外伝 第3話 勇者、王都へ
石を打つ乾いた音が、朝から途切れることなく町へ響いていた。
あの戦いから、数日が過ぎた。
窓から外を眺めるだけだった私も、ようやく一人で歩けるまで回復していた。
左肩と右脚にはまだ包帯が巻かれている。身体を大きく動かせば傷が痛むものの、寝台で過ごし続ける必要はないと治癒術師から許可をもらっている。
私は青い上衣を羽織り、領主邸を出た。
見慣れていたはずのリュミエールの景色は、数日前とは大きく変わっていた。
焼けた家屋から黒く焦げた木材が運び出され、砕かれた道には新しい石が敷かれている。
町の中心へ近づくにつれて、復旧作業に携わる人の姿が増えていった。
幸い、あの戦いで命を落とした人はいない。
それでも、負傷者は多かった。
腕を吊ったまま資材を運ぶ者。
額へ包帯を巻き、壊れた店先を片づける者。
傷の痛みに耐えながら、誰もが元の暮らしを取り戻そうとしている。
「あっ、セフィリア様だ」
小さな声が聞こえた。
振り向くと、母親と手をつないだ少女が私を見上げていた。
戦いの最中、中央広場から避難していた子だ。
「お姉ちゃん、町を守ってくれてありがとう」
「私は……」
言葉に詰まった。
町を守ったのは、私ではない。
私は魔族を倒し切れず、力を使い果たして地面へ膝をついた。
あの赤髪の男が来なければ、今頃ここに立ってはいなかった。
少女の母親も、深く頭を下げる。
「本当にありがとうございました。セフィリア様がいてくださらなければ、私たちはどうなっていたか……」
「頭を上げてください。私は、そんな……」
最後まで言葉にできなかった。
二人と別れ、私は逃げるようにその場を離れた。
向かったのは、中央広場だった。
壊れた噴水はすでに撤去され、その周囲では石畳の張り替えが進められている。
次元の亀裂も、魔族も、もう残っていない。
それでも目を閉じれば、黒い槍や影の刃が迫ってくる光景を思い出す。
胸へ爪を突き立てられそうになった瞬間。
極光が消え、身体から力が抜けた感覚。
そして――私を救った、一振り。
「傷はいいのか」
背後から声をかけられた。
振り返ると、王国騎士団長ブラノールが立っていた。
赤い短髪。
腰の少し上には、あの魔族を一撃で斬った長剣が、柄を右上へ向けて斜めに佩かれている。
「治癒術師から、歩く程度ならば問題ないと言われました」
「そうか」
ブラノールはそれだけ答えると、修復中の広場へ視線を移した。
二名の従騎士は、まだ町に残っている魔物の捜索や、駐留騎士団との連絡に出ているらしい。
「皆さんから、感謝されました」
「不満なのか」
「そうではありません。ただ……私は、何も守れませんでした。結局、あなたが来なければ、私はあの魔族に殺されていました」
「そうだな」
慰めの言葉はなかった。
あまりにもあっさり肯定され、私は思わずブラノールの横顔を見る。
「お前一人では、あの魔族に勝てなかった」
「……はい」
「だが、俺がここへ着いたのは最後だ」
ブラノールが、修復されている広場を見渡す。
「お前が魔族を引きつけている間に、駐留騎士団が住民を逃がした。お前が倒れるまで剣を振り続けなければ、俺が到着する前に多くの死者が出ていただろう」
「ですが、それでも私は……」
「自分の未熟さを忘れる必要はない。ただし、自分がしたことまで否定するな」
ブラノールの右手が、腰の後ろで斜めに佩いた長剣の柄へ触れる。
「次は一人でも最後まで立っていられるように、強くなればいい」
その言葉が、胸の奥へ静かに落ちていく。
私は、今度こそ素直に頷いた。
「はい」
「それと、王都へ戻る日が決まった」
ブラノールは私へ向き直る。
「明朝、ここを発つ」
「明日……ですか」
「高速魔導艇の応急修理が終わった。陛下にも、勇者を保護したと報告している」
胸の奥が、僅かにざわついた。
王都へ行くことは分かっていた。
ブラノールへ剣を教えてほしいと願ったのは、私自身だ。
それでも、明日だと告げられた途端、見慣れた町の景色が遠いものに思えた。
「王都へ着けば、私はどうなるのでしょうか」
「まずは陛下との謁見だ。その後、お前の極光と身体の状態を調べる。勇者について知る者たちから、今後の説明もあるだろう」
「勇者について知る者がいるのですか?」
「ほとんどいない。だからこそ調べる」
ブラノールは、少しだけ声を落とした。
「王都には、お前を歓迎する者もいれば、勇者の力を利用しようと考える者もいる」
「利用……」
「勇者という名前だけを見て、お前自身を見ない者もいるということだ」
ブラノールの眼差しが、真っ直ぐ私へ向けられる。
「だが、剣を握る理由まで他人に決めさせるな。それだけは、お前自身で決めろ」
「……覚えておきます」
すぐに理解できたとは言えない。
それでも、この言葉を忘れてはいけないことだけは分かった。
◇
領主邸へ戻ると、父は執務室にいた。
傷は深かったものの、治癒術師の処置によって命に別状はない。
胸元にはまだ包帯が巻かれている。それでも父は寝台にいることを嫌い、机へ向かって復旧に必要な書類を確認していた。
「父様、まだ休んでいないと」
「町があの状態では、領主だけ寝ているわけにもいかない」
父は書類を机へ置くと、私が立っていることに気づいて眉を寄せた。
「お前こそ、歩いて大丈夫なのか」
「はい。もう痛みもほとんどありません」
嘘ではない。
ただ、まったく痛くないわけでもなかった。
父もそれに気づいたようだったが、何も言わず、向かいの椅子を示した。
私が腰を下ろすと、しばらく沈黙が続いた。
「明日の朝、王都へ向かうことになりました」
「騎士団長から聞いている」
「そうだったのですね」
「領主としては、勇者を王都へ送り出さなければならない。王国全体に関わることだからな」
父が机の上で両手を組む。
「だが、父親として同じことを言えるかは、まだ分からん」
戦いの中でも揺らがなかった父の声が、僅かに弱くなった。
あの日、父は私を守ろうとして魔族に傷つけられた。
そして父の目の前で、私は殺されかけた。
「勇者に選ばれたから、王都へ行くのか」
父の問いに、私はすぐには答えられなかった。
神によって選ばれた。
極光という力を与えられた。
世界を守る勇者だと告げられた。
けれど、それだけならば、私は今も迷っていたと思う。
「私は……もう二度と、守りたい人の前で力尽きたくありません」
自分の両手を見る。
魔族へ剣が届いていながら、最後の一歩を踏み込めなかった。
「次に同じことが起きた時、今のままではまた誰かに助けてもらうことになります。だから私は、強くなりたいです」
「勇者としてか」
私は首を横へ振った。
「いいえ。私自身の意志です」
父は黙って私を見つめていた。
やがて椅子へ深く背を預け、長く息を吐く。
「そうか」
「父様……」
「ならば、止める理由はない」
父は傷を庇いながら立ち上がり、私の前へ歩いてくる。
大きな手が、私の頭へ置かれた。
「勇者として何を成すのかは、お前が決めればいい。ただ、一つだけ父親として命じる」
私は父を見上げる。
「必ず、生きて帰ってこい」
「……はい」
「勇者ではなく、セフィリアとしてだ」
目の奥が熱くなった。
泣かないように唇を噛み、それでも父の前では隠し切れなかった。
「はい、父様。必ず帰ってきます」
◇
翌朝。
魔導列車駅の貨物区画には、修理を終えた高速魔導艇が停泊していた。
細長い船体の後部では、二名の従騎士が推進術式と魔導機関の最終確認を行っている。
空はよく晴れていた。
旅立ちには似合いすぎるほど、穏やかな朝だった。
貨物区画の外には、町の人々が集まっている。
大掛かりな式典ではない。
それでも、復旧作業を始める前に、多くの人が私を見送りに来てくれていた。
「セフィリア様、頑張ってください!」
「いつでも帰ってきてくださいね!」
「リュミエールのことを忘れないでください!」
次々と声が届く。
私は振り返り、一人一人の顔を目に焼きつけた。
父も、少し離れた場所に立っていた。
まだ傷が治っていないため、ここまで歩いてくるだけでも辛かったはずだ。
「行ってきます、父様」
「ああ。行ってこい、セフィリア」
私は頭を下げ、高速魔導艇へ乗り込んだ。
側面扉が閉じる。
低い駆動音が響き、艇の周囲へ複数の魔法陣が展開された。
「出航します」
操縦を担当する従騎士の声が聞こえる。
身体が僅かに沈み、高速魔導艇が地面を離れた。
窓の外で、リュミエールの人々が手を振っている。
私も窓際に立ち、見えなくなるまで手を振り返した。
町が小さくなる。
領主邸も、魔導列車駅も、毎日剣を振っていた庭も、やがて緑の中へ溶けていく。
私はこの日、生まれて初めて故郷を離れた。
勇者として何を求められるのか、まだ何も知らないまま。
「後悔しているのか」
いつの間にか、ブラノールが隣に立っていた。
「いいえ。ただ、少し寂しいだけです」
「それなら構わん」
「構わないのですか?」
「故郷を離れて何も感じない方が問題だ」
ブラノールは窓の外へ視線を向ける。
「王都に着けば、まず陛下との謁見だ。その後は検査と説明が続く。しばらく自由な時間はないと思っておけ」
「修行は、いつから始めるのですか?」
「傷が治ってからだ」
「もう剣を振るくらいならできます」
「歩けることと戦えることは違う」
「ですが――」
ブラノールが、僅かに眉を上げた。
「それほど急ぐのなら、先に言っておく。勇者だからと手加減はしない」
「はい。その方が助かります」
「その返事を後悔しなければいいがな」
冗談なのか、本気なのか分からない。
けれど、ほんの僅かにブラノールの口元が緩んだ気がした。
◇
高速魔導艇が王都へ近づいたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
「前方に王都ヴァルエストを確認しました」
従騎士の声を聞き、私は窓へ駆け寄った。
「これが……王都……」
最初に目に入ったのは、幾重にも連なる巨大な城壁だった。
その内側には、数え切れないほどの建物が立ち並んでいる。
町を貫く大通り。
空へ伸びるいくつもの尖塔。
地上を走る魔導列車。
そして王都の中心には、周囲の建物を見下ろすように巨大な王城がそびえていた。
リュミエールとは、何もかもが違う。
窓から見える人の数だけでも、故郷に暮らす人々を遥かに上回っている。
「驚いたか」
「はい。こんなに大きな町があるなんて……」
「ここがお前の新しい生活の場になる」
高速魔導艇は王城上部の飛行場へ向け、高度を下げていく。
やがて船体が着陸すると、外で待っていた騎士や侍従たちが一斉に姿勢を正した。
側面扉が開く。
ブラノールに続いて艇を降りた瞬間、正面に並ぶ者たちが深く頭を下げた。
「勇者様。王都ヴァルエストへ、ようこそお越しくださいました」
勇者様。
その言葉に、身体が僅かに強張った。
「長旅でお疲れのことと存じます。本日はお部屋でお休みください。国王陛下との正式な謁見は、明朝を予定しております」
「分かりました」
そう答えるだけで精一杯だった。
案内役の侍女に連れられ、長い廊下を歩く。
すれ違う騎士も、侍従も、誰もが私を見て頭を下げる。
「勇者様」
「勇者様、お待ちしておりました」
誰も、私の名前を呼ばない。
昨日まで私は、リュミエールに暮らすセフィリアだった。
けれど王都へ到着した瞬間から、私の名前は勇者へ変わってしまったように感じた。
案内された部屋は、領主邸にあった自室よりも遥かに広かった。
大きな寝台。
豪華な家具。
窓の向こうには、どこまでも続く王都の町並みが広がっている。
「何かございましたら、扉の外におりますのでお申しつけください」
「ありがとうございます」
侍女が退室し、扉が閉じられた。
急に、部屋が静かになる。
私は窓際へ歩き、眼下に広がる王都を見つめた。
これほど多くの人々を、私は守らなければならないのだろうか。
勇者として戦い続けることが、本当にできるのだろうか。
考えても、答えは出ない。
その時、部屋の扉が軽く叩かれた。
「はい」
「入ってもよろしいですか?」
侍女とは違う、若い少女の声だった。
「どうぞ」
扉が少しだけ開き、私と年齢の近い少女が顔を覗かせた。
身につけているのは、一目で上等だと分かる衣服。
しかし、その表情に侍従たちのような堅苦しさはなかった。
「突然訪ねてしまって、ごめんなさい」
少女は部屋へ入ると、私の前まで歩いてくる。
そして、柔らかく微笑んだ。
「初めまして、セフィリアさん」
思わず目を見開いた。
王都へ来てから、初めて名前を呼ばれた。
勇者ではなく。
一人の人間として。
この少女がヴァルディア王国の王女アイシャだと知ったのは、もう少し後のことだった。




