↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
星すら斬るまで、俺は振り続ける  作者: ゆ
第八章 帰郷、武の原点
PR
113/163

第110話 二つの歩み

 屋内修練場へ入ると、祖父は昨日と同じ場所に立っていた。

 簡素な稽古着に、右手には模擬刀。

 ただし、昨日とは一つだけ違うものがある。


 祖父の背後。

 修練場の奥に、一本の巻藁が立てられていた。


「《獅心》は持ってきたな」


「はい」


 腰に差した《獅心》へ手を添える。

 刀身に走る黒い線も、柄へ伝わる重みも、普段と変わらない。


「セレスは置いておけ」


『また見学なのね』


 壁際の台へセレスを立てかける。


「刀を使うのであれば、お前も必要ではないのか?」


『《獅心》を振るうのはあなたでしょう? 私が横から口を出せば、修練にならないわ』


「分かっているなら、静かに見ていろ」


『ええ。頑張って』


 修練場の中央へ戻る。

 祖父の前で立ち止まり、腰を落とした。


「魔力は使うな」


「はい」


「身体強化も、属性付与も禁止だ」


「分かっています」


 祖父が模擬刀を腰へ差す。


「今日の課題は簡単だ」


 祖父が僅かに身体をずらす。

 その背後にある巻藁が見えた。


「私の横を抜け、あれを一太刀で斬れ」


「祖父上を相手に、ですか?」


「昨日は私の間合いへ入っただけで満足していたようだが、敵へ近づくだけでは意味がない」


 祖父の手が、模擬刀の柄へ添えられる。


「歩みを斬撃へつなげてみろ」


 祖父との距離は八歩ほど。

 その背後にある巻藁までは、さらに三歩。

 昨日よりも距離は短い。

 だが、ただ近づくだけではない。

 祖父の間合いを抜け、刀を振るわなければならない。


「始めろ」


「はい」


 肩の力を抜く。

 身体の中心にある重心を、僅かに前へ傾ける。

 進もうとしない。自分の重さへ身体を任せる。

 倒れるより先に、右足を置いた。

 足音はない。


 二歩目。

 床を蹴らず、生まれた流れへ左足を乗せる。

 昨日の最後に掴んだ感覚へ近い。

 だが、三歩目へ移ろうとした瞬間。

 祖父の姿が目の前にあった。


「遅い」


 模擬刀の切っ先が、喉元へ触れている。

 祖父がいつ抜いたのか、まったく見えなかった。


「昨日よりは、速く動いたつもりでした」


「足音を立てないことへ意識を向けすぎだ」


「ですが、地面を蹴れば柔の歩みではなくなります」


「だから遅く歩いたのか?」


「それは……」


「昨日も言ったはずだ。柔とは遅いことではない」


 模擬刀の切っ先が喉元から離れる。


「戻れ」


 元の位置へ戻る。

 祖父は再び巻藁の前へ立った。


「もう一度だ」


 息を吐く。

 静かに歩こうとするから遅くなる。

 ならば、速く動けばいい。

 右足で床を踏む。足裏から脚へ。脚から腰へ。腰から上半身へ。

 帝国で何度も繰り返した、剛の歩み。

 床を蹴る音と同時に、身体が前へ飛び出した。


 一息で祖父との距離が消える。

 祖父の右手が動いた。

 鞘から抜かれた模擬刀が、左肩へ向かって振り下ろされる。


 《獅心》を抜く。

 刀身を斜めに立て、祖父の一撃を受け止めた。

 乾いた衝突音が響く。

 両腕へ重い衝撃が伝わった。

 だが、耐えられないほどではない。

 祖父の模擬刀を押し返そうと、前足へ力を込める。


 その瞬間。

 祖父の刀から重さが消えた。


「なっ――」


 押し返すはずだった力が行き場を失う。

 身体が前へ流れ、上体が僅かに崩れた。

 祖父の模擬刀が《獅心》の刀身を滑り、俺の手首へ触れる。


「そこまでだ」


 動きを止める。

 祖父の模擬刀が当たっている場所は、あと僅かに力を加えられれば刀を握れなくなる位置だった。


「速さは悪くない」


 祖父が模擬刀を引く。


「だが、攻撃を受けた瞬間に足を止めたな」


「避けるより、受け止めた方が早いと判断しました」


「それで巻藁へ届いたか?」


「……いいえ」


「剛で進み、剛で受け、さらに剛で押し返そうとした。お前の力は、すべて私を止めるために使われた」


 祖父が背後の巻藁へ目を向ける。


「斬るべきものを忘れるな」


「はい」


「もう一度だ」


 元の位置へ戻る。

 一度目は、柔だけで近づこうとして遅れた。

 二度目は、剛で踏み込んだが、祖父の攻撃を受け止めて足が止まった。


 剛と柔。

 二つを並べて持てと言われた。

 だが、どう使えばよいのか。

 右足を踏み込み、祖父との距離を詰める。

 模擬刀が迫る。

 今度は受け止めない。

 上体を右へ傾け、刀の軌道から外れようとする。


 だが、動きが遅い。

 祖父の模擬刀が肩を軽く叩いた。


「剛から無理に柔へ変えようとしたな」


「はい」


「切り替えることへ意識を向けた瞬間、お前の歩みは止まっている」


 もう一度。

 剛の歩みで入る。

 模擬刀を避けようとして、床を強く蹴る。


「それでは剛のままだ」


 もう一度。

 柔の歩みで入る。

 近づく前に喉元へ模擬刀を突きつけられる。


「遅い」


 もう一度。

 剛から柔へ。

 足が絡まり、床へ片膝をつく。


「考えすぎだ」


 祖父の声が、修練場へ何度も響いた。

 額から汗が流れる。

 魔力は使っていない。

 それでも、呼吸は少しずつ荒くなっていた。


「剛と柔を混ぜろとは言っておらん」


 祖父が模擬刀を肩へ担ぐ。


「では、どうすればよいのですか?」


「必要なところで、必要な歩みを選べ」


「選ぼうとすれば、身体が止まります」


「ならば、止まらないところで選べ」


「また難しいことを言いますね」


「昨日よりも課題は難しくなると言ったはずだ」


 祖父は、それ以上の答えを教えようとしなかった。

 剛と柔を混ぜるのではない。

 すべてを柔へ変える必要もない。

 剛の歩みが間違っているわけでもない。

 必要なところで、必要な歩みを選ぶ。

 祖父へ近づくまでは、剛でいい。


 問題は、その先だ。

 俺が足を止めるのは、祖父の攻撃を受け止めようとするからだ。

 ならば、受けなければいい。

 だが、自分の力だけで避けようとすれば、新たに地面を蹴る必要がある。

 昨日の修練を思い出す。

 胸を押されたとき。

 肩を押されたとき。

 祖父から伝わってきた力へ逆らわず、その力を自分の歩みへ変えた。

 刀で触れた場合も、同じではないのか。


「お願いします」


 元の位置へ戻る。

 《獅心》を鞘へ納め、柄へ手を添えた。

 祖父の目が僅かに細くなる。


「来い」


 右足で床を踏む。

 足裏から生まれた力を、全身へ通す。


 一歩。

 二歩。

 剛の歩みで、一気に祖父の間合いへ入る。


 模擬刀が鞘から走った。

 左脇腹を狙った横薙ぎ。

 《獅心》を抜き、祖父の模擬刀へ触れさせる。

 受け止めない。

 刀身へ伝わった力に合わせ、両腕から力を抜く。

 祖父の斬撃に押されるまま、《獅心》を右へ流した。


 刀に引かれ、上体が右へ傾く。

 重心が身体の中心から外れる。

 倒れる方向へ、右足を置く。

 祖父の模擬刀が目の前を通り過ぎた。

 俺の身体は止まっていない。

 祖父の左側。巻藁へ続く位置へ移動している。

 左足を前へ置く。

 初めて、祖父の横を抜けた。

 目の前に巻藁がある。

 右へ流されていた《獅心》を返し、そのまま斜めに振り下ろす。

 刃が巻藁へ食い込んだ。


 その瞬間。

 腕から、僅かに力が抜けた。

 刀身は巻藁の半ばまで進み、止まった。


「くっ……」


 《獅心》を引き抜く。

 巻藁には深い切れ目が残っている。

 だが、斬り落とせてはいない。


「今も最後で逃がしたな」

 祖父の声が背後から聞こえる。


「はい」


「歩みは悪くなかった」


 祖父が隣へ立ち、巻藁の切れ目を見る。


「それでも、斬れなければ意味はない」


 握っている《獅心》へ目を落とす。

 刀身の黒い線。

 今の一撃で、刃に傷はついていない。

 それでも、身体は覚えていた。

 浮遊大陸で戦った機械。

 全力で振り抜いた一撃。

 直後、刀身が根元から折れた。

 手に残ったのは、半分ほどになった刀だけだった。


 あれ以降、力を込めて斬ろうとするたび、僅かに腕が緩む瞬間がある。

 今の《獅心》は、あのときの刀とは違う。

 傷ついても、魔力などを糧に刀身を復元する概念星器だ。

 頭では分かっている。

 だが、身体に残った感覚までは消えていない。


「刀が折れるのが怖いか」


「……はい」

 祖父へ嘘はつけなかった。


「《獅心》は、折れても復元します」


「ならば、恐れる必要はないか?」


「そう思っていました」


「違ったようだな」


 祖父は責めなかった。

 巻藁へ残った切れ目を、静かに見ている。


「恐れを消す必要はない」


「恐れたまま斬れと?」


「ああ」


 祖父が俺へ向き直る。


「恐れは、忘れた頃に同じ過ちを繰り返さぬためにある」


 祖父の視線が《獅心》へ向けられる。


「刀を信じろとは言わん。どれほど優れた刀でも、絶対に折れぬとは限らんからな」


「はい」


「だが、自分が斬ると決めた一太刀を、最後で疑うな」


 《獅心》の柄を握り直す。


「折れることを恐れたまま、最後まで通せ」


「……分かりました」


「言葉で分かっても意味はない。もう一度だ」


 祖父が、切れ目の入った巻藁を回す。

 傷のない面がこちらへ向けられた。

 再び巻藁の前へ立ち、模擬刀を腰へ差す。


「これで最後にする」


「はい」


「来い」


 元の位置へ戻る。

 八歩先に祖父がいる。

 その背後に、斬るべき巻藁がある。


 目を閉じる。

 昨日から何度も繰り返した感覚を思い出す。

 剛は、地面から力を得る歩み。

 柔は、生まれた力へ逆らわず進む歩み。

 どちらか一つを選ぶ必要はない。

 混ぜる必要もない。

 必要なときに、必要な方を使う。


 目を開く。

 祖父だけを見る。

 右足で床を踏んだ。力が足から腰へ通る。

 腰から背中へ。背中から両腕へ。

 身体が前へ進む。


 一歩。

 二歩。

 三歩。

 祖父の間合いへ入った。


 模擬刀が抜かれる。

 速い。

 刀身が右肩へ迫る。

 《獅心》を抜き、祖父の刃へ重ねる。


 衝撃が両腕へ伝わった。

 止めない。

 押し返さない。

 模擬刀から伝わる力へ、身体を預ける。


 左へ傾く。

 その先へ足を置く。

 祖父の刀が、《獅心》の刀身を滑っていく。

 肩のすぐ脇を模擬刀が通り抜けた。

 剛の歩みで入った身体が、柔の一歩で祖父の横へ流れる。


 足は止まっていない。

 巻藁が目の前へ現れた。

 腰を回す。背中から肩へ。肩から肘へ。肘から手首へ。

 これまで身体へ通してきた力を、《獅心》の刀身へ乗せる。

 折れるかもしれない。

 その恐れは、消えていなかった。


 それでも、斬ると決めた。

 最後まで疑うな。

 《獅心》を振り抜く。

 刃が巻藁へ入った。

 今度は、腕の力を緩めない。

 刀身が巻藁を通り抜ける。

 黒い線が、斬撃の軌跡となって走った。

 振り抜いた《獅心》の切っ先が、床の僅か手前で止まる。


 背後で、小さな音がした。

 斜めに断たれた巻藁の上半分が、ゆっくりと横へずれ落ちる。

 床へ落ち、乾いた音を立てた。


 呼吸を吐く。

 腕には、最後まで刀を振り抜いた感触が残っている。

 《獅心》の刀身を見る。傷一つない。


「斬れました」


「ああ」


 祖父が模擬刀を鞘へ戻す。


「剛で入り、柔で外し、刀へつないだ」


 切り落とされた巻藁へ視線を向ける。


「粗いが、お前の歩みの形は見えたな」


「今のが、《桜舞》なのでしょうか」


「違う」

 祖父はすぐに否定した。


「これは私の《桜舞》ではない」


「では、何なのですか?」


「お前が拾った花びらを、お前自身の歩みへ置いただけだ」


 祖父が俺の前へ立つ。


「帝国で得た剛の歩みも、私から学んだ柔の一歩も、使うのはお前だ」


「はい」


「どちらかを真似るだけでは、その者を越えられん」


 祖父の言葉が胸へ入ってくる。

 リヴィアから学んだ命脈闘法。祖父から学んだ《桜舞》。

 どちらも、教えられたまま使うだけでは自分の技にはならない。


「一度できたことと、身についたことは違う」


 祖父が続ける。


「次に同じ動きができるとは限らん。太刀筋の癖も、これで直ったわけではない」


「分かっています」


「ならば、修練を疎かにするな」


「はい、祖父上」


 祖父へ深く頭を下げる。


「ありがとうございました」


「礼を言うのは早い」


 顔を上げる。


「私が教えたのは、入口だけだ。その先を歩けるかどうかは、お前次第だからな」


「必ず、自分の歩法にしてみせます」


「そうか」

 祖父は短く答え、模擬刀を壁際へ戻した。


「明日の修練はない」


「もう教えていただけないのですか?」


「短い間に詰め込んでも、身体はついてこない。今教えられることは、ここまでだ」


 祖父がこちらへ振り返る。


「王都へ戻る支度をしろ」


「明日、戻ることになっているのですか?」


「アリシアの休みも終わる。帰るなら、同じ列車に乗ればいい」


 姉も王都へ戻る。

 申請した休みを使って帰ってきた以上、いつまでも実家へ滞在しているわけにはいかない。


「分かりました」


 《獅心》を鞘へ納める。

 壁際のセレスを腰へ戻した。


『お疲れ様』


「最後まで見ていたのか?」


『ええ。今度は綺麗に斬れたわね』


「一度だけだ」


『それでも、以前なら最後に力を緩めたことにも気づいていなかったのでしょう?』


「ああ」


『なら、一歩前進ね』


「一歩ばかりだな」


『歩法の修練なのだから、ちょうどいいではない』


 楽しそうな声が腰から聞こえる。

 祖父へもう一度頭を下げ、修練場を出た。

 廊下へ出ると、壁へ背を預けた姉が待っていた。


「終わった?」


「ああ。姉上は、どうしてここに?」


「お祖父様から、明日王都へ戻るように言われたでしょう?」


「今、聞いたところだ」


「やっぱり」


 姉が壁から背を離す。


「私も明日の魔導列車で戻るわ。申請していた休みも終わるし、研究もあまり長く空けられないから」


「研究は順調なのか?」


「弟に心配されるほど遅れていないわよ」


「心配しただけだ」


「分かっているわ」


 姉が僅かに笑う。


「せっかくだから、一緒に帰りましょう。あなたも王都へ戻るのでしょう?」


「ああ。そのつもりだ」


「なら、決まりね。駅までの手配は父上がしてくれているわ」


「ずいぶん準備が早いな」


「お母様なんて、もう私たちへ持たせる料理を作り始めているわよ」


「明日の分を、今からですか?」


「明日の分だけならいいけどね」

 姉が呆れたように息を吐く。


「王都で半月は暮らせそうな量を用意するつもりみたい」


「止めなかったのか?」


「止められると思う?」


「……無理だな」


「でしょう?」


 二人で廊下を歩き始める。

 台所に近づくにつれ、食材を刻む音が聞こえてきた。

 母だけではない。

 屋敷の使用人たちまで動いているらしい。


 台所を覗くと、調理台の上にはすでにいくつもの料理が並んでいた。

 その傍らには、魔導技術によって内部の温度を保ち、料理の鮮度を長く維持できる保存箱が置かれている。

 母はその一つへ、次々と料理を詰めていた。

 父も近くの卓上へ広げた時刻表を見ていた。


「二人とも、ちょうどよいところへ来ましたね」

 母が顔を上げる。


「修練は終わったの?」


「はい。短い間に教えられることは、ここまでだと言われました」


「お祖父様らしいわね」


 母の視線が俺の全身を確かめるように動く。


「怪我はしていない?」


「大丈夫です。今日は巻藁を斬っただけですので」


「巻藁を斬るだけで終わったとは思えないけれど」


「父上が相手なら、必要以上の怪我はさせん」


 父が時刻表から顔を上げる。


「お前と一緒にするな、ディアナ」


「あら。私も必要以上の怪我はさせていませんよ」


「稽古場を半壊させた者の言葉とは思えんな」


「あれはレグルスも止まらなかったでしょう?」


 母がこちらを見る。


「そうよね?」


「俺に聞かないでください」


「二人とも反省するべきだと、先日も言ったはずだ」

 父が深く息を吐く。

 姉が隣で小さく笑っていた。


「それより、明日の列車だ」


 父が時刻表の一点を指で示す。


「朝の便に二人分の席を取ってある。駅までは馬車を出すから、朝食を終えたら出発するぞ」


「ありがとうございます、父上」


「荷物は今夜のうちにまとめておけ。アリシアもだ」


「分かっています」

 姉が答える。


 父の話を聞いている間にも、母は次々と料理を保存箱へ詰めていた。

 一つ目が閉じられ、すぐに二つ目の箱が運ばれてくる。


「母上」


「何かしら?」


「これは、すべて俺たちへ持たせるものですか?」


「ええ。列車の中で食べるものと、王都へ着いてから食べるものよ」


 調理台の上を見る。

 握り飯。

 煮物。

 焼いた肉や魚。

 日持ちするよう味を濃くした料理まで並んでいる。


「王都へ着くまでに、これほど必要でしょうか」


「余ったら、あなたの家で食べればいいでしょう?」


「俺一人では食べ切れません」


「私も手伝うわよ」

 姉が当然のように言う。


「姉上の分もあるだろう」


「研究室のみんなへ分けてもいいでしょう?」


「それなら、初めから姉上の荷物へ入れてくれ」


「アリシアの分は、別に用意していますよ」


 母が奥へ顔を向ける。

 そこには、すでに三つの保存箱が積まれていた。

 姉の表情が僅かに固まる。


「……母上。あれもすべてですか?」


「ええ」


「研究室へ持っていくにしても、多すぎます」


「二人とも、王都ではきちんと食べているのか分からないもの」


「レグルスの家は、台所もしっかりしたものを選びました。自分で料理もできますよ」


 姉がそう言うと、母の手が止まった。


「そういえば、アリシアと一緒に選んだのでしたね」


「ええ。冒険者ギルドからも遠くありませんし、周囲の治安や結界も確認しています」


「なら、今度王都へ行ったときに見せてもらわないといけませんね」


 母が俺へ向き直る。


「構わないでしょう、レグルス?」


「もちろんです」


「私もまだ見ていない」


 父が時刻表を畳む。


「場所を記したものを残しておけ」


「分かりました。ですが、父上と母上が王都へ来る予定があるのですか?」


「今のところはない」


 父が答える。


「だが、子供がどこで暮らしているのか知っておくことは、親として当然だろう」


「そうですね」


 昨夜の父の言葉を思い出す。

 ここは、いつでも帰ってくる場所だ。

 だが、俺が王都で暮らす家も、これから戻るべき場所の一つになっていく。


「部屋を修練場代わりにして、壊したりしないようにな」


「そこまで無茶はしません」


「以前の稽古場を見る限り、信用できんな」


「あれは母上も一緒でした」


「また私だけが悪いように聞こえるわね」


 母が笑顔のまま父へ顔を向ける。


「そうは言っていない」


「では、どういう意味ですか?」


「二人とも自重しろという意味だ」


 父は迷わず答えた。

 先日の経験が生きているらしい。


『お父様も、学習しているのね』

 腰のセレスから、小さな声が聞こえた。

 返事をすれば両親にも聞こえるため、黙っておく。

 母が保存箱の蓋を閉じる。


「次に帰ってきたときは、もっとゆっくりしていきなさい」


「はい、母上」


「修練の続きもある」

 父が言う。


「父上から教わったことを、自分のものにしてから戻ってこい」


「分かりました」


「それと王都へ着いたら、無事に戻ったと便りを寄越せ」


「はい、父上」


「それから、たまには近況も知らせろ。レオンのように必要なことだけ書いて終わらせるな」


「父上も、必要なことしか話さないと思いますが」


 父が僅かに言葉を詰まらせる。


「今は私の話ではない」


「でも、レグルスの言うとおりですよ」

 母がすぐに同意した。


「エドガーからの便りも、いつも用件だけですから」


「簡潔な方が分かりやすいだろう」


「子供たちには近況まで書くように言ったばかりでしょう?」


 父は何も答えず、僅かに視線を逸らした。


「レグルスは、食事のことも書いてくださいね」


「食事のことまでですか?」


「当然です。怪我をしたときも隠してはいけませんよ」


「軽い怪我まで知らせる必要はないでしょう」


「あなたの軽い怪我は信用できないもの」


「それなら、私がときどき確認するわ」

 姉が横から口を挟む。


「同じ王都にいるのだから、様子を見に行けばいいでしょう?」


「姉上まで……」


「諦めろ」

 父が俺の肩を軽く叩く。


「心配をかけたくなければ、無事だと分かる程度には便りを寄越せ」


「分かりました」


「この料理を食べ切った頃に、一度送ってくれればいいわ」


 母が積み上げられた保存箱へ目を向ける。


「便りを出す時期の目安にする量ではないと思います」


「足りないよりはよいでしょう?」


 調理台と積み上げられた保存箱を見る。

 少なくとも、足りなくなる心配だけはなさそうだった。


 俺と姉は顔を見合わせる。


「明日の荷物が増えたな」


「半分はあなたが持ってね」


「姉上の方が多いだろう」


「研究室のみんなへ配るのだから、王都へ着くまでは一緒に運べるでしょう?」


「最初からそのつもりだったのか?」


「姉を手伝うのは、弟の役目よ」


「今決めただろう」


 母が俺たちのやり取りを見て、柔らかく笑う。

 父も呆れたように息を吐きながら、僅かに口元を緩めていた。

 明日には、この家を出る。

 だが、今はまだ家族と過ごす時間が残っている。


「荷造りの前に、何か手伝います」


「それなら、この箱を運んでくれる?」


 母が示したのは、料理が詰まった一つ目の保存箱だった。

 持ち上げると、予想していた以上に重い。


「母上。やはり多すぎませんか?」


「家族四人分なら、これくらい普通ですよ」


「明日帰るのは二人です」


「細かいことを気にするな」

 父が俺の肩を軽く叩く。


「諦めて運べ」


「父上は手伝わないのですか?」


「私は駅までの手配がある」


 そう言って、父は畳んだ時刻表を手に台所から出ていく。

 逃げたように見えたが、口には出さなかった。


『お父様は賢明ね』


「俺もそう思う」

 小さく答え、保存箱を抱え直す。


「何か言った?」

 姉が尋ねる。


「何でもない」


 母と姉の話し声を聞きながら、保存箱を運ぶ。

 明日には、また旅立つ。

 それでも父の言葉と、母の温かな料理。

 そして祖父から拾った一枚の花びらは、王都へ戻った後も俺の中に残り続ける。


 右足を出す。

 地面を蹴ず、自分の身体が傾く力へ任せる。

 足裏が床へ触れた。

 小さな音が鳴る。

 まだ完全な柔の一歩ではない。

 続けて左足を踏み出す。

 今度は床を捉え、身体の中心へ力を通す。

 剛の歩み。

 二つの歩みは、まだ滑らかにつながらない。

 意識しなければ、すぐに以前の歩き方へ戻る。


 それでも。

 帝国で得た歩みと、祖父から拾った一枚の花びら。

 その両方が、確かに俺の中へ残っている。


『明日には、また旅立つのね』


「ああ」


『寂しい?』


 少し考える。

 この場所を離れることに、何も感じないわけではない。

 だが、父が言ってくれた。

 ここは、いつでも帰ってくる場所だと。


「また帰ってくればいい」


『そうね』


 腕の中にある保存箱の重みから、母が詰め込んだ料理の量が伝わってくる。

 俺は家族の声が聞こえる廊下を、ゆっくりと進んだ。

 明日の旅立ちへ向けて。

 まだ一つにはならない、二つの歩みを胸に刻みながら。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。