外伝 第4話 勇者と王女
「初めまして、セフィリアさん」
少女から名前を呼ばれ、私は返事をすることも忘れていた。
王城へ到着してから、耳にしたのは勇者という呼び名ばかりだった。
だからだろうか。
自分の名前を呼ばれただけなのに、張り詰めていたものが少しだけ緩んだような気がした。
「あの……どうかしましたか?」
少女が心配そうに私の顔を覗き込む。
「いえ。王都へ来てから、名前を呼ばれたのは初めてでしたので」
「そうだったのですか?」
「皆さん、私のことを勇者様と呼ぶので……」
少女は何かを考えるように首を傾げた。
「それでは、私が最初ですね」
「はい」
「よかったです」
なぜか、少女は嬉しそうに笑った。
「あの、あなたのお名前を伺ってもよろしいですか?」
「もちろんです。私はアイシャと申します」
「アイシャさん、ですね」
「はい。よろしくお願いします、セフィリアさん」
身につけている衣服を見れば、王城に仕える者ではないことは分かる。
上級貴族の娘だろうか。
そう思いながら、私はアイシャへ椅子を勧めた。
向かい合って座ったものの、何を話せばよいのか分からない。
私が言葉を探していると、アイシャが先に口を開いた。
「リュミエールは、どのようなところなのですか?」
「ご存じないのですか?」
「名前は存じています。けれど、王都から出る機会があまりありませんので、実際に見たことはないのです」
「そうだったのですね」
故郷の風景を思い浮かべる。
「王都ほど大きくはありません。町を少し離れると畑や牧草地が広がっていて、天気のよい日は遠くの山まで見えます」
「素敵なところですね」
「はい。私にとっては、とても大切な場所です」
「いつか訪れてみたいです」
「何もないところですよ?」
「何もないからこそ、見てみたいのです。王都には人も建物も多すぎますから」
アイシャが窓の外へ目を向ける。
私には何もかもが珍しく見えた王都も、ここで暮らすアイシャにとっては日常なのだろう。
「セフィリアさんは、王都へ来るのは初めてですか?」
「はい。リュミエールから出たことも、ほとんどありませんでした」
「それでは、知らないところばかりですね」
「王城へ着いてから、迷いそうになりました」
「分かります。私も幼い頃は、よく迷いました」
「アイシャさんもですか?」
「ええ。似たような廊下ばかりでしょう?」
アイシャは口元へ指を添え、楽しそうに笑った。
貴族の娘だと思っていたが、話してみると堅苦しさはない。
もっとも、私も領主の娘ではある。貴族の作法をまったく知らないわけではない。
それでも、王城の中では自分がひどく場違いな存在に思えていた。
「失礼いたします!」
突然、扉が勢いよく開いた。
一人の侍女が部屋へ入り、私たちの姿を見て安堵の息を吐く。
「こちらにいらしたのですね、アイシャ殿下」
「……殿下?」
聞き間違いかと思った。
しかし、侍女はアイシャへ深く頭を下げている。
「侍女たちが捜しておりました。お一人でお部屋を離れられては困ります」
「少しお話をしに来ただけです」
「せめて護衛をお連れください」
二人のやり取りを聞きながら、私は椅子から立ち上がった。
先ほどまで普通に話していた少女。
その正体が、ようやく頭の中で結びつく。
「も、申し訳ございません!」
慌てて頭を下げようとした私の両肩を、アイシャが掴んだ。
「なぜ謝るのですか?」
「王女殿下とは知らず、私、その……」
「先ほどまで普通に話していたではありませんか。急に王女として扱わないでください」
「ですが、そういうわけには……」
顔を上げると、アイシャは少し困ったように頬を膨らませていた。
「それならば、私もセフィリアさんを勇者様と呼ばなければいけませんね」
「それは……」
「勇者様」
「やめてください」
反射的に答えてしまった。
アイシャの表情が柔らかくなる。
「私も同じです。王女殿下と呼ばれることが嫌なわけではありません。けれど、それしか呼ばれないのは、少し寂しいのです」
その言葉で、王都へ到着してから感じていたものの正体が分かった。
「私も、勇者様と呼ばれるたびに……私ではない誰かを呼ばれているような気がしました」
「でしたら、私だけはセフィリアさんと呼びます」
「ありがとうございます、アイシャ殿下」
「アイシャです」
「それは難しいです」
「では、二人だけの時はアイシャと呼んでください。それならよいでしょう?」
「……努力します」
「約束ですよ」
アイシャが差し出した小指へ、私は戸惑いながら自分の小指を絡めた。
王都へ来たばかりの私に、初めて約束ができた。
「明日はお父様との謁見がありますから、今日はこれで戻ります」
「お父様……」
「国王陛下です」
「そうでした……」
頭では理解しているつもりだったが、目の前の少女と国王がなかなか結びつかない。
「それが終わって落ち着いたら、王都をご案内します。王城だけを見て、王都を嫌いになってほしくありませんから」
「楽しみにしています」
「はい。それでは、また明日」
アイシャは侍女に促され、何度もこちらを振り返りながら部屋を出ていった。
扉が閉じたあと、私は大きく息を吐く。
知らなかったとはいえ、王女殿下と向かい合って故郷の話をしてしまった。
明日の謁見よりも先に、取り返しのつかない失敗をしたのではないだろうか。
けれど、不思議と後悔はなかった。
◇
翌朝。侍女に身なりを整えてもらった私は、謁見の間へ続く廊下に立っていた。
傷を圧迫しないよう仕立てられた青い上衣には、王国の紋章が控えめに刺繍されている。
普段より整えられた服装が、かえって落ち着かない。
「緊張しているのか」
隣から、聞き慣れ始めた声がした。
ブラノールは謁見の場であっても、いつもと変わらないシャツとスラックス姿だった。
鎧も、騎士団長としての儀礼服も身につけていない。
腰の少し上には、柄を右上へ向けた長剣が斜めに佩かれている。
「団長は、その格好で謁見されるのですか?」
「何か問題があるか」
「いえ……皆さん、正装されているので」
「俺が着飾ったところで、強くなるわけでもない」
「そういう問題なのでしょうか」
「陛下は何も言わん」
国王が認めているのならば、私から言えることはなかった。
それに、普段と変わらないブラノールの姿を見ていると、少しだけ緊張が和らいだ。
「中では、どうすればよいのでしょうか」
「聞かれたことへ正直に答えろ。分からないことは分からないと言えばいい」
「失礼にはなりませんか?」
「知ったふりをして虚偽を答える方が失礼だ」
大きな扉の前に立つ騎士が、私たちへ一礼する。
「セフィリア様、ブラノール騎士団長。準備が整いました」
扉が、ゆっくりと開かれていく。
高い天井。
長い絨毯。
左右には、王国の重臣や騎士たちが並んでいる。
その多くが儀礼に則った衣装を身につけていた。
いつものシャツとスラックス姿で長剣まで佩いているブラノールは、明らかに周囲から浮いている。
それでも、彼の姿を咎める者は一人もいなかった。
私はブラノールとともに玉座の前まで進み、教えられたとおり片膝をついた。
「ヴァルディア王国騎士団長ブラノール、勇者セフィリアを伴い、帰還いたしました」
「ご苦労だった。二人とも、顔を上げよ」
顔を上げる。
玉座に座る国王の視線が、真っ直ぐ私へ向けられていた。
「セフィリア」
「はい」
国王も、私を勇者とは呼ばなかった。
「まずは礼を言わせてほしい。リュミエールの民を守ってくれたこと、王国を預かる者として感謝する」
「私は……魔族を倒し切ることができませんでした。最後は、ブラノール様に救われています」
「それでも、お前が戦わなければ避難は間に合わなかったと報告を受けている。自らの未熟を悔いることと、成したことを認めぬのは別だ」
ブラノールと同じことを言われた。
私はもう一度頭を下げる。
「ありがとうございます」
「そして、これからのことを話さねばならない」
国王の声が、謁見の間へ響く。
「世界の境界が破られ、異界に存在する魔族の侵攻が始まる。お前が勇者に選ばれるより前、同じ言葉が世界各国の代表者へ同時に告げられた」
「世界各国へ……?」
「ああ。神の声を聞いたのは、この国だけではない。帝国も、ルミナス魔導連合も、ほかの国々も同じ言葉を聞いている」
初めて知らされる事実だった。
リュミエールで起きたことは、王国内だけの問題ではない。
世界すべてに関わる侵攻が、すでに始まっている。
「そして、勇者がヴァルディア王国において選ばれることも告げられていた。各国は、いずれお前の力を求めるだろう」
左右に並ぶ重臣たちの中から、一人の男性が口を開いた。
「陛下。だからこそ、一刻も早く勇者の力を確認すべきです。再び亀裂が開く前に各国へ存在を示し、必要とあらば――」
「今のセフィリアを戦場へ出せば、敵を倒す前に自滅する」
重臣の言葉を遮ったのは、ブラノールだった。
謁見の場でも、その口調は変わらない。
「極めて大きな力を持っていることは事実です。ですが、本人はその扱い方を理解していません。身体も力へ追いついていない」
「しかし、次の侵攻がいつ起きるか分からぬ以上――」
「だからこそ、今は鍛えるべきです。使い潰すべきではない」
謁見の間へ、緊張が走る。
ブラノールは重臣たちへ視線を向けることなく、国王だけを見ていた。
「陛下。私に預けていただきたい」
「そのつもりだ」
国王は迷わず答えた。
「世界の命運を、セフィリア一人へ背負わせるつもりはない。王国は知識と兵を与え、お前を守る。ブラノールは、お前へ生き残るための剣を教える」
国王の言葉を聞き、肩へ入っていた力が僅かに抜けた。
「だが、次元の亀裂が再び開いた時、お前の力が必要になる可能性は高い。それでも、剣を取る意志はあるか」
すぐに答えることはできなかった。
怖くないと言えば嘘になる。
黒い槍。
足へ絡みつく影。
首を掴まれ、持ち上げられた感覚。
今も思い出すだけで、身体が僅かに震える。
それでも、リュミエールで父へ伝えた言葉は変わらない。
「今の私では、また誰かに助けてもらうことになります」
震えそうになる手を、強く握る。
「だから、まずは戦える力を身につけたいです。そして、私に守れるものがあるのなら、そのために剣を振ります」
「よい答えだ」
国王が静かに頷く。
「ブラノール。セフィリアを任せる」
「承知しました」
こうして私は、ヴァルディア王国の勇者として正式に迎えられた。
◇
謁見を終えた私は、王城の奥にある魔術研究区画へ案内された。
白い壁に囲まれた部屋には、魔力を測るための器具がいくつも並んでいる。
最初に治癒術師が傷の状態を確認し、その後、白衣を着た研究者が私の前へ透明な水晶を置いた。
「勇者となった際に得た力について、何か分かっていることはございますか?」
「《極光》」
研究者が、手元の紙へ書き込もうとしていた筆を止めた。
「極光、ですか?」
「はい。勇者に選ばれた時、頭の中にその言葉が浮かびました。おそらく、この力の名前だと思います」
「性質や扱い方についての知識も、同時に与えられたのでしょうか」
「いいえ。私にも詳しいことは分かりません。ただ、これまで使っていた魔力とは違うものだということだけは感じます」
「分かりました。では、ごく少量だけ水晶へ流してください」
私は水晶の表面へ右手を置いた。
目を閉じ、身体の奥にある力へ意識を向ける。
リュミエールで初めて感じた、温かく眩しい光。
それをほんの僅かだけ、掌へ集める。
白金色の光が指先から流れ、水晶の内部を満たしていった。
「これが……極光」
研究者たちが、周囲の計器を確認する。
針が小刻みに揺れ、複数の術式が明滅を繰り返している。
「もう止めていただいて構いません」
水晶から手を離すと、白金色の光は静かに消えた。
「何か分かりましたか?」
研究者はすぐに答えず、ほかの者たちと測定結果を見比べている。
しばらくして、困ったように首を横へ振った。
「申し訳ございません。少なくとも、我々が扱っている通常の魔力とは性質が異なるようです。ですが、現時点で分かるのはそれだけです」
「そうですか……」
「引き続き調査は行います。ただ、無理に力を使うことはお控えください」
続いて行われたのは、私の身体に残る損傷の確認だった。
治癒術師が腕や脚へ触れ、筋肉や骨を確かめていく。
「傷そのものは、順調に治っています」
「では、もう剣を振ってもよいのでしょうか」
「軽い運動であれば。ただし、極光を使った戦闘はまだ危険です」
「なぜですか?」
「先日の戦闘で、あなたの筋肉や骨には強い負荷がかかっています。急激に引き上げられた身体能力へ、肉体が追いついていないのでしょう」
魔力を使い切っただけではなかった。
極光によって得た力に、自分の身体そのものが耐えられなかった。
「同じ使い方を繰り返せば、魔力が残っていても先に身体が動かなくなる可能性があります」
あの時、剣が届かなかった理由。
自分の身体から力が抜け落ちた感覚を思い出す。
「分かりました。気をつけます」
そう答えたものの、どう気をつければよいのかは分からなかった。
◇
それから数日間、身体と極光の検査が続いた。
極光について、新たに分かったことはほとんどない。
少量であれば身体への負担は小さい。
けれど出力を高めれば、それに比例して筋肉や骨へかかる負荷も増していく。
分かったのは、その程度だった。
最後の検査を終えて部屋へ戻ると、扉の前に立っていた侍女が私へ頭を下げた。
「アイシャ殿下がお待ちです」
「アイシャ殿下が?」
扉を開く。
部屋の中央にある卓上には、茶器と色とりどりの菓子が並べられていた。
その向こうで、アイシャが私へ手を振っている。
「お疲れさまでした、セフィリアさん」
「お待たせしてしまい、申し訳ありません」
「私が勝手に待っていただけです。それに、今日は勇者についてのお話は禁止です」
「禁止、ですか?」
「はい。極光や魔族のことばかり聞かれて、疲れたでしょう?」
否定しようとしたが、言葉が出なかった。
アイシャは向かいの椅子を示す。
「ですから今からは、お菓子と王都のお話だけです」
「それは……とても助かります」
思わず本音がこぼれた。
席へ座ると、アイシャが茶を注いでくれる。
侍女へ任せず王女自ら茶器を扱う姿に戸惑ったが、止めればまた勇者様と呼ばれそうなので黙っておくことにした。
「こちらは、王都で最近人気のお菓子だそうです」
「アイシャ殿下は召し上がったことがないのですか?」
「アイシャです」
「……アイシャさんは、召し上がったことがないのですか?」
「よくできました」
アイシャが満足そうに笑う。
小さく切られた菓子を口へ運ぶと、果実の甘酸っぱさが広がった。
「おいしいです」
「でしょう? 城下町には、ほかにもたくさんのお店があります」
「行ってみたいです」
「では、検査がすべて終わったお祝いに、今度ご案内します」
「城の外へ出てもよいのでしょうか」
「お父様とブラノールに許可をもらいます。護衛をつければ、きっと大丈夫です」
「団長が許してくださるでしょうか」
「私から頼みます」
アイシャが胸を張る。
なぜだろう。
国王陛下へ願い出るよりも、ブラノールを説得する方が難しいように思えた。
それから私たちは、リュミエールの食べ物や王都の店について話した。
勇者でも、王女でもない。
ただ二人の少女として過ごした時間は、驚くほど早く過ぎていった。
◇
日が傾き始めた頃、アイシャは自分の部屋へ戻っていった。
侍女たちが茶器を片づけていると、再び扉が叩かれる。
「入るぞ」
返事を待つことなく、ブラノールが部屋へ入ってきた。
アイシャと入れ替わるように現れたその姿も、謁見の時と変わらない。
「治癒術師から、傷は塞がったと聞いた」
「はい。軽い運動であれば問題ないそうです」
「ならば、明朝から修行を始める」
待ち望んでいた言葉だった。
「本当ですか?」
「ああ。日の出前に、騎士団の修練場へ来い」
「分かりました。剣は、どのようなものを用意すればよいでしょうか」
「必要ない」
「……え?」
「動きやすい服だけでいい」
「剣の修行ではないのですか?」
「剣を握るのは、その前にやるべきことを終えてからだ」
それだけ告げると、ブラノールは踵を返した。
「あの、具体的には何をするのでしょうか」
「明日になれば分かる」
「少しだけでも教えてください」
「遅れるな」
ブラノールは私の問いへ答えず、部屋を出ていった。
閉じられた扉を見つめる。
ようやく剣を教えてもらえると思っていたのに、その剣は必要ないという。
いったい、何をさせるつもりなのだろう。
この時の私は、剣を振る修行が始まるのだと思っていた。
まさか翌日、ブラノールが一度も剣を握らせてくれないとは、想像もしていなかった。




