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星すら斬るまで、俺は振り続ける  作者: ゆ
第八章 帰郷、武の原点
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第104話 褒美の手合わせ

 母との手合わせを終えてから、一刻ほどが過ぎた。

 俺は座敷の隅へ置かれた椅子に腰を下ろしていた。

 頬の傷には薬が塗られ、脇腹には布が巻かれている。

 骨に異常はなかったが、身体を動かすたびに鈍い痛みが走った。


「触っては駄目よ」

 手当てを終えた母が、俺の手を脇腹から離す。


「少し確かめただけです」


「痛みが残っているのだから、しばらく大人しくしていなさい」


「母上も怪我をしているでしょう」


「私は大丈夫よ」


 母はすでに着替えを済ませていた。

 右腕には薄く布が巻かれているが、気にしている様子はない。


 俺の向かいでは、父が窓の外を眺めながら深く息を吐いていた。

 平らだった稽古場には亀裂が走り、ところどころが大きく陥没している。

 壊れた木柵の周囲では、使用人や領兵たちが片づけを始めていた。


「修繕には数日かかりそうだな」


「ごめんなさい」

 母が素直に謝る。


「ディアナだけの責任ではない。止めなかったレグルスにも責任はある」


「申し訳ありません、父上」


「だが、先に止めようとした私の言葉を聞かなかったのはディアナだ」


 母が父へ顔を向ける。


「何かしら?」


「……二人とも反省するべきだと言っただけだ」

 父はすぐに窓の外へ視線を戻した。


『強いのに、あの方には本当に弱いのね』

 セレスの声が頭へ響く。


 否定はできなかった。

 座敷の中央では、祖父が先ほど使った木刀を手にしていた。

 刀身には細かな亀裂がいくつも走っている。

 俺と母の攻撃を逸らしただけで、長年使われてきた木刀が壊れかけていた。


「それにしても、よく鍛えたな」


 祖父が木刀から俺へ視線を移す。


「リヴィアという人物の教えもあるだろうが、それだけではディアナとあそこまで打ち合えん」


「まだ母上には及びませんでした」


「勝てたかどうかの話ではない」


 祖父は木刀を壁へ立てかけた。


「家を出る前のお前では、ディアナの初撃を受けることさえできなかった。それが今では、戦いながら相手の技を学び、自分のものへ変えようとしている」


「はい」


「帰ってきた祝いも、まだ渡していなかったからな」

 祖父が穏やかに笑う。


「何か望みがあるなら、褒美として一つ叶えてやろう」


「褒美、ですか?」


「ああ。欲しいものでも、行きたい場所でも構わん」


『せっかくなのだから、遠慮せずにお願いしたら?』


「急に言われても思いつかない」


「今すぐ決める必要はないぞ」


 そう言われ、改めて考える。

 欲しい物がないわけではない。

 だが、自分で手に入れられる物を祖父へ頼む必要はなかった。


 視線が、壁へ立てかけられた木刀へ向く。

 母と俺の間へ入り、二つの攻撃を同時に逸らした祖父の動き。

 《瞬》で神経を強化していたにもかかわらず、ほとんど見ることができなかった。

 あの刀を、もう一度見たい。

 そう考えたとき、王都で交わした会話を思い出した。


「祖父上」


「決まったか?」


「はい。ただ、俺のためだけの願いではないのですが」


「言ってみろ」


「以前、王国騎士団長のブラノールさんが、父上や祖父上と一度剣を交えてみたいと話していました」


 父が窓際から振り返る。


「王国騎士団長が、私たちと?」


「はい。クレハルト家の剣に、以前から興味を持っていたようです」


「ブラノールといえば、勇者の剣の師でもあったわね」

 母がわずかに興味を示す。


「王国騎士団長であり、セフィリアの剣の師でもあります。俺はブラノールさんと直接剣を交えたことはありませんが、相当な実力者です」


「弱い者が騎士団長を務めることはないだろうな」

 祖父は特に驚くでもなく頷いた。


「それで、お前の望みは何だ?」


「祖父上とブラノールさんの手合わせを、見せていただけませんか?」


「私と騎士団長の手合わせを?」


「はい」


 祖父は俺の顔をしばらく見つめた。


「褒美として物を欲しがるのではなく、他人の手合わせを見たいか」


「俺にとっては、どのような物より価値があります」


「なるほどな」

 祖父が楽しそうに笑う。


「お前らしい望みだ」


「受けていただけますか?」


「構わん」


 あまりにも簡単な返事だった。


「ただし、条件が一つある」


「条件ですか?」


「今からここへ来られるなら、相手をすると伝えろ」


「今から?」

 父が聞き返す。


「王都からクレハルト領まで、すぐに来られる距離ではありません」


「来られないのなら、それまでだ。わざわざ日取りを決めてまで行うことでもない」


「随分と気まぐれですね、父上」


「手合わせなど、互いに気が向いたときに行うのが一番だろう」


 祖父は父へ顔を向ける。


「エドガー。王国へ連絡できるか?」


「できますが、本当に今から呼ぶおつもりですか?」


「来るかどうかを決めるのは、騎士団長だ」


「ブラノールほどの武人なら、来ると思うわ」

 母が楽しそうに口元を緩める。


 父は小さく息を吐き、座敷の出口へ向かった。


「分かりました。通信室を使いましょう」


 俺たちは父に続き、館の西側にある通信室へ移動した。

 部屋の中央には、領地外との連絡に使われる魔導通信器が置かれている。

 円形の台座へ透明な板がはめ込まれ、その周囲を複数の魔石と細かな術式が囲んでいた。

 父が台座へ手を置き、魔力を流す。

 術式が淡く光り、透明な板の内側へ無数の光点が浮かび上がった。


「こちら、クレハルト領主館。王国騎士団本部への接続を願う」


 少し間を置き、通信器から声が聞こえてくる。


『所属とお名前を確認いたします』


「クレハルト領主、エドガー・クレハルトだ」


『確認いたしました。王国騎士団本部へ接続いたします』


 光点の一部が線で結ばれ、通信器の奥へ吸い込まれていく。

 やがて別の声へ切り替わった。


『こちら、王国騎士団本部です』


「騎士団長ブラノール殿へ取り次いでもらいたい」


『団長へ、ですか。ご用件を伺ってもよろしいでしょうか』


「ラウル・クレハルトから、手合わせの申し出だと伝えてくれ」


 通信器の向こうが静かになった。


『ラウル・クレハルト様……《刀聖》ご本人でしょうか?』


「そうだ。私の父だ」


『しばらくお待ちください。すぐにおつなぎします』


 先ほどまで事務的だった声が、明らかに変わっていた。

 通信器の光が何度か明滅する。

 それほど待つことなく、聞き覚えのある低い声が届いた。


『王国騎士団長、ブラノールです』


「クレハルト領主、エドガー・クレハルトだ。突然の連絡を許してほしい」


『いえ。それより、ラウル・クレハルト殿から手合わせの申し出があると聞きましたが』


「正確には、息子の頼みを父が受けた形だ」


『レグルスの?』


「以前、あなたが私や父と剣を交えてみたいと話していたそうだな」


『ええ。確かに話しました』

 ブラノールの声がわずかに強くなる。


『それでは、ラウル殿が私の相手をしてくださるというのは、本当なのですか?』


「一つだけ条件がある」


『何でしょうか』


「今すぐクレハルト領へ来られるのなら、相手をするとのことだ」


 再び、通信器の向こうが静かになった。

 さすがに今日中に来るのは難しいのだろう。

 そう思った直後、ブラノールの声が返ってきた。


『すぐに向かいます』


「今からでは、通常の魔導艇を使っても――」


『王国騎士団の高速艇を使います。着艇できる場所を教えてください』


 父が思わず祖父へ目を向ける。

 祖父は楽しそうに笑っていた。


「屋敷の東側に広い草地がある。そこなら着艇できる」


『承知しました。準備が整い次第、従騎士二名を伴って出発します』


「分かった。こちらも手合わせの準備を整えておこう」


『ありがとうございます』


 通信が切れ、術式の光がゆっくりと消えていく。


「本当に来るようだな」

 祖父が感心したように言う。


「父上が呼んだのでしょう」


「私は来られるならと言っただけだ」


「高速艇を使ってまで来るとは思いませんでした」


『あの方の気持ちは分かるわ』

 セレスが俺にだけ声を届けてくる。


『《刀聖》と呼ばれる人物と手合わせできるのなら、急ぎたくもなるでしょうね』


「祖父上の二つ名を知っていたのか?」


『今の通信で初めて聞いたわ。《刀聖》というのは、王国でつけられた二つ名なのでしょう?』


「ああ」


 《刀聖》。


 王国で伝説と謳われた、初代クレハルト。

 その初代と同じ剣域へ達したと評された祖父を、人々は敬意と畏怖を込めてそう呼んでいた。

 幼い頃から二つ名の存在は知っていた。

 それでも、俺にとって祖父は祖父だった。

 刀の握り方を教え、何度失敗しても静かに見守ってくれた人。

 王国でどれほど高く評価されているのか、深く考えたことはなかった。


「まだ、その呼び名が残っていたのか」

 祖父が困ったように言う。


「父上が表舞台から退いた後も、消える理由はありません」


「あれは周囲が勝手に呼び始めただけだ」


「何度否定しても、誰も聞かなかったのでしょう?」

 母が尋ねると、祖父は小さく肩をすくめた。


「好きに呼ばせておけばいいと思ってな」


「それでは定着して当然です」


「呼び名など、刀を振るううえでは何の役にも立たん」


『本当に、ご本人は気にしていないのね』


「祖父上だからな」


 問題は、手合わせを行う場所だった。

 屋敷の稽古場は、俺と母の戦いで使える状態ではない。

 父は領兵たちが普段使っている、屋敷から少し離れた野外演習場を使うことに決めた。

 広さは屋敷の稽古場の数倍ある。

 周囲に建物もなく、多少地面が荒れても支障はない。


「多少で済めばいいのですが」


 父が準備を指示しながら呟く。


「今度は壊さないようにするさ」


「父上の言う『壊さない』は、あまり信用できません」


「失礼な息子だな」


「先ほどの稽古場を見た後では、当然の判断です」


 演習場の準備と並行して、使用する武器も用意された。

 真剣ではない。

 魔力を流すことを前提に鍛えられた、刃のない金属製の模擬武器だった。

 祖父には、真剣とほとんど変わらない重さと長さを持つ模擬刀。

 ブラノールには、騎士団で使われるものに近い模擬騎士剣が何本か用意された。

 どちらも刃は潰されている。

 それでも、二人ほどの使い手が魔力などを込めて振るえば、命を奪うには十分な武器だった。

 

 昼食を終えて間もなく、遠くから低い音が響いてきた。

 最初は雷かと思った。

 しかし、音は途切れることなく、次第に屋敷へ近づいてくる。


「もう来たのか?」


 父が窓の外を見上げる。

 青空の向こうから、細長い船体が急速に近づいていた。

 王国騎士団の紋章を刻んだ高速艇。

 船体を包む魔力が淡く揺らめき、後方から噴き出す風が雲を細く切り裂いている。


『本当に来たのね』


「ああ。思っていたより早い」


 高速艇は屋敷の上空で速度を落とし、東側の草地へ向かって降下していく。

 着艇用の脚部が地面へ触れた。

 巻き起こった風で草が大きく倒れ、砂と葉が周囲へ舞い上がる。


 魔導機関の音が収まると、船体側面の扉が開いた。

 二人の従騎士が先に降りてくる。

 一人は着艇した高速艇の状態を確認し、もう一人は細長い武器箱を抱えていた。

 その後に続いて、シャツとスラックス姿のブラノールが現れる。

 王国騎士団長らしい鎧も外套も身につけていない。

 以前と変わらない簡素な服装で、腰には騎士剣を佩き、片目は眼帯で覆われていた。

 高速艇を降りたときから、その視線は祖父だけへ向けられている。

 俺たちの前まで歩いてくると、ブラノールは祖父へ深く頭を下げた。


「王国騎士団長、ブラノールです。突然の申し出を受けていただき、感謝します」


「ラウル・クレハルトだ。随分と早かったな」


「《刀聖》と剣を交えられる機会を、逃す理由はありません」


「その呼び名は大げさだ」


「それを確かめるためにも、今日ここへ参りました」


 ブラノールの言葉に、祖父がわずかに目を細める。


「いい目をしている。特に、その眼帯の奥が」


 ブラノールの表情が、わずかに変わった。


「気づかれましたか。ありがとうございます」


「詳しいことまでは分からんがな」


「それでも、眼帯の奥まで見抜かれたのは久しぶりです」


「隠し切るつもりもないのだろう?」


「ええ。隠すための眼帯ではありませんので」


 祖父とブラノールの視線が重なる。

 二人の間に流れる空気が、ほんのわずかに変わった。


「いいだろう。準備ができたら始めよう」


「よろしくお願いします」


「私と手合わせることを褒美に選んだのは、この孫だ。礼ならレグルスに言ってくれ」


 ブラノールが俺へ顔を向ける。

 頬の傷と脇腹へ巻かれた布を見て、わずかに眉を上げた。


「その怪我は?」


「今朝、母上と手合わせをしました」


 ブラノールの視線が、俺から母へ移る。

 次いで、地面の裂けた稽古場へ向いた。


「なるほど。随分と激しい手合わせだったようだな」


「少し熱くなってしまっただけです」

 母が穏やかに答える。


 ブラノールは何も言わなかった。

 ただ、壊れた稽古場をもう一度見た後、俺へ視線を戻した。


「君には、また借りができたな」


「俺が祖父上とブラノールの手合わせを見たかっただけです。礼を言われることではありません」


「そうか。それなら、君の期待へ応えなければならないな」


 ブラノールの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。

 俺たちは屋敷から離れ、領兵用の野外演習場へ移動した。

 演習場の周囲には、すでに人が入らないよう簡単な柵が設けられている。

 見届けるのは、俺と父、母、ブラノールの従騎士二人だけだ。

 祖父が用意された模擬刀を手に取る。

 鞘から抜き、軽く振る。

 刃のない刀身が空気を切り、低い音を残した。


「少し重いが、問題はないな」


「真剣ではなくてよろしいのですか?」


 ブラノールが腰の騎士剣へ手を添える。


「互いの命を取り合うわけではない。真剣は必要ない」


「承知しました」


 ブラノールは迷うことなく騎士剣を外し、従騎士へ預けた。

 父が用意した模擬騎士剣を順に手に取り、重さと重心を確かめていく。

 その中から一本を選び、両手で構えた。


「こちらをお借りします」


「分かった」


 父が二人の間へ立つ。


「勝敗は、武器を失う、明確な一撃を受ける、あるいは本人が敗北を認めた場合に決する。私が続行を危険と判断した場合も、その時点で終了とします」


「異論はない」


「私もありません」


 父が演習場の端まで下がる。

 俺と母も柵の外へ移動した。


「レグルス。脇腹が痛むのだから、大人しく座っていなさい」


「この手合わせを座って見るつもりはありません」


「まったく、誰に似たのかしら」


『お母様だと思うわ』


「違う」


 ブラノールが模擬騎士剣を正面へ構える。

 両足を開き、重心をわずかに落とす。

 余計な力はどこにも入っていない。

 魔力を解放している様子もなかった。

 だが、何も使っていないわけではない。

 魔力は身体の内側を途切れることなく巡り、その奥には、さらに細い別の流れが重なっている。


 魔力とは異なる力。

 命脈闘法を学んだ今だからこそ、それが気だと分かった。


 祖父の身体にも、同じ二つの流れが存在している。

 それでも、どちらからも力は外へ漏れていない。

 母と俺が向かい合ったときのように、地面が震えることも、風が巻き起こることもなかった。

 演習場の草は、静かな風に揺れている。

 二人の間だけ、時間が止まったようだった。


『二人とも、力を使っていないように見えるわ』


「違う。すべて内側へ収めているんだ」


 外へ放出せず、身体と武器の中だけで巡らせている。

 だからこそ、どれほどの力が込められているのか分からない。

 母との手合わせよりも静かなはずなのに、息をすることさえためらうほどの緊張があった。

 対する祖父は、模擬刀を右手に持ったまま立っている。

 切っ先は地面へ向けられ、左手も下ろしたまま。

 構えすら取っていないように見える。


『お祖父様、本当にあのままで戦うつもりなの?』


「あれが祖父上の構えだ」


『隙だらけに見えるわ』


「俺にもそう見える」


 だが、どこから攻めればいいのか分からない。

 隙があるように見えるのに、踏み込んだ瞬間、自分の方が斬られている。

 幼い頃から、祖父と向き合うたびに感じていたものだった。

 ブラノールも同じものを感じ取ったのか、すぐには動かなかった。

 模擬騎士剣を構えたまま、祖父の呼吸や足元を見ている。


「手加減は不要です」

 ブラノールが静かに告げる。


「もちろん、そのつもりだ」

 祖父は穏やかに答えた。


「お前も騎士団長としてではなく、一人の剣士として来い」


「承知しました」


 父が右手を上げる。

 二人の姿は変わらない。

 魔力も気も、外からはほとんど感じられなかった。


「――始め!」


 父の声と同時に、ブラノールが一歩を踏み出した。

 地面は砕けない。

 風も起こらない。

 ただ滑るような足運びだけで、祖父との距離が消えた。

 模擬騎士剣が、流れるような軌道を描いて祖父へ迫る。

 剣には重さも、力みも感じられない。

 それでも、触れれば斬られる。

 刃のない模擬剣であることを忘れるほど、研ぎ澄まされた剣筋だった。

 ブラノールの剣が、祖父へ届く。


 そう思った。

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