか?」
「答えだけを覚えても、自分の身体では使えん」
ブラノールは再び、最初の位置を示した。
「もう一度だ」
走る。
止まる。
肩を押される。
倒れないように踏ん張ると、今度は横へ動けない。
力を抜けば、簡単に体勢を崩される。
「もう一度」
同じ言葉が、何度も繰り返された。
剣には一度も触れていない。
それでも、脚へ積もる疲労は、普段の剣術訓練よりも重かった。
何度目か分からなくなった頃、ブラノールが片手を上げた。
「次は《極光》を使え」
「よろしいのですか?」
「短い距離ならば問題ない。先ほどと同じように走り、線の前で止まれ」
私は大きく息を吸い、身体の奥へ意識を向けた。
白金色の光が、全身を包む。
力が溢れる。
重くなっていた脚から疲労が消え、身体が羽のように軽くなる。
「始めろ」
ブラノールの声と同時に、地面を蹴った。
視界が流れる。
線が一瞬で眼前へ迫った。
「――っ!」
足を止める。
しかし、身体は止まらなかった。
線を大きく越え、地面を削りながら前へ滑っていく。
無理に踏ん張ったことで上体が傾き、そのまま地面へ転がった。
《極光》が消える。
「痛……」
身体を起こすと、線は数歩も後方にあった。
「もう一度だ」
ブラノールの声が飛んでくる。
今度は、極光を弱くする。
そう考えて力を抑えようとした。
白金色の光が全身を包む。
先ほどと変わらない。
地面を蹴ると、一瞬で線へ到達し、また越えてしまった。
「もう一度」
三度目。
さらに力を抑えようとすると、今度は極光そのものが消えた。
足へ力が入らず、普通に走るのと変わらない。
「もう一度だ」
四度目。
五度目。
何度繰り返しても、結果は同じだった。
極光を纏えば、線を越える。
力を抑えれば、極光が消える。
「そこまでだ」
私は膝へ両手をつき、呼吸を整えた。
「弱くしようとはしているのですが……」
「しているだけだ」
ブラノールが私の前へ立つ。
「今のお前には、極光を使わないか、すべて出すか。その二つしかない」
「ですが、リュミエールでは何度も使えていました」
「毎回、ほとんど同じ量を放出していたからだ」
「同じ量……」
「走る時も、斬る時も、敵の攻撃を受ける時も、お前は極光を全身へ広げていた。必要のない場所にまでだ」
あの時のことを思い返す。
確かに私は、極光を使うことしか考えていなかった。
どれだけの力が必要なのか。
どこへ流せばよいのか。
そんなことは、一度も考えていない。
「動き始める時に使い、止まる時にも同じ力を使う。方向を変えるたびに身体へ無理な負荷をかける。その繰り返しで、魔力だけではなく肉体まで使い潰した」
研究区画で聞いた話と同じだった。
極光によって引き上げられた力へ、私の身体が耐えられていない。
けれど問題は、身体が弱いことだけではなかった。
私自身が、力を無駄に使っている。
「剣は腕だけで振るものではない」
ブラノールが地面へ引かれた線の前に立つ。
「足で間合いへ入り、腰で支え、肩から腕へ力を通し、最後に剣へ伝える。自分の身体すら正しく運べない者に、剣まで運べると思うか」
「……思いません」
「まずは、極光を使わずに走れ。止まったあとも、すぐに次の動作へ移れる姿勢を覚えろ」
「分かりました」
「見ていろ」
ブラノールが、私の走り始めた位置まで歩いていく。
力を抜いて立つ。
構えているようには見えない。
次の瞬間、地面を蹴った。
姿が消えた。
そう感じるほどの速さだった。
気づいた時には、ブラノールは線の直前に立っている。
足元の土は、ほとんど動いていない。
音も、砂埃もなかった。
「今、魔力を使ったのですか?」
「使っていない」
「では、どうやって……」
「見て分からなかったのなら、もう一度見るか」
「お願いします」
ブラノールが戻り、同じ動きを繰り返す。
一度目よりも、足元を意識して見る。
蹴った。
そう思った時には、もう線の前へ立っていた。
「もう一度、お願いします」
「何が見えた」
「その……とても速かったです」
「それだけか」
「もう一度見れば、何か分かるかもしれません」
「断る」
「なぜですか?」
「自分で試せ」
ブラノールは地面の線を指差した。
「今日中にできるとは思っていない。倒れるまで繰り返せ」
「本当に倒れた場合は?」
「治癒術師を呼ぶ」
「そういう意味ではありません」
「なら、倒れないように力を残せ」
ブラノールが、修練場の端へ下がる。
私はもう一度、最初の位置へ立った。
何をしているのか、まだ分からない。
それでも、先ほどのブラノールの動きを思い出しながら地面を蹴った。
◇
部屋へ戻った頃には、両脚が自分のものではないように重くなっていた。
一歩進むたび、膝が震える。
侍女に湯浴みを手伝ってもらい、どうにか土まみれの服から着替えたものの、椅子へ座った途端に立てなくなった。
「失礼いたします」
扉が開き、アイシャが部屋へ入ってくる。
卓上へ突っ伏していた私を見て、足を止めた。
「セフィリアさん?」
「アイシャさん……」
「修行が始まったと聞きましたが、大丈夫ですか?」
「はい。身体が動かないだけです」
「それは大丈夫とは言わないのでは?」
アイシャが向かいの椅子へ座る。
「初めての剣の修行は、いかがでしたか?」
「剣には、一度も触らせてもらえませんでした」
「では、何をしていたのですか?」
「走って、止まって、転んでいました」
「一日中ですか?」
「一日中です」
アイシャは口元へ手を当てた。
心配してくれているのだと思ったが、肩が小さく震えている。
「……笑っていますか?」
「笑っていません」
「こちらを見てください」
「今は少し、難しいです」
顔を横へ向けたまま、アイシャの肩がもう一度震える。
私は抗議しようとしたが、そのために身体を起こす力も残っていなかった。
「明日も、同じ修行だそうです」
「頑張ってください、勇者様」
「アイシャさんまで、その呼び方をするのですか」
「ごめんなさい、セフィリアさん」
今度こそ、アイシャは声を出して笑った。
◇
翌朝も、私は日の出前に修練場へ向かった。
ブラノールは、すでに待っていた。
「昨日より早いな」
「団長より先ではありませんでした」
「明日はもっと早く来い」
走る。
線の前で止まる。
肩を押される。
体勢を保てば、今度は額を弾かれる。
次の日には、止まった直後に横へ避ける動作が加えられた。
さらに次の日には、ブラノールが左右のどちらから押してくるか分からなくなった。
「足元を見るな」
「ですが、線が見えません」
「敵を見ずに戦うつもりか」
視線を前へ向ければ、線を越える。
線を見れば、ブラノールの動きを見失う。
倒されるたびに土を払い、最初の位置へ戻った。
極光の使用は禁じられた。
まずは自分の身体だけで、動くことと止まることを覚えろと言われた。
何度も転んだ。
腕も、脚も、痛みのない場所がなくなった。
それでも、少しずつ分かってきた。
線の直前で急に止まろうとするから、身体へ力が残る。
走る間に歩幅を調整し、最後の一歩へすべてを押しつけない。
止まるために両脚を固めるのではなく、膝と腰で勢いを受け止める。
身体の中に残った力を、地面へ逃がす。
そして、次に動くための余裕を残す。
修行を始めて数日が過ぎた朝。
私はいつもの位置に立っていた。
「始めろ」
ブラノールの声に合わせて走り出す。
線だけを見ない。
正面に立つブラノールから、視線を外さない。
歩幅を少しずつ狭める。
最後の一歩を踏み込み、線の直前で腰を落とした。
足が止まる。
身体に残った勢いを、膝から地面へ流す。
ブラノールが右手を伸ばした。
肩を押される。
力に逆らって踏ん張るのではなく、腰を僅かに沈めて受け流す。
身体は揺れた。
けれど、足は動かなかった。
すぐに額を狙って、ブラノールの左手が伸びてくる。
私は顔を横へ動かした。
指先が、頬の横を通り過ぎる。
「……避けました」
「ああ」
ブラノールが両手を下ろす。
「ようやく、立てるようになったな」
「最初から立てていたつもりなのですが」
「つもりだっただけだ」
ブラノールは修練場の端へ歩いていく。
壁際に並べられた武器の中から、一本の木剣を手に取った。
私へ向けて放る。
「わっ」
慌てて両手を伸ばし、どうにか受け止めた。
一般的な騎士剣を模した木剣だった。
「明日からは、それを持て」
手の中の木剣を見つめる。
ようやく剣を使った修行が始まる。
「振ってもよいのですか?」
「振っていいとは言っていない」
「……持つだけですか?」
「まずは、正しく立ったまま持て」
ブラノールはそれだけ告げると、修練場を離れていく。
私は手の中に残された木剣を握った。
剣を握るまでに、これほど時間がかかるとは思わなかった。
それでも、その一本の木剣は、以前に握っていた騎士剣よりも重く感じられた。




