第109話 柔の一歩
目を覚ましたとき、昨夜の酒は身体に残っていなかった。
一杯しか飲んでいないのだから、当然だろう。
それでも、父の言葉は胸の奥へ残っている。
命を賭けることと、命を捨てることを取り違えるな。
危険を避けるだけでは、守れないものもある。
だが、死んでしまえば帰ることもできない。
『考え込んでいるわね』
「少しな」
『お父様に言われたこと?』
「ああ」
着替えを済ませ、腰へ《獅心》とセレスを差す。
「できることを増やすしかない」
『あなたらしい答えね』
「ほかに何がある」
『ないから言ったのよ』
部屋を出て、屋敷の奥にある屋内修練場へ向かった。
重い扉を開く。
祖父はすでに修練場の中央へ立っていた。
昨日と同じ簡素な稽古着。
右手には、壁際に置かれていた模擬刀が握られている。
「遅くはないな」
「お待たせしました」
「昨夜はエドガーに付き合ったそうだな」
「はい。一杯だけです」
「ならば、問題なく動けるな」
「もちろんです」
祖父の視線が俺の腰へ向く。
「《獅心》は置いておけ。セレスもだ」
壁際の台へ《獅心》を置き、その隣へセレスを立てかける。
『今日も見学なのね』
「歩法を教わるのに、お前は必要ないだろう」
『分かっているわ。昨日より一歩でも進めるといいわね』
「進んでみせる」
修練場の中央へ戻る。
祖父と向かい合い、自然に両脚を開いた。
「魔力は使うな」
「はい」
「魔力での強化もだ」
「分かっています」
「では、昨日と同じところから始める。前へ進め」
肩の力を抜く。重心を身体の中心へ置く。
そこから上体を僅かに前へ傾けた。
身体が倒れ始める。
完全に崩れるより先に、右足を前へ置く。
足裏が床へ触れ、傾いていた身体を支えた。
昨日より滑らかに進めた。
そのまま二歩目へつなげようとする。
左足へ力を込め、床を蹴った。
乾いた音が修練場へ響く。
「止まれ」
祖父の声に動きを止める。
「一歩目だけ形を真似ても意味はない」
「二歩目も同じように動いたつもりでした」
「つもりだけだ。一歩目で生まれた流れを自分で止め、二歩目は力で身体を押し出している」
祖父の模擬刀が、俺の左足を軽く叩く。
「ここで地面を蹴った」
「はい」
「歩みは、途切れた瞬間に死ぬ」
元の位置へ戻る。
「もう一度だ」
身体を前へ傾ける。右足を置く。
一歩目の勢いを残したまま、左足を前へ運ぶ。
今度は地面を蹴らない。
そう意識した瞬間、歩幅が小さくなった。
身体を支え切れず、前へつんのめる。
模擬刀の鞘が胸へ当たり、倒れかけた身体を止められた。
「力を抜くことへ意識を向けすぎだ」
「地面を蹴らないようにしたのですが」
「何かをしないよう意識すれば、それだけ身体は固くなる」
「では、意識せずに行えと?」
「そうだ」
「それができないから、考えているのですが」
「ならば、考えずにできるまで繰り返せ」
祖父らしい答えだった。
元の位置へ戻り、再び前へ進む。
一歩目。二歩目。床を蹴った。
「もう一度」
一歩目。二歩目。
今度は足を置くのが遅れ、軸が浮く。
「もう一度だ」
足音だけが、修練場の中へ何度も響く。
一歩目は、昨日より安定していた。
だが、二歩目へつなげようとすると、地面を蹴るか、身体の軸が崩れる。
どちらも避けようとすれば、足が止まった。
何度目かの失敗をしたところで、祖父が模擬刀を壁際へ置いた。
「歩くのは一度やめろ」
「休憩ですか?」
「違う」
祖父が俺の正面へ立つ。
右手が、俺の胸へ当てられた。
「これから押す。耐えるな」
「踏ん張らずに受けるのですか?」
「そうだ」
「分かりました」
脚から力を抜く。
祖父の手から、僅かな力が加えられた。
反射的に右足を後ろへ引き、床を踏み締める。
祖父の腕から伝わる力が強くなった。
身体の軸が後方へ傾く。
踵へ重心が偏り、そのまま数歩よろめいた。
「耐えるなと言ったはずだ」
「身体が勝手に反応しました」
「お前がこれまで繰り返してきた動きだからな」
祖父が再び右手を差し出す。
「もう一度だ」
胸へ手が当てられる。
今度こそ踏ん張らない。
祖父の手が動いた。
押されてから右足を後ろへ出す。
だが、遅い。
足を置くより先に上体が崩れ、尻から床へ落ちた。
「倒れてから足を出している」
昨日も言われたことだった。
「押される前に足を動かせばよいのですか?」
「それでは、お前が勝手に下がっただけだ」
「押されてからでは遅い。押される前では早い」
「ああ」
「難しいことを言いますね」
「できれば簡単だ」
祖父が手を差し出す。
その手を借りて立ち上がった。
「相手が押したことを、目や頭で理解してから動くな。触れている場所から伝わった力へ、身体を任せろ」
「力へ任せる……」
「止めようとするな。消そうともするな。その力で進め」
再び胸へ手を当てられる。
祖父の掌へ意識を向ける。
押される。
そう考えた瞬間、身体へ力が入った。
祖父の手が離れる。
「今、お前は私が押すのを待った」
「はい」
「待てば遅れる。予想すれば早すぎる。余計なことをするな」
「分かりました」
「分かってはいない。もう一度だ」
胸へ掌が触れる。
今度は押される瞬間を読もうとせず、触れた場所だけを感じる。
祖父の力が身体へ入ってくる。
その力へ逆らわず、上体を僅かに後方へ預けた。
身体が動く。
倒れるより先に、右足を後ろへ置く。
足裏が床へ触れる。
音は鳴った。
それでも、先ほどのように体勢は崩れなかった。
「今の感覚を忘れるな」
「はい」
「もう一度」
祖父が押す。
力に合わせて右足を引く。
次は左。
正面だけではない。肩を押されれば斜めへ。腕を引かれれば前へ。
祖父から与えられる力に従い、足を次の場所へ置く。
動こうとすれば遅れる。
待っていても遅れる。
触れた瞬間には、身体が進む方向を決めていなければならない。
何度か繰り返したところで、祖父の左手が俺の右肩へ触れた。
斜め後方へ押される。
力へ逆らわず、身体を回す。
右足を軸にせず、流される方向へ左足を置く。
半歩分だけ、祖父の側面へ回った。
「止まるな」
続けて背中を押される。
前へ傾いた身体を、そのまま一歩へ変える。
右足。
左足。
二歩続けて前へ進む。
床を蹴った感触はなかった。
「そこまでだ」
動きを止める。
祖父から距離を取って振り返った。
「今のは……」
「少しは力へ逆らわず動けたな」
母との手合わせを思い出す。
《剛勁》が身体の内側へ入ったとき、水の魔力を使って肩から背中、腰、脚へ流した。
あれも、受けた力を止めず、別の場所へ導いたものだった。
「母上の合気と似ています」
「根にあるものは同じだ」
祖父が頷く。
「ディアナの合気は、相手が生んだ力を利用する。だが、《桜舞》で使うのは相手の力だけではない」
「自分の身体が倒れる力も、ですか?」
「ああ。重さも、傾きも、地面から返ってくる力も、すべて歩みへ変える」
「自分から力を生み出さないのですか?」
「必要以上にはな」
祖父の視線が、俺の足元へ向けられる。
「お前の脚には、地面を踏み砕いて進む癖がついている」
「帝国で教わった歩法です」
「リヴィア殿からか?」
「はい。地面を踏み、足から腰、腰から上半身へ力を通すよう教わりました」
「理に適っている」
祖父は否定しなかった。
「地を踏み、自ら力を生み出して身体を進める。剛の歩みだ」
「剛……」
「《桜舞》は地面と争わん。生じた力に逆らわず、形を変えながら進む。こちらは柔の歩みといえる」
剛と柔。
帝国で身につけた歩法と、祖父の《桜舞》。
二つの性質は、あまりにも違う。
「帝国で身につけた歩法を、直すべきでしょうか」
「なぜ直す」
「地面を蹴る癖が、《桜舞》の妨げになっています」
「だから捨てるのか?」
祖父の目が僅かに細くなる。
「身につけた力を捨てなければ、新しい力を得られないほど、お前の身体は狭くないだろう」
「ですが、二つは正反対です」
「正反対だからこそ、並べて持て」
祖父が一歩、こちらへ近づく。
「剛の中で柔を忘れず、柔の中で剛を失うな」
すぐには意味を理解できなかった。
力強く踏み込む剛の中で、力を流す柔を忘れない。
力に逆らわない柔の中でも、相手を断つ剛を失わない。
「二つを混ぜる、ということですか?」
「今のお前が無理に混ぜても、どちらも崩れるだけだ」
「では、どうすれば?」
「まずは、それぞれを知れ」
祖父が修練場の反対側へ歩いていく。
「帝国で学んだものを、私の歩法へ変える必要はない。《桜舞》も、そのまま真似る必要はない」
壁際へ置かれていた模擬刀を取り、こちらへ向き直る。
「私がお前へ教えるのは、入口だけだ」
祖父との間には、十歩ほどの距離がある。
「ここから私の前まで来い」
「先ほどと同じように歩けばよいのですか?」
「地面を蹴るな。足音も立てるな」
祖父が模擬刀を腰へ差す。
「私の間合いへ入ってみろ」
両脚を自然に開く。
肩の力を抜き、祖父へ視線を向けた。
十歩。
普通に歩くだけなら、何でもない距離だ。
だが、地面を蹴ず、足音も立てずに進まなければならない。
まずはゆっくり右足を出す。
足裏を床へ滑らせるように前へ置く。
音は鳴らなかった。
続いて左足を出す。
「止まれ」
二歩進んだところで祖父から声がかかる。
「それは歩法ではない。ただ音を立てないよう、忍び足をしているだけだ」
「ですが、足音は鳴っていません」
「遅すぎる。戦いの最中に、その速度で近づくつもりか?」
「では、速く動きます」
「やってみろ」
元の位置へ戻る。
今度は歩幅を広げ、一気に距離を詰めようとする。
右足を出す。
床へ触れた瞬間、強い音が響いた。
「速く動こうとして、地面を蹴ったな」
「はい」
「柔とは、遅いことではない」
祖父が構えを解く。
「地面を蹴ずに速く動く。音を立てずに距離を消す。それができなければ、《桜舞》にはならん」
「もう一度お願いします」
「何度でもやれ」
元の場所から祖父へ向かう。
遅い。
足音が鳴る。
二歩目で軸が浮く。
一歩目から床を蹴る。
何度繰り返しても、十歩の距離を進み切れない。
脚に疲労が溜まり始める。
呼吸も僅かに乱れていた。
魔力を使えば、一息で消せる距離だ。
《速》で踏み込めば、床を強く蹴たとしても足音が聞こえるより早く祖父へ届く。
だが、それでは意味がない。
祖父は反対側へ立ったまま、一歩も動いていない。
「進もうとするな」
不意に祖父が言った。
「進まずに、どうやって近づくのですか?」
「お前は自分の力で身体を前へ押そうとしている。だから地面を蹴る」
「身体を倒すだけでは、途中で転びます」
「転ぶ前に足を置け」
「それでは、最初の修練と同じです」
「ああ。最初から、それしか教えておらん」
複雑に考えすぎていた。
足音。速さ。祖父との距離。
すべてを一度に意識し、身体を固くしていた。
目を閉じる。息を吐く。
肩。腕。腰。脚。
余計な力を順番に抜いていく。
目を開いた。
祖父だけを見る。
進もうとしない。身体を前へ預ける。
重心が中心から外れた。
上体が傾く。倒れる。
その直前。
右足が、身体の行く先へ置かれた。
足裏が床へ触れる。
音はない。
身体は止まらず、前へ流れている。
流れが途切れるより先に、左足を前へ置く。
二歩目。
僅かに床が鳴った。
それでも地面を蹴った感触はない。
三歩目。
肩が揺れる。
崩れかけた軸を戻そうとせず、そのまま身体を斜め前へ倒した。
四歩目。
祖父の姿が、一気に近づく。
気づいたときには、模擬刀の切っ先が俺の額へ触れていた。
「そこまでだ」
足を止める。
祖父との距離は、刀一振り分もない。
「いつ抜いたのですか?」
「お前が三歩目を出したときだ」
まったく見えなかった。
だが、先ほどまで十歩を進み切れなかった俺が、祖父の間合いまで入っている。
「今のが、《桜舞》ですか?」
「思い上がるな」
模擬刀の切っ先が額から離れる。
「お前が拾ったのは、まだ一枚の花びらにすぎん」
「一枚……」
「歩みに気を取られ、私が刀を抜いたことにも気づかなかった。攻撃へつなげる余裕もない。それでは舞とは呼べん」
「はい」
「だが、入口には立った」
祖父が模擬刀を鞘へ戻す。
「先ほどの一歩を、考えずに出せるまで繰り返せ」
「分かりました」
「今日はここまでだ」
「もう少し続けられます」
「脚が疲れている。今続ければ、また地面を蹴る歩みに戻るだけだ」
自分の両脚へ意識を向ける。
確かに、膝から下へ重さを感じる。
「明日は《獅心》を持ってこい」
「刀を使うのですか?」
「歩くだけで敵が斬れるなら、刀はいらんだろう」
「それはそうですが……」
「次は、その一歩を斬撃へつなげる」
祖父が壁際へ向かう。
「今まで以上に難しくなる。身体を休めておけ」
「はい、祖父上」
壁際へ置いていた《獅心》とセレスを腰へ戻す。
『お疲れ様』
「見ていたのか?」
『もちろん。最後の一歩だけ、少し雰囲気が違ったわ』
「一歩だけか」
『その一歩が、昨日まではできなかったのでしょう?』
「ああ」
祖父へ一礼し、修練場を出る。
長い廊下の先には、朝の光が差し込んでいた。
先ほどの感覚を確かめる。
進もうとせず、身体を前へ預ける。
倒れるより先に足を置く。
右足が床へ触れた。
乾いた足音が廊下へ響く。
『意識した途端、元へ戻ったわね』
「分かっている」
『一枚の花びらも、随分と気難しいものね』
「だから修練する」
もう一度、ゆっくりと足を出す。
まだ、自分の歩法にはなっていない。
それでも、柔の歩みへ続く入口だけは見つけた。
拾った一枚の花びらを手放さないよう、俺は廊下を進んだ。




