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星すら斬るまで、俺は振り続ける  作者: ゆ
第八章 帰郷、武の原点
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第106話 四華繚乱

「買い被るな」

 祖父は切られた袖を軽く払った。


「お前ほどの剣士でなければ、ここまで剣を見ようとは思わなかった」


「その袖は、やはり……」


「避けることはできた」

 祖父はあっさりと答える。


「だが、避ければお前は別の手を選んだだろう。袖を渡し、お前の次の一手を決めてもらった」


「袖一つと引き換えに、私の勝ち筋をすべて見たのですか」


「その勝ち筋を作ったのはお前だ。私は利用しただけだ」


 ブラノールはしばらく祖父を見つめていた。

 やがて、肩の力を抜いて笑う。


「駒を一つ取ったつもりで、盤面そのものを渡していたわけですか」


「それでも、私に一つ捨てさせた」


 祖父の表情から笑みが消える。

 武人として、ブラノールの剣を正面から認める目だった。


「今の王国で、お前ほど先へ剣を置ける者はそういない。王国騎士団長の名は、伊達ではないな」


「刀仙にそう言っていただけるなら、王都から来た甲斐がありました」


 ブラノールは模擬剣を持ったまま、祖父へ深く頭を下げた。


「ありがとうございました、ラウル殿」


「こちらこそ、良い剣を見せてもらった」


 互いに構えを解いた二人の間には、先ほどまでの張り詰めた空気は残っていない。

 それでも地面へ刻まれた無数の斬痕が、手合わせの激しさを物語っていた。

 大地を深く裂くほどの剣気を打ち合ったにもかかわらず、二人の身体には傷一つない。

 祖父の袖が僅かに斬られただけだった。

 だが、その袖さえ祖父が自ら選んで渡したものだった。


 祖父が、こちらへ歩いてくる。


「どうだった、レグルス」


「素晴らしかったです」

 迷わず答えた。


「途中までは、ブラノールさんが押しているように見えました」


「実際、押していた」

 祖父より先に父が答える。


「父上に袖を差し出す選択をさせ、眼帯の奥の力を使ってからも数手耐えた。あれほど父上と剣を交えられる者は多くない」


「ですが、祖父上が勝ちに動いてからは、一度も中央を取り返せませんでした」


「ああ」


 父の視線が祖父へ向く。


「それが二人の間にある差だ」


 ブラノールは、相手の動きを先読みし、祖父に一つを捨てさせるほどの技量を持っていた。

 だが、祖父は捨てた袖さえ盤面へ組み込み、ブラノールが次に選ぶ手を絞った。

 最後には剣を振ることも、退くこともできた。

 それでも、どの手を選んでも祖父の刀が先に届く。


「ブラノールさんには、まだ動けるだけの余力が残っていました」


「そうだな」


「ですが、動いた先をすべて祖父上に塞がれていた。剣を振ることはできても、振る意味のある場所が残されていなかったように見えました」


 祖父は俺の顔を見つめた後、満足そうに頷いた。


「そこまで見えたのなら、手合わせを見せた意味はあったな」


 祖父が模擬刀の切っ先を下げる。


「相手を斬ろうとすれば、どうしても身体と武器へ目が向く」


「はい」


「だが、身体を斬る前に奪えるものはいくらでもある。間合い、足場、重心、呼吸、視線。相手が次に選ぼうとしている技もそうだ」


 祖父とブラノールは、互いの身体だけを斬ろうとしていたのではない。

 一歩ごとに場所を奪い。

 一振りごとに技を奪い。

 相手が選べる道を、一つずつ減らしていた。


「相手が動いた後だけを見るな。動く前に何を選ぼうとしているのかを見ろ。そして、自分が何を選ばされているのかを考えろ」


「忘れません」


「ならばいい」

 祖父は短く答えた。


 これだけでも、手合わせを見せてもらった意味は十分にあった。

 それでも、一つだけ心残りがある。


「祖父上」


「何だ?」


「ただ、叶うなら祖父上の技も一つ、見てみたかったです」


 ブラノールとの手合わせで、祖父は固有の技を一度も使わなかった。

 魔力と気を込めた剣気は放っていたが、使ったのは基本となる刀の動きだけだ。

 幼い頃に祖父の稽古を見たことはある。

 だが、祖父が本気で振るう技を見せてもらったことはなかった。


「技を、か」

 祖父が模擬刀へ目を落とす。


「はい。無理にとは言いませんが……」


 祖父が顔を上げる。

 その視線が、俺から父へ移る。

 父も僅かに期待を含んだ目で祖父を見ていた。

 母は何も言わず、穏やかに微笑んでいる。

 ブラノールと二人の従騎士も、帰ろうとはしていなかった。


「お前だけではないようだな」

 祖父が小さく笑う。


「では、一つだけ見せてやろう」


 ブラノールの目が僅かに見開かれた。

 父は驚かなかったが、表情を少し緩める。


「父上が技を見せるのは、随分と久しぶりですね」


「お義父様の気が変わらないうちに、場所を空けた方がよさそうね」


 母の言葉に従い、全員が演武場の端へ下がった。

 祖父は中央へ歩きながら、二人の従騎士へ顔を向ける。


「土属性を扱える者はいるか?」


「私が扱えます」

 一人の従騎士が前へ出た。


「では、ここへ人と同じ大きさの土人形を作ってくれ。できる限り硬くしてもらいたい」


「承知しました」


 従騎士が演武場の中央へ両手を向ける。

 足元から土が盛り上がった。

 幾つもの塊が重なり、人の胴体と手足を形作っていく。

 従騎士は魔力を止めない。

 土人形の表面へ手を触れ、内側にある土を何度も圧縮する。

 乾いた土が押し固められ、次第に岩のような色と光沢へ変わっていった。


「これ以上圧縮すると、形を保てません」


 従騎士が土人形から手を離す。

 父が表面を指先で叩いた。

 硬い音が返ってくる。


「十分だろう。並の斬撃では、表面に傷をつけることも難しい」


 従騎士が演武場の端まで下がった。

 祖父は土人形から十歩ほど離れた場所へ立つ。

 模擬刀は右手に下げたまま。

 腰も落としていない。

 技を放とうとしているようには見えなかった。


「よく見ておけ、レグルス」


「はい」


 祖父の右足が、前へ出る。


「歩法――《桜舞》」


 踏み込みは、驚くほど静かだった。

 地面を強く蹴っていない。

 土も砕けず、砂一つ舞い上がらない。

 祖父の身体が、僅かに右へ傾く。

 そのまま倒れるように見えた。

 だが、足が身体を支えるより早く、次の一歩が前へ置かれる。

 身体が左へ揺れる。

 今度は後ろへ流れる。

 桜の花弁が風に運ばれ、落ちる場所を何度も変えるような足運び。

 どこへ向かっているのか分からない。

 一歩ごとに進む方向が変わっている。

 それなのに、祖父の重心も模擬刀の位置も少しも乱れていなかった。


『速くはないはずなのに……』


「ああ」


 祖父の歩みは目で追える。

 少なくとも、そう見えた。

 だが、一度瞬きをしただけで、先ほどとは違う場所へ立っている。


 水の魔力を神経へ巡らせる。

 《瞬》によって意識と身体の間に生じる遅れを縮め、祖父の足元だけを見る。


 右足が動く。

 そう思ったときには、その足はすでに地面へついていた。


 左足へ重心が移る。

 次の瞬間には、祖父の身体が反対側へ流れている。


 動き始める瞬間だけが見えない。

 祖父は速さで視界から消えているのではなかった。

 俺が見ていない場所へ足を置き、意識を向けるより先に次の場所へ移っている。

 祖父の姿が、土人形の右側へ現れた。

 模擬刀が静かに上がる。

 同時に、土人形の左側にも祖父が立っていた。


「二人……?」

 従騎士の一人が声を漏らす。


 違う。

 二人ではない。

 土人形の前。後ろ。右。左。

 四方すべてに、祖父が立っている。

 どの祖父も、同じ姿勢で模擬刀を構えていた。


 残像だと分かっている。

 それでも、どれが今の祖父なのか判別できない。

 四人の祖父が、模擬刀を振った。


「――《四華繚乱》」


 音は一度だけだった。

 四方に立っていた祖父の姿が重なる。

 気づいたときには、祖父は最初に立っていた場所へ戻っていた。

 模擬刀も、振るう前と同じように右手へ下げられている。

 土人形には何も起きていない。

 表面に傷さえ見えなかった。


「外れたのか?」

 従騎士が小さく呟く。


 その直後。

 土人形の正面へ、細い斜線が浮かんだ。

 背面からも別の斬痕が走る。

 左右にも線が生まれ、土人形の内側で交差した。

 硬く圧縮されていた土が、僅かにずれる。

 胴体。肩。腰。

 四方から入った斬撃に沿って、土人形が幾つもの塊へ分かれた。

 崩れたのではない。

 一つひとつが滑らかな断面を見せながら、形を保ったまま地面へ落ちていく。

 重い音が続けて響いた。


「そんな……」


 土人形を作った従騎士が、地面へ落ちた塊を見つめる。


「魔力で内側まで圧縮していたのに」


「分身、でしょうか」

 もう一人の従騎士が尋ねる。


「四人へ分かれ、同時に斬ったとしか……」


「違う」

 ブラノールが静かに否定した。


「分身ではない。ラウル殿自身が四方すべてへ移動し、その場所から斬ったのだ」


「ですが、そのような時間はありませんでした」


「我々の目に、分けて認識できるだけの間がなかっただけだ」


 ブラノールの視線が、祖父の足元へ向けられる。


「右へ移った後に止まり、次の場所へ踏み込んだのではない。一歩目の終わりが、そのまま二歩目の始まりになっている。斬撃さえ、次の一歩へ移る動きの中へ組み込まれていた」


「速さだけではない」

 父が続ける。


「人は動く前に、僅かに重心を傾ける。足へ力を込め、進む方向へ身体を向ける。父上の歩法には、それが見えない」


「見えてから追おうとしても、すでに次の場所へいるということですか」


「ああ。それを四方へ途切れずつないだ結果、四人が同時に斬ったように見えた」


 斬撃を飛ばしたわけではない。

 斬撃をその場へ留めて、一度に解き放ったわけでもない。

 祖父は実際に土人形の四方へ立ち、それぞれの場所から一度ずつ模擬刀を振っていた。

 ただ、その四つの動きを分ける隙間がなかった。


「よく見えている」

 祖父がブラノールと父へ言う。


 それから俺へ視線を向けた。


「レグルス。お前には何が見えた?」


 砕かれた土人形を見る。

 四方から刻まれた斬痕。

 一振りごとの威力も、刃筋の正確さも、俺とは比べものにならない。

 それでも、最も目を引かれたのは模擬刀ではなかった。


「足運びです」


 祖父の眉が僅かに上がる。


「《四華繚乱》の斬撃より、その間をつないだ《桜舞》の方が気になりました」


「なぜだ?」


「祖父上は四方へ動いても、身体の軸を一度も崩していませんでした」


 祖父が土人形の右側へ移ったときも、後ろへ回ったときも、刀を振るう体勢は同じだった。


「一歩目の勢いを止めず、次の一歩へ流していた。それでも、どの場所からでも同じように刀を振ることができた」


「ほかには?」


「目から消えたのではありません。見ている側の意識から外れた場所へ、先に足を置いていました」


 祖父は何も答えない。

 だが、その口元には僅かな笑みが浮かんでいた。


『四人に分かれたのではないわ』

 セレスの声が頭へ響く。


『一つの動きが途切れず、四方を巡ったのね』


「ああ」


 どれほど速く動いても、足を止めて次の方向へ踏み込めば、そこに隙が生まれる。

 祖父の《桜舞》には、その隙がなかった。

 右へ進む動きが後ろへつながり、後ろへ進む動きが左へつながる。

 最後には正面へ戻り、四方すべてから刀を振る。


「祖父上」


「何だ?」


「《桜舞》を、教えていただくことはできますか?」


 祖父はすぐには答えなかった。

 俺の足元から腰、肩へと視線を動かす。

 今の立ち方だけで、何ができて何が足りないのかを見定めている。


「《四華繚乱》は教えん」


「はい」


 意外には思わなかった。

 あれは祖父が長い年月をかけ、自分の身体と刀に合わせて作り上げた技だ。


「《四華繚乱》は、私が自分の身体で作ったものだ。形だけを真似ても、お前の刀にはならん」


「分かっています」


「だが、《桜舞》の基礎であれば話は別だ」


 顔を上げる。

 祖父は模擬刀を肩へ担いだ。


「褒美の話も、まだ残っていたな」


「では……」


「お前がここまで鍛えた褒美の一つとして、この家にいる間に基礎だけは教えてやる」


「ありがとうございます、祖父上」


 すぐにでも足の運びを確かめたかった。

 先ほど見た祖父の歩みを思い返し、右足を僅かに動かす。


「今すぐ真似るな」

 祖父の声に、足を止めた。


「昨日の傷も残っている。身体の均衡が崩れた状態で覚えた歩法は、後まで歪みを残す」


「……はい」


「まずは休め。始めるのは身体を戻してからだ」


 祖父は砕かれた土人形へ目を向ける。


「それに、私が教えるのは足の置き方と重心の移し方までだ。《四華繚乱》へ至る道まで教えるつもりはない」


「その先は、自分で考えろということですか」


「ああ」


 祖父の目が、真っ直ぐに俺へ向けられる。


「私の技を追う必要はない。基礎だけは渡す。その先に何を重ね、どこから刀を振るうかは、お前が決めろ」


 地面へ落ちた土人形の断面を見る。

 前。後ろ。右。左。

 四方から交差した斬痕が、一つの中心へ集まっている。


「お前には、お前の四方を斬る技があるはずだ」


「はい」


 今の俺には、その形までは見えない。

 四方へ移動することも、同じ体勢から刀を振ることもできない。

 それでも、祖父の歩みを見たことで、これまでにはなかった道が一つだけ見えた。


『技を見せてもらっただけなのに、随分と大きな宿題まで受け取ったわね』


「ああ」


『嬉しそうね』


「学べるものがあるからな」


 祖父が俺へ渡そうとしているのは、完成した技ではない。

 その技へ至るための、最初の一歩だった。

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