↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
星すら斬るまで、俺は振り続ける  作者: ゆ
第八章 帰郷、武の原点
PR
114/163

第111話 また帰る日まで

 出発の朝。

 朝食を終えた頃には、玄関へ俺と姉の荷物が並べられていた。

 その隣には、魔導技術で内部の温度を保ち、料理の鮮度を長く維持できる保存箱がいくつも積まれている。

 昨日の時点でも多いと思っていた。

 だが、一晩でさらに二つ増えていた。


「母上」


「何かしら?」


「この二つは、昨日までなかったと思うのですが」


「朝食の残りと、今朝作ったものを入れました」


「朝食の残りだけで、保存箱が一つ増えるのですか?」


「残りだけではありませんよ。王都へ着いてから食べるものも入っています」


 母が一つ目の保存箱を開く。

 中には握り飯や煮物、焼いた肉と魚が隙間なく詰められていた。

 もう一つの保存箱には、菓子や果物が入っている。


「これでは、食べ切る前に次の便りを出すことになりそうです」


「足りなくなるよりよいでしょう?」


「昨日も同じことを言っていたわね」


 姉が保存箱の数を確かめながら、呆れたように息を吐く。


「私の分はどれですか?」


「印をつけてありますよ」


 母が保存箱の側面を指差す。

 俺のものには黒い紐。

 姉のものには青い紐が結ばれていた。


「どうして私の方が一つ多いのですか?」


「研究室の皆さんへ分けるのでしょう?」


「それは言いましたけど……」


「なら、これくらい必要です」


 姉は反論を諦めたらしい。

 青い紐が結ばれた保存箱を使用人へ運んでもらう。

 父は少し離れたところで、荷物と時計を交互に見ていた。


「出発まで、まだ時間はある」


「では、祖父上へ挨拶をしてきます」


「ああ。父上も待っているだろう」


 母と姉へ断りを入れ、屋敷の奥へ向かう。

 長い廊下を歩く。

 昨日までなら、歩法を意識するたび足音が不自然に変わっていた。

 今朝は何も考えない。

 いつもどおりに歩いた。

 それでも、足裏が床へ触れる瞬間だけは以前よりもはっきりと感じられる。

 身体の重さ。

 前へ傾く力。

 足元から返ってくる力。

 祖父から教わるまで、意識を向けたこともなかったものだ。


 奥座敷の前で足を止める。


「祖父上。レグルスです」


「入れ」


 襖を開く。


 祖父は庭に面した場所へ座り、茶を飲んでいた。


 隣には、昨日使っていた模擬刀が置かれている。


 修練場では厳しい言葉しか聞かなかった。


 だが、こうして茶を飲んでいる姿は、俺が幼い頃から知っている祖父と変わらない。


「出発の挨拶に参りました」


「今生の別れでもあるまい。そこまで畏まる必要はない」


「それでも、しばらく戻れませんので」


「座れ」


 祖父の正面へ腰を下ろす。


 祖父が新しい茶器へ茶を注いだ。


「いただきます」


 両手で受け取り、口へ運ぶ。


 僅かな苦みの後に、柔らかな香りが広がった。


「昨日の歩みを覚えているか?」


「はい」


「なら、今ここでやってみろ」


 茶器を持つ手が止まる。


「この座敷で、ですか?」


「冗談だ」


 祖父が何でもないことのように茶を飲む。

 こうした姿も、幼い頃から何度も見てきた。

 刀を握れば、近づくことさえ躊躇うほど厳しい。だが、刀を置けば冗談を口にすることもある。


「祖父上も、昔から変わりませんね」


「何がだ?」


「刀を持っているときは、あれほどきりっとしているのに、置けばすぐに冗談を言うところです」


「物事には緩急が必要だ」


「昨日までの修練に、緩はあったでしょうか?」


「今、茶を飲ませているだろう」

 祖父の口元が僅かに緩む。


「なるほど。これが緩ですか」


「不満なら、出発まで修練を続けても構わんぞ」


「いえ。今は茶をいただきます」


「昨日の一太刀が出せたからといって、身についたと思うな」

 祖父の声が、少しだけ低くなる。


「分かっています」


「お前が拾ったのは、一枚の花びらにすぎん。それも、少し気を抜けばすぐに風へ飛ばされる程度のものだ」


「手放さないよう、修練を続けます」


「帝国で得た剛の歩みも忘れるな。どちらか一つへ寄れば、もう片方は使えなくなる」


「はい」


「太刀筋の癖も、昨日一度振り切れただけで消えたわけではない」


 全力で刀を振り抜いた直後、刀身が折れたときの感覚。

 恐れは、今も身体に残っている。


「恐れたまま、最後まで通せ」


「覚えています」


「ならばいい」


 祖父が茶器を置く。


「次に帰るまで、その一枚を手放すな」


「はい」


 一度頭を下げる。


「次に帰ってきたときには、祖父上から一本取ってみせます」


「大きく出たな」


「目標は高い方がよいかと思いまして」


「それもそうだ」


 祖父が再び茶器を持ち上げる。


「だが、まずはこの茶を一滴こぼさせるところから始めろ」


「祖父上から一本取るより、難しいのではありませんか?」


「よく分かっているではないか」


 祖父は平然と茶を飲んでいる。

 母と俺の攻撃へ割って入ったときでさえ、縁側に置かれていた茶器の水面には波紋一つ生まれていなかった。

 祖父の茶をこぼす。

 確かに、刀を当てるより先に越えなければならない壁かもしれない。


「努力します」


「ああ。少しは楽しみにしておこう」


 祖父の声は、普段と変わらない。

 それでも、その言葉だけで十分だった。

 残っていた茶を飲み干し、茶器を置く。


「ありがとうございました、祖父上」


「礼を言うのは、教えたものを身につけてからにしろ」


「では、次に帰ってきたときに改めて」


「そのときは、王都の茶葉も持ってこい」


 立ち上がろうとした身体が止まる。


「修練の礼ですか?」


「稽古場を壊した詫びだ」


「壊したのは、俺だけではありません」


「ディアナの分は、エドガーへ請求する」


「父上が気の毒ですね」


「妻を止められなかった責任だ」


 祖父は最後まで真顔だった。

 冗談なのか、本気なのか分からない。

 だが、僅かに細められた目は楽しそうに見えた。


「次は、上等なものを探してきます」


「ああ。行ってこい、レグルス」


「はい」

 祖父へ深く頭を下げ、奥座敷を出た。


 玄関へ戻ると、荷物の積み込みはほとんど終わっていた。

 駅まで馬車を引く二頭の馬が、前庭で静かに鼻を鳴らしている。

 俺を迎えるために王都まで来ていた馬車だ。

 帰りも行きと同じように、車体だけを貨物魔導列車へ載せることになっている。


「随分ゆっくりしていたわね」

 姉が馬車の前で待っていた。


「祖父上から茶をご馳走になっていた」


「それだけ?」


「次に帰るときは、王都の茶葉を持ってくるように言われた」


「お祖父様が?」


「ああ。稽古場を壊した詫びらしい」


 姉が母へ顔を向ける。


「母上にも責任があるのでは?」


「そうね。レグルスが買ってきた茶葉を、私から渡しておきます」


「俺が買うことは決まっているのですか?」


「お祖父様へ教えていただいたのでしょう?」


「そうですが……」


「諦めろ」

 父が昨夜と同じ言葉を口にした。


「父上にも請求すると、祖父上が言っていました」


「なぜ私に?」


「母上を止められなかった責任だそうです」


 父が黙る。

 隣に立つ母へ視線を向け、すぐに逸らした。


「父上らしい理屈だ」


 反論するつもりはないらしい。


「出発前に、話は終わりましたか?」


 母が俺の前へ立つ。


「はい」


「忘れ物は?」


「ありません」


「《獅心》とセレスは?」


「ここにあります」

 腰にある鞘とセレスを示す。


「便りを出すための紙と封筒も入れましたよ」


「母上が荷物に入れたのですか?」


「忘れるといけませんから」


「王都でも購入できます」


「用意しておけば、買いに行く必要はないでしょう?」


 返す言葉が見つからない。

 母は満足そうに頷き、そのまま俺の身体を抱き締めた。


「母上?」


「次は、もう少し長く滞在してくださいね」


「分かりました」


「危険な場所へ行くなとは言いません。言っても聞かないでしょうから」


「それは……」


「ですが、必ず帰ってきてください」


 昨夜、父へした約束を思い出す。

 今度は迷わず答えた。


「はい。必ず帰ります」


 母の腕が離れる。

 目元は穏やかに笑っていた。

 続いて、母は姉も抱き締める。


「アリシアも、研究ばかりして食事を抜いてはいけませんよ」


「分かっています、母上」


「本当に?」


「保存箱があれだけあれば、しばらくは嫌でも食べます」


「嫌なのですか?」


「そういう意味ではありません」


 姉が慌てて言い直す。

 母は満足したように頷いた。

 父が俺と姉の前へ立つ。


「王都へ着いたら、便りを寄越せ」


「はい、父上」


「分かりました」


 父の手が、俺の肩へ置かれる。


「自分の道を歩め」


「はい」


 それだけ言って、父は手を離した。

 姉が先に馬車へ乗る。

 俺も後へ続こうとして、もう一度両親へ振り返った。


「行ってきます、父上。母上」


「ああ。行ってこい」


「行ってらっしゃい、レグルス」


 馬車へ乗り込む。

 扉が閉じられ、ゆっくりと車輪が動き出した。

 窓から、父と母の姿を見る。

 二人とも、馬車が前庭を離れてもその場に立ち続けていた。


 屋敷の横を通り過ぎる。

 庭に面した縁側へ目を向ける。

 祖父が座っていた。

 先ほどと同じように茶器を手にしている。

 祖父はこちらへ顔を向け、茶器を僅かに掲げた。

 俺も座席へ座ったまま頭を下げる。


 次に帰るまで。

 その茶を一滴こぼさせるほど、強くなってみせる。

 屋敷が木々の向こうへ隠れる。

 俺は前へ向き直った。


 駅へ着くと、貨物魔導列車はすでに停車していた。

 長い車体の後方には、馬車を載せるための貨物車両が連結されている。

 馬車から降り、使用人たちが荷物を確認するのを待つ。

 二頭の馬が車体から外された。

 馬たちは、このまま使用人とともに屋敷へ戻る。

 残された馬車の車体が、貨物車両に備えられた昇降台へ載せられる。

 低い駆動音とともに昇降台が上がり、車体が貨物車両の中へ収められた。

 固定具が取り付けられ、車輪が動かないよう止められる。

 保存箱も同じ車両へ運び込まれた。


「行きと同じとはいえ、不思議な光景ね」


 隣で姉が馬車を見上げている。


「馬車だけが列車へ乗っているからか?」


「ええ。王都へ着けば、また別の馬に引かれるのでしょう?」


「別邸から迎えが来ると、父上が言っていた」


「連絡は届いているから、問題ないわ」


 列車の出発を知らせる鐘が鳴る。

 俺と姉も乗車し、向かい合う席へ座った。

 ほどなくして、車体が僅かに揺れる。

 窓の外の景色が、ゆっくりと後方へ流れ始めた。


 駅の建物が遠ざかる。

 緑に覆われた山々が、朝の光を受けて輝いている。

 王都へ向かう貨物魔導列車は、次第に速度を上げていった。

 しばらく景色を眺めた後、足元へ置いていた保存箱を開く。

 黒い紐が結ばれた、俺のためのものだ。

 中から握り飯を一つ取り出す。


「もう食べるの?」


 姉が信じられないものを見るような目を向けてくる。


「母上が列車の中でも食べるように言っていただろう」


「朝食を食べてから、まだそれほど経っていないでしょう?」


「保存箱を一つ減らさなければ、家の中が埋まる」


「王都へ着くまでに一つ空にするつもり?」


「無理だとは思う」


「思うではなく、無理よ」


 姉も呆れながら、保存箱から菓子を一つ取り出した。


「姉上も食べるのか?」


「これは母上が私へ用意してくれたものよ」


「俺の保存箱から取っただろう」


「弟のものは、姉のものでもあるの」


「今決めただろう」


「昔からそうよ」


 姉が当然のように菓子を口へ運ぶ。

 俺も握り飯を食べる。

 味は朝食で食べたものと同じだった。

 それでも、屋敷から離れた後に食べると、どこか違って感じる。


「それで」


 姉が菓子を食べ終え、こちらへ顔を向ける。


「お祖父様からは、何を教わったの?」


「歩法だ」


「歩法?」


「《桜舞》の基礎を教わった」


 姉の目が僅かに見開かれる。


「お祖父様が、自分の技を教えたの?」


「入口だけだと言われた」


「それでも珍しいわ」


 帝国で得た剛の歩み。

 祖父の《桜舞》へ続く柔の一歩。

 二つの違いと、昨日の修練で斬撃へつなげたことを話す。

 姉は途中で口を挟まず、静かに聞いていた。


「正反対の歩みを、切り替えて使うのね」


「ああ。今は混ぜるべきではないと言われた」


「無理に混ぜれば、どちらの長所も消えるものね」


「魔術式でも同じなのか?」


「ええ。性質の異なる魔術式を一つへ組み込むと、互いに干渉することがあるわ」


 姉が指先を立てる。


「無理に一つへするより、それぞれを独立させたまま必要な瞬間に切り替えた方が、安定する場合もある」


「やはり、似た考え方があるのか」


「分野が違っても、根にあるものは同じなのかもしれないわね」


 祖父が、母の合気について話していたことを思い出す。

 武術。

 歩法。

 魔術式。

 形は違っても、力の扱い方には共通するものがある。

 姉へ話したことで、祖父の教えが少しだけ整理できた気がした。


 その後も列車は進み続けた。

 緑豊かな山々が遠ざかり、窓の外へ町や畑が増えていく。

 王都が近づくにつれ、すれ違う魔導列車の数も多くなった。


「レグルス」

 窓の外を見ていた姉が、不意に俺の名前を呼ぶ。


「何だ?」


「一つ、言っておくことがあるの」


 先ほどまでより真剣な声だった。


「今のあなたなら、戦闘能力ではもう私を超えているわ」


 すぐには意味を理解できなかった。


「突然、何を言っている」


「突然ではないわ。実家へ戻ってから、ずっと考えていたの」


「姉上は、俺の手合わせを見ていないだろう」


「母上から聞いたわ」


 姉が腕を組む。


「あなたは、母上と長時間正面から打ち合った。攻撃を受けながら戦い方を変え、母上へ傷を負わせ、最後にはお祖父様が止めに入るほどの一撃を放ったのでしょう?」


「母上は、本気ではありませんでした」


「最初はね」

 姉の口元へ僅かな笑みが浮かぶ。


「途中から楽しくなって、かなり力を出していたと自分で話していたわ」


「母上が、そう言ったのか?」


「ええ。嬉しそうにね」


 あのときの母の笑顔を思い出す。

 否定はできなかった。


「魔術式の知識や構築なら、あなたに負けるつもりはないわ」


 姉が続ける。


「十分に準備する時間があれば、私にしかできないこともある。距離と場所を選べるなら、戦いようも変わる」


「なら、姉上の方が上ではないのか?」


「それは魔術式師としての能力よ」


 姉の目が、真っ直ぐに俺を見る。


「身体能力、魔力の扱い、近距離での攻防、戦いながら判断を変える力。それらを含めて真正面から戦えば、今の私はあなたに勝てない」


 冗談を言っている様子はなかった。

 姉は昔から、俺より先を歩いていた。

 魔力を扱えなかった俺とは違い、幼い頃から魔術式の才能を示していた。

 学園へ入り、今では最上級生として研究を続けている。

 兄と同じように、手の届かない存在だと思っていた。


「実感がありません」


「少しくらい喜びなさい」


「俺は、姉上のように魔術式を扱えません」


「私も、あなたのように刀は振れないわ」


 姉が肩をすくめる。


「違う道を歩いているのだから、当然でしょう?」


 祖父の言葉が重なる。

 正反対だからこそ、並べて持て。

 俺と姉も、同じ道を競っているわけではない。

 それぞれが選んだ道を歩いている。


「ただし、魔術式師としてはまだ私の方が上よ」


「分かっている」


「そこは、もう少し悔しがってもいいのだけれど」


「姉上が簡単に追いつける相手ではないことも分かっている」


 姉が目を瞬かせる。

 少しして、満足そうに笑った。


「なら、戦いになったときは前を任せるわ」


「姉上を守るのは、弟の役目だったか?」


「今決めたの」


「やはり今決めたのか」


「嫌なの?」


「そうは言っていない」


「なら、お願いね」


「姉上が俺の後ろで大人しくしているとは思えないが」


「よく分かっているじゃない」


 姉が楽しそうに笑う。

 俺も僅かに口元を緩めた。

 姉から戦闘能力を超えたと言われても、まだ完全には受け入れられない。

 母にも、父にも、祖父にも遠く及ばない。

 兄にも、まだ学ぶべきものがある。


 それでも、以前の俺とは違う。

 家族の中で、何も持たず後ろを追い続けていた子供ではない。

 自分の道を選び、少しずつ前へ進んでいる。

 窓の外へ、王都を囲む外壁が見え始めた。

 高く連なる建物。

 行き交う魔導列車。

 遠くからでも分かる、人と魔導機械の多さ。

 故郷の静かな景色とはまるで違う。


『帰ってきたわね』

 セレスの声が聞こえる。


「ああ」


 列車が速度を落とし始める。

 間もなく、王都中央駅へ到着した。

 貨物魔導列車が所定の位置へ停車する。

 俺と姉が降りる頃には、貨物車両から馬車の車体を降ろす作業が始まっていた。

 駅の一角には、馬具をつけた二頭の馬が待っている。

 その傍らに立っていた数人の使用人が、姉と俺へ気づいて頭を下げた。


「お帰りなさいませ、アリシア様、レグルス様」


「迎えをありがとう」

 姉が答える。


「お待ちしておりました。馬車の準備も、すぐに整います」


 別邸から迎えに来た使用人たちだった。

 貨物車両から降ろされた馬車の車体が、駅の外へ運ばれる。

 使用人たちは車輪と固定部を確認した後、別邸から連れてきた二頭の馬を車体へ繋いだ。

 荷物と保存箱も積み直される。

 すべての準備が整い、俺と姉は馬車へ乗り込んだ。


 馬車が王都中央駅を離れる。

 窓の外を、人の波と建物が流れていく。

 露店から漂う料理の匂い。

 通りを走る小型の魔導車。

 遠くから聞こえる商人たちの声。

 数日離れていただけだ。

 それでも、随分と久しぶりに感じられた。

 やがて、馬車が俺の家の前で止まる。

 使用人たちが黒い紐の結ばれた保存箱と、俺の荷物を降ろしていく。


「姉上の保存箱が混ざっているぞ」


 青い紐の結ばれた保存箱が一つ、俺の荷物の中に置かれていた。


「あら、本当ね」


「別邸へ持っていかなくてよいのか?」


「それはあなたの家へ置いておいて」


「なぜだ?」


「後で食べに来るから」


「最初から、そのつもりで混ぜたのではないか?」


「偶然よ」


 姉が視線を逸らす。

 偶然ではないらしい。


「研究へ戻るのではなかったのか?」


「食事くらいはできるわ。それに、母上からもあなたがきちんと食べているか確認するよう頼まれているもの」


「母上の言葉を都合よく使っていないか?」


「姉が弟を心配して、何が悪いの?」


「悪いとは言っていない」


「なら、決まりね」


 姉が馬車から降り、俺の前へ立つ。


「私はこのまま別邸へ戻って、明日から学園よ」


「研究も再開するのか?」


「ええ。休んだ分を取り戻さないといけないから」


「無理はするな」


「それは私の台詞でしょう?」


「先ほど前は俺に任せると言っただろう」


「普段の生活まで任せた覚えはないわ」

 姉が笑う。


「レグルス」


「何だ?」


「強くなったわね」


 列車の中で言われた言葉よりも、ずっと柔らかい声だった。


「……ありがとう、姉上」


「今度は素直に受け取ったわね」


「二度も否定する必要はない」


「そういうことにしておきましょうか」


 どこかセレスに似た言い方だった。


「次に会うときまで、追い越されたままでいるつもりはないから」


「なら、俺も先へ進む」


「ええ。それでこそ、私の弟よ」


 姉が馬車へ戻る。


「また近いうちに来るわ」


「ああ」


「保存箱の料理を、全部一人で食べないでね」


「姉上の分は、青い紐の一つだけだ」


「細かいことを気にしないの」


 扉が閉じられる。

 馬車が動き出し、王都の通りへ戻っていく。

 姿が見えなくなるまで見送り、自宅の扉へ向き直った。

 鍵を差し込み、扉を開く。

 人のいない室内は静かだった。

 購入したばかりの頃は、まだ他人の家へ入ったような感覚があった。


 今は違う。

 数日離れていただけなのに、戻ってきたという安堵を覚える。


『一つの家を出て、もう一つの家へ帰ってきたのね』

 セレスが言う。


「そうだな」


『どちらが、あなたの帰る場所なの?』


 実家には、父と母、祖父がいる。

 兄も姉も、それぞれの道を歩きながら、いつか帰ってくる。

 この家は、俺が自分で選んだ場所だ。

 冒険者として生き、これから先へ進むための場所。


「どちらもだ」


『欲張りね』


「帰る場所は、一つでなければならないのか?」


『いいえ。多い方が、迷わず帰ってこられるでしょうね』


「ああ」


 荷物を室内へ運び入れる。

 黒い紐の保存箱。

 姉が残した、青い紐の保存箱。

 家族から持たされたものが並ぶだけで、静かだった室内へ僅かな温かさが生まれた気がした。


 扉を閉める。

 誰もいない室内へ向けて、自然と言葉が出た。


「ただいま」


『おかえりなさい、レグルス』

 セレスの声が、静かな家の中へ響く。


 故郷で拾った一枚の花びらと、二つの歩みを携えて。

 俺はもう一つの帰る場所へ、戻ってきた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。