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星すら斬るまで、俺は振り続ける  作者: ゆ
第八章 帰郷、武の原点
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第108話 父と一献

「レグルス。少し付き合わないか」


 夕食を終え、自室へ戻ろうとしたところで父に呼び止められた。

 振り返ると、父の片手には細身の酒瓶が握られている。

 もう片方の手には、小さな盃が二つ。


「酒ですか?」


「ああ。一杯だけだ」


 父から酒へ誘われるのは初めてだった。

 返事が僅かに遅れる。


「都合が悪かったか?」


「いえ。ご一緒します」


「そうか」

 父が短く答える。

 その横から、食堂を片づけていた母が顔を出した。


「エドガー。レグルスへ飲ませすぎないでくださいね」


「一杯だけだと言っただろう」


「あなたの一杯は、いつの間にか二杯、三杯と増えるでしょう?」


「今日は増やさない」


「本当かしら」


 母が疑わしそうに酒瓶を見る。


「レグルスも、明日はお祖父様との修練があるのだから、ほどほどにしなさい」


「分かっています、母上」


「父上から誘うなんて珍しいわね」


 母の後ろから姉が顔を覗かせる。


「私が帰ってきた夜には誘ってくれなかったのに」


「アリシアは母親と話したいことがあるのだろう」


「それはそうですけど」


「ならば、今夜は譲ってくれ」

 父がそう言うと、姉は少し驚いたように目を瞬かせた。

 すぐに口元へ笑みを浮かべる。


「分かりました。弟をお願いします、父上」


「お前に頼まれなくとも、そのつもりだ」


 父が踵を返す。

 俺も母と姉へ一礼し、その後を追った。

 向かったのは、庭に面した縁側だった。

 屋敷の明かりは届いているが、昼間よりも庭は深く、広く見える。

 雲の切れ間から月が覗き、風に揺れる木々の影が地面の上をゆっくりと動いていた。


 父が縁側へ腰を下ろす。

 俺も一人分の間を空け、その隣へ座った。

 足元へ酒瓶と二つの盃が置かれる。


「酒は飲めるのか?」


「家を出て16歳になってから付き合い程度には」


「帝国では?」


「兄上と一度だけ」


「レオンと飲んだのか」


 父が俺の盃へ酒を注ぐ。

 透明な酒から、僅かに米の甘い香りが立った。


「はい。もっとも、兄上もそれほど多くは飲みませんでした」


「あれは昔から、酔って鍛錬へ差し支えることを嫌うからな」


 酒瓶を受け取り、今度は俺が父の盃へ注ぐ。

 互いの盃へ酒が満ちた。


「何に杯を上げますか?」


「そうだな」


 父が僅かに考える。


「お前が無事に帰ってきたことにしよう」


「はい」


 盃を軽く掲げる。

 口へ含むと、仄かな甘みの後に強い辛みが舌へ残った。

 喉を通った酒が、身体の内側へ熱を広げていく。


「どうだ?」


「美味しいと思います。少し辛いですが」


「無理に飲み干す必要はない。ゆっくり飲め」


「はい」


 父も盃へ口をつける。

 しばらく会話はなかった。


 虫の声。

 風に揺れる葉の音。

 遠くを流れる川の音も、微かに聞こえる。

 静かな時間だった。


 父と二人でいることは、子供の頃にも何度もあった。

 だが、その多くは修練場だった。

 互いに刀を持たず、こうして並んで座った記憶は少ない。


「帝国で、レオンには会ったのだな」

 父が庭を見たまま尋ねる。


「はい。帝国へ到着してから、兄上の屋敷に滞在していました」


「元気にしていたか?」


「以前と変わりません。自分にも他人にも厳しく、毎日の鍛錬も欠かしていませんでした」


「そうか」

 父の返事は短い。

 だが、僅かに表情が緩んでいた。


「元老院議員としての仕事も忙しそうでしたが、屋敷へ帰れば鍛錬を続けていました。俺が帝国を離れる前にも、手合わせへ付き合っていただきました」


「通信では、必要なことしか書いてこないからな」


「兄上らしいと思います」


「あれは昔から、そういうところがある」


「父上によく似ています」


 父が盃を口へ運ぶ手を止めた。


「私にか?」


「はい。必要なことしか話さないところが」


「そうか?」


「母上も、以前そのようなことを言っていました」


「ディアナが……」


 父は何かを言いかけ、やめた。

 再び盃へ口をつける。


「私には、あれほど無愛想に育てた覚えはないのだがな」


「兄上も同じことを言うと思います」


「違いない」

 父が小さく笑った。

 普段よりも柔らかな笑い方だった。


「レオンは帝国。アリシアは王都。そして、お前も王都を拠点に各地を巡っている」


「はい」


「三人とも、随分と遠くへ行ったものだ」


 父の声には、責めるような響きはなかった。

 ただ事実を確かめるような言葉だった。


「母上は寂しがっていましたか?」


「寂しがっていないように見えたのか?」


 帰ってきた日の母を思い出す。

 抱き締められ、翌日には手合わせを申し込まれた。


「……見えませんでした」


「そうだろう」

 父が深く息を吐く。


「だからといって、帰ってくるたびに息子と稽古場を壊してよい理由にはならんがな」


「あの件は、申し訳ありませんでした」


「お前一人の責任ではない」


「ですが、俺も止まりませんでした」


「そうだな」


 否定してはくれなかった。

 父は残っていた酒を少し飲み、盃を膝の上へ置いた。


「最後の一撃は、私も止めに入るつもりだった」


「気づいていました」


 母と俺が踏み込む直前。

 父は重心を落とし、地面を蹴ろうとしていた。


「そうか」


「ですが、祖父上の方が早かった」


「ああ。随分と先を越された」


 父は悔しがっているというより、呆れているようだった。


「あの人は、普段から何を考えているのか分からん。止める必要はないと言っておきながら、最後には誰よりも早く動いた」


「祖父上には、俺たちが自分で止まれなくなる瞬間まで見えていたのでしょうか」


「おそらくな」


 祖父は、俺と母の攻撃が放たれる寸前まで動かなかった。

 遅れたわけではない。

 あの瞬間でなければならなかったのだ。

 どちらかが先に動きを変えれば、もう片方の攻撃だけが残る。

 二人の攻撃が完全に重なる瞬間を待ち、同時に空へ逸らした。


「私には、まだ父上と同じことはできん」

 父が静かに言う。


「父上でも、ですか?」


「できないことを、できるとは言えん。二人の間へ割って入ることはできただろう。だが、互いの攻撃を傷つけずに逸らせたかは分からない」


 父でさえ、祖父との間にそれほどの差を感じている。

 俺から見れば、二人とも遥か先にいる。

 その父が、こちらへ顔を向けた。


「強くなったな、レグルス」


 不意の言葉に、すぐには答えられなかった。

 母から成長を認められたときとは違う。

 父は、それ以上の言葉を続けなかった。

 ただ真っ直ぐに俺を見ている。


「……ありがとうございます」


「ディアナにも父上にも及ばなかった、と考えている顔だな」


「実際、まだ遠く及びません」


「誰と比べている」


 父が盃を置く。


「私が言っているのは、以前のお前と比べた話だ」


「以前の俺と……」


「刀を振るうことしかできなかった頃のお前ではない。相手を見て、考え、戦いながら自分の動きを変えている」


 母の《剛勁》を受け、水の魔力で衝撃を流した。

 母の合気を見て、獅子琉掌へ取り入れた。

 あの手合わせで行ったことのすべてを、父は見ていた。


「力だけを得たのではない。それをどう扱うか、自分なりに考えてきたことが分かった」


「まだ完全に扱えているわけではありません」


「だから修練するのだろう」


「はい」


「ならば、それでいい」


 父が再び盃を手にする。

 俺も少しずつ酒を飲む。

 喉を通る辛みには、僅かに慣れてきた。

 父の視線が、俺の腰へ向けられる。

 そこには《獅心》とセレスがある。


「概念星器か」


「はい」


「損傷しても、魔力などを糧に復元するのだったな」


「そうです」


「不滅とは、よく名づけたものだ」


 父の指先が、自分の盃の縁をなぞる。


「だが、刀が復元しても、お前の身体は元には戻らん」


 脇腹には、まだ僅かな痛みが残っている。

 母の《剛勁》を受けた場所だった。


「治癒魔法もあります」


「何でも元どおりになるわけではない。命を失えば、それまでだ」


「分かっています」


「本当に分かっているのか?」


 父の声は厳しくなかった。

 それでも、すぐには答えられなかった。


 浮遊大陸。獅子宮。帝国。

 これまでにも、死へ近づいたことは何度もある。

 あと一歩判断が遅ければ、帰ってこられなかった戦いもあった。


「武人である以上、命を賭けなければならないときもある」

 父が言う。


「冒険者ならば、なおさらだろう。だから、危険な場所へ行くなとは言わん」


「はい」


「だが、命を賭けることと、命を捨てることを取り違えるな」


 盃の中で、月の光が揺れている。


「お前は昔から、一人で決めて、一人で進もうとするところがある」


「今は、セレスがいます」


 腰にあるグリモアへ触れる。

 セレスは何も言わなかった。

 父と俺の話へ入らず、静かに聞いている。


「そうだな」


 父もセレスへ目を向ける。


「お前を止めてくれる者がいるのは、心強い」


『止めても聞かないことの方が多いけれどね』

 そう返ってくると思った。


 だが、セレスは何も言わない。

 父は庭へ視線を戻した。


「レオンも、アリシアも、お前も、自分で選んだ道を歩いている。それを止めるつもりはない」


「父上……」


「どこまで遠くへ行こうと構わん」


 風が吹き抜ける。

 庭木から一枚の葉が離れ、月明かりの中をゆっくりと落ちていく。


「だが、帰る場所があることは忘れるな」


 父の言葉が、静かな庭へ溶けていく。


「ここは、いつでもお前たちが帰ってくる場所だ」


 兄は帝国にいる。

 姉は王都で学んでいる。

 俺も王都を拠点に、依頼があれば各地へ向かう。

 これから先、さらに遠い場所へ行くこともあるだろう。

 十二宮の契約者として、避けられない戦いも待っている。


「危険な戦いをしないとは、約束できません」


「ああ」


「命を賭けなければ、守れないものもあると思います」


「そうだな」


「ですが――」


 一度言葉を切る。

 父の目を真っ直ぐに見る。


「必ず帰ります」


 父は何も答えなかった。

 しばらく俺を見た後、盃に残っていた酒を飲み干す。


「それでいい」

 短い一言だった。


 それだけで、十分だった。

 俺も残っていた酒へ口をつける。

 最初に感じた辛みは、もうそれほど強くない。

 身体の内側へ広がる温かさが、夜風の冷たさを和らげていた。


「父上」


「何だ?」


「この話をするために、俺を酒へ誘ったのですか?」


 父が空になった盃を見る。


「それもある」


「ほかにも?」


 父はすぐには答えなかった。

 酒瓶へ手を伸ばしかけ、母との約束を思い出したのか、その手を止める。


「一度くらい、息子と二人で酒を飲んでみたかった」


 父が僅かに視線を逸らす。


「それだけだ」


「そうですか」


「不満か?」


「いいえ」

 首を横へ振る。


「俺も、父上と飲めて嬉しかったです」


 父が黙る。

 月明かりの中でも、その表情が僅かに固まったことが分かった。


「そうか」


「はい」


「ならば、また帰ってきたときに飲むとしよう」


「そのときは、一杯では終わらないかもしれません」


「母上に叱られるぞ」


「父上が誘ったことにします」


「お前は、いつからそんなことを言うようになった」


 呆れたような言葉だった。

 だが、父は笑っていた。

 俺も僅かに笑う。

 父が酒瓶と二つの盃を手に立ち上がった。


「明日も修練がある。今日はもう休め」


「はい、父上」


「おやすみ、レグルス」


「おやすみなさい」


 父が屋敷の中へ戻っていく。

 俺は少しの間、縁側へ残った。

 月に照らされた庭を眺める。


『嬉しそうだったわね、お父様』

 ここまで黙っていたセレスが、ようやく口を開いた。


「そう見えたか?」


『ええ。あなたもよ』


「酒を飲んだからだ」


『そういうことにしておきましょうか』


 腰のグリモアから、楽しそうな声が聞こえる。

 立ち上がり、自室へ向かう。

 酒の熱は、すでに身体へ馴染んでいた。

 それでも父の言葉だけは、いつまでも胸の奥へ残っていた。

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