第102話 月輪の合気
空が白み始めた頃、俺は屋敷の裏手にある稽古場へ向かった。
東側を林に囲まれた、土敷きの屋外稽古場だ。
幼い頃は兄上や姉上と何度もここで稽古をした。転び、泥だらけになりながら刀を振っていた場所でもある。
普段どおり少量の魔力を全身へ巡らせながら、踏み固められた土の感触を足裏で確かめる。
『少し緊張しているの?』
「していない」
『そう。なら、腰に差した刀へ手を伸ばしかけたのは気のせいね』
言われて、自分の右手が柄の近くにあることに気づいた。
戦う前に刀へ触れる癖が、いつの間にか身についていたらしい。
「今日は使わない」
『分かっているわ。お母様は無手なのでしょう?』
「ああ。リヴィアから学んだものを確かめると言っていたからな」
刀を稽古場の端にある刀掛けへ置き、セレスだけを腰へ残した。
『私は置いていかないのね』
「お前は武器ではないだろう」
『そういうことにしておきましょうか』
稽古場には、すでに母が立っていた。
袖口を絞った白い上衣に、動きやすそうな濃紺の長袴。長い髪は後ろで一つに束ねられている。
玄関や食卓で見た姿とは違う。
服装が変わっただけのはずなのに、立っている姿から隙が消えていた。
「おはよう、レグルス」
「おはようございます、母上」
「時間どおりね」
「母上こそ、随分と早いのですね」
「少し身体を温めていただけよ」
母はそう言ったが、呼吸はまったく乱れていない。
稽古場の端にある縁側では、父と祖父が俺たちを待っていた。
父は腕を組んで立っている。
対して祖父は縁側へ腰を下ろし、朝から茶を飲んでいた。
「父上と祖父上も見学されるのですか?」
「もちろんだ。お前がどれほど成長したのか、私も見ておきたい」
父が答える。
「それに、万が一ということもある」
「万が一?」
「気にするな。こちらの話だ」
父の視線は俺ではなく、母へ向いていた。
「エドガー。何か言いたいことがあるのかしら?」
「いや。安全な手合わせになるといいと思っただけだ」
「当然でしょう。息子との稽古よ」
「そうだな」
父は頷いたが、その表情から不安は消えていなかった。
祖父が茶器を片手に笑う。
「心配性だな、エドガーは」
「父上はディアナが帝国にいた頃をご存じないから、そう言えるのです」
「ここに来てからのことなら、よく知っているつもりだがな」
祖父は穏やかなままだった。
母は俺の前まで歩いてくると、肩から腕、足元へ視線を巡らせた。
「昨日も聞いたけれど、普段から魔力円環を維持しているのね」
「はい。ごく少量ですが、眠っているとき以外は止めないようにしています」
「良い習慣ね。立っているだけなら、魔力の偏りもほとんどないわ」
母が数歩離れる。
「今日は刀も魔法も使わず、無手で手合わせをします。身体強化と属性の使用は自由よ」
「母上も使われるのですか?」
「必要なら使うわ」
必要なら。
つまり、最初から使うつもりはないということだ。
「遠慮する必要はないわよ」
俺の考えを見透かしたように、母が言った。
「ですが――」
「今のあなたが私へどこまで通じるのかを確かめるための手合わせでしょう? 力を隠されては意味がないわ」
「……分かりました」
両足を肩幅に開く。
右足をわずかに引き、腰を落とす。
普段から巡らせている魔力へ少しずつ量を加え、身体の中心から四肢へ均等に配分する。
対する母は、両腕を自然に下ろしたままだった。
「構えないのですか?」
「構えているわよ」
そうは見えない。
重心も高く、足の位置も左右でほとんど変わらない。
どの方向へ動くのか、まったく読めなかった。
祖父が茶器を縁側へ置く。
「双方、準備はいいな?」
「はい」
「ええ」
祖父が片手を上げた。
「始め」
その手が下ろされる。
先に動いたのは俺だった。
踏み込みと同時に距離を詰め、母の胸元へ右拳を放つ。
探るための一撃ではない。
当たれば体勢を崩せるだけの力を込めている。
母は避けなかった。
拳が届く直前、左手の指先が俺の手首へ触れる。
触れられただけだった。
それなのに拳の軌道がわずかに外へ流れた。
母が半歩だけ踏み出す。
右手が俺の肘へ添えられた。
「なっ――」
足が地面から離れる。
自分から前へ出したはずの力が横へ流され、そのまま身体を回転させられた。
地面が視界いっぱいに迫る。
咄嗟に腕をつき、肩から背中へ衝撃を逃がした。
受け身を取ってすぐに立ち上がる。
「受け身は忘れていないようね」
「母上に、何度も投げられましたから」
「そうだったかしら?」
「私はよく覚えているぞ」
父が口を挟む。
「庭で稽古をするたび、レグルスが何度も宙を舞っていた」
「エドガー」
「……続きをどうぞ」
父が黙った。
俺は母から目を離さず、呼吸を整える。
投げられた感触が、腕に残っている。
母が力を加えたようには感じなかった。
俺の拳に乗っていた力を横へずらし、重心が浮いたところへ別方向の流れを加えただけだ。
『投げられたというより、自分から回ったように見えたわ』
「実際、そのとおりだ」
俺の力を利用された。
ならば、単純な正面攻撃は通らない。
脚へ風の魔力を巡らせる。
「――魔力強化《速》」
地面を蹴る。
一歩で母の側面へ回り込み、左の拳を放つ。
母の視線がこちらへ追いつくよりも速い。
そう思った瞬間、母の身体がわずかに沈んだ。
拳が頬をかすめる直前、母の肩が俺の胸へ触れる。
次いで、腰の辺りへ手のひらを添えられた。
前へ進んでいたはずの身体が、今度は斜め上へ浮き上がる。
視界が反転した。
受け身を取る。
背中へ衝撃が抜けるよりも先に跳ね起きた。
母は追ってこない。
最初に立っていた場所から、二歩も動いていなかった。
「速くなったわね」
「それでも、通じませんか」
「速さだけなら十分よ。でも、攻撃する場所が分かりやすいわ」
「視線で読んでいるのですか?」
「それもあるわ」
母が自分の胸元を指で示す。
「でも、それ以上に魔力の流れが教えてくれるの。あなたは攻撃する直前、その部分へ流す魔力が濃くなる」
拳を放つなら腕へ。踏み込むなら脚へ。
魔力円環を途切れさせてはいない。
だが、身体強化へ用いる以上、動かす場所へ魔力を多く配分する必要がある。
その偏りを、母は読み取っている。
「魔力の流れまで、見えているのですか?」
「正確には、感じているのよ。身体へ触れれば、もっとよく分かるわ」
母が右手を差し出す。
「もう一度いらっしゃい」
今度は左右の拳を続けて放った。
一撃目を手の甲で外される。
二撃目を途中で止め、脇腹へ蹴りを放つ。
母の腕が下がった。
蹴りを受け止めるのではなく、足首の進む方向をわずかに変えられる。
軸足が滑った。
身体を立て直そうとしたところへ、母の手が肩へ触れる。
力を加えられた感覚すらないまま、地面へ転がされた。
すぐに起き上がり、再び距離を詰める。
拳を放つ。
流される。
掌底へ切り替える。
手首を取られ、投げられる。
蹴りを混ぜても結果は変わらない。
どれだけ速く動いても、どれだけ攻撃を変えても、母の手が一度触れた瞬間に体勢を崩される。
気づけば、何度目か分からないほど地面へ転がされていた。
「レグルス」
母が俺を見下ろす。
「力を抜きなさい」
「抜けば、届きません」
「入れ続けても届いていないでしょう?」
「……はい」
「あなたは触れられた瞬間、流れを奪われまいとして力を入れている。その抵抗まで、私の合気を助けているのよ」
立ち上がり、服についた土を払う。
理解はできる。
だが、相手を殴ろうとしながら力を抜くというのは、言葉ほど簡単ではない。
リヴィアの命脈闘法は、相手の動きを読み、その流れの要所を潰す。
対して、母の合気は相手の動きを否定しない。
力を受け入れ、円へ変え、そのまま別の方向へ送り返す。
強く打ち込むほど、大きな力となって自分へ返ってくる。
「考えているわね」
「攻略できないかと」
「私の前で考え込む余裕があるのかしら?」
母の姿が視界から消えた。
背後に気配を感じる。
振り返ろうとした瞬間、背中へ手のひらを当てられた。
足が勝手に前へ進む。
踏みとどまろうと力を入れたことで、さらに体勢が崩れた。
前のめりになった俺の足を、母のつま先が軽く払う。
再び地面へ転がされた。
「戦いながら考えなさい」
「……リヴィアさんにも似たことを言われました」
「あの人なら言うでしょうね」
母は楽しそうに笑っている。
それでも、攻撃へ移る気配は見せない。
俺が来るのを待っている。
いや、待っているように見せて、すでに自分の間合いへ引き込んでいる。
これまでと同じでは、何度繰り返しても結果は変わらない。
拳を通すことだけを考えるな。
母の合気に抗うのではなく、その流れへ乗る。
そして、魔力の偏りを読まれるのなら、攻撃へ移る直前まで偏らせなければいい。
全身を巡る魔力量を均等に整える。
腕にも脚にも、同じ量を流す。
身体の一部だけを強化するのではなく、どこからでも動ける状態を保つ。
「行きます」
「ええ」
ゆっくりと距離を詰める。
右拳を放つ。
母の指先が手首へ触れた瞬間、腕から力を抜いた。
拳の軌道を変えられる。
逆らわず、その動きに肩と腰を合わせる。
投げへつながるはずだった力が、俺の身体をすり抜けていった。
母の目がわずかに開かれる。
それでも、すぐに足を差し込まれた。
重心を崩される。
倒れながら地面へ手をつき、腕の力で身体を跳ね上げる。
両足から着地した。
「今のは悪くないわ」
「まだ、攻撃は届いていません」
「最初からすべてできる人はいないわよ」
母は嬉しそうだった。
だが、褒められて終わるつもりはない。
もう一度踏み込む。
右拳。左の掌底。下段への蹴り。
すべてを途中で止められるよう、力を残したまま繰り出す。
母は変わらず、最小限の動きで流していく。
それでも、先ほどまでとは違う。
一方的に投げられる回数が減っている。
触れられた瞬間に力を抜き、母が作った流れへ身体を合わせる。
奪われた軸を、円環させている魔力で立て直す。
何度か攻防を繰り返すうち、母の足が初めて一歩後ろへ動いた。
「なるほど」
母の笑みが深くなる。
「リヴィアは、きちんとあなたへ教えたようね」
「まだ、教わったことのすべてを身につけたわけではありません」
「十分よ。少なくとも、以前のあなたなら何度投げられても、力任せに向かってきたでしょうから」
「否定はできません」
「でも、それだけでは私へ攻撃は届かないわ」
母が半歩前へ出る。
間合いが狭まった。
先ほどまでとは違い、母から距離を詰めてきた。
その変化を見逃さず、右拳を放つ。
母の左手が俺の手首へ触れる。
同時に、右手が肘の内側へ添えられた。
腕を外へ流される。
母が身体を回し、俺の重心を前へ引き出そうとする。
逆らわない。
右腕から力を抜き、母の作った円へ肩から身体を滑り込ませる。
攻撃に使う場所を決めるな。
触れる瞬間まで、魔力を均等に保て。
母の腰が回る。
俺を投げるため、左足へ重心が移った。
その一瞬だけ、母の身体の中心が空いた。
水の魔力を神経へ流す。
「――《瞬》」
周囲の動きが、わずかに遅く見えた。
母の合気によって回されていた勢いを殺さず、そのまま左足を踏み込む。
懐へ入った。
空いている左手を母の鳩尾へ当てる。
掌底が触れるまで、魔力の配分は変えない。
触れた瞬間だけ、全身を巡っていた魔力を左腕と踏み込んだ足へ集中させた。
「はっ!」
掌底を打ち抜く。
空気が弾けた。
母の身体が地面を滑る。
足元から土を巻き上げ、数歩分の距離を押し戻した。
最後は右足を深く踏み込み、地面を抉りながら止まる。
稽古場が静まり返った。
「ディアナ!」
父が縁側から一歩踏み出す。
祖父は座ったまま動かない。
俺はすぐに構えを解いた。
「母上、大丈夫ですか?」
母は鳩尾へ手を添え、顔を伏せていた。
打ち込む魔力は外へ抜けるよう調整した。
獅子琉掌のように、内部へ魔力を流し込んでもいない。
それでも、まともに入った一撃だ。
「母上?」
「謝らなくていいわ」
母がゆっくりと顔を上げる。
口元には笑みが浮かんでいた。
「良い一撃だったわ」
「最後まで、母上には流れを読まれていたと思いました」
「ええ。腕を抜かれたところまでは、私の合気の中にいたわ」
母は鳩尾へ当てていた手を離す。
「でも、投げられる流れへ自分から乗って、その勢いを攻撃へ変えた。魔力を集めるのも、触れた後。あれでは事前に読むことは難しいわね」
「リヴィアさんから、魔力の出力を細かく変える訓練を受けました。その応用です」
「そう」
母が自分の足元へ視線を落とす。
地面には、踏みとどまった際にできた深い跡が残っている。
「実戦なら、勝負を決める一撃だったわ」
その言葉を聞いて、胸の奥に小さな喜びが生まれた。
母へ一撃を当てられたからではない。
帝国で積み重ねたものが、確かに自分の力となっていることを認められたからだ。
「レグルス」
「はい」
「本当に、強くなったのね」
母の声は穏やかだった。
「あれほど頭で考えた動きに身体がついてこなかったあなたが、私の合気を利用して一撃を返すなんて」
「まだ一撃だけです」
「その一撃を通せる者が、どれだけいると思っているの?」
母が笑う。
しかし、先ほどまでの柔らかな笑みとは違っていた。
口元は笑っている。
目の奥には、獲物を見つけた獣のような光が宿っている。
『レグルス』
「何だ」
『お母様、喜んでいるのよね?』
「……おそらく」
『喜び方が、少し怖いのだけれど』
「言うな」
父も、母の変化に気づいていた。
「ディアナ」
「何かしら?」
「目的は、レグルスがリヴィアという人物から何を学んだのか確かめることだったな?」
「ええ」
「なら、今の一撃で十分ではないか?」
「まだ十分ではないわ」
母は即答した。
「レグルスが私へ一撃を通せることは分かった。でも、この子がどこまで動けるのかは、まだ見ていないもの」
「その顔で言われても説得力がないのだが」
「どのような顔かしら?」
「……息子の成長を心から喜ぶ、母親の顔だ」
「そうでしょう?」
母は満足そうに頷いた。
父が祖父へ顔を向ける。
「父上。止めなくてよいのですか?」
「まだ何も起きておらんだろう」
「これから起きるのです」
「心配するな」
祖父は新しい茶を注ぎながら答えた。
「危なくなれば、私が止める」
「止められるのですか?」
祖父が父を見上げる。
「止められぬと思うか?」
「……いえ」
祖父の声に力みはない。
それでも、父はそれ以上何も言わず、一歩下がった。
母が俺へ向き直る。
「レグルス。ここからは、もう少し力を上げるわ」
「先ほどまでは、どの程度だったのですか?」
「身体と魔力の流れを見ていただけよ。身体強化も使っていないわ」
分かっていたことだ。
それでも、改めて言葉にされると、母との実力差を思い知らされる。
母がゆっくりと息を吸う。
両手を身体の前へ上げ、右足を半歩引いた。
初めて、明確な構えを取った。
同時に、母の魔力の流れが変わる。
それまで静かに全身を巡っていた魔力が、身体の中心へ集まっていく。
溜め込んでいるわけではない。
中心へ戻った魔力が心臓の鼓動に合わせて圧縮され、次の瞬間には四肢へ向かって爆発的に広がる。
一度。
二度。
脈打つたび、母の周囲の空気が震えた。
『魔力の流れが、一気に変わったわ』
「ああ」
流れは乱れていない。
爆発するように広がった魔力が、次の瞬間には再び身体の中心へ戻っている。
激しい放出と収束。
そのすべてが、一つの円環として完成していた。
母が腰を落とす。
「月輪流合気術――」
足裏が地面を捉えた。
「剛勁」
轟音が響いた。
母の身体から、抑え込まれていた魔力が一気に噴き上がる。
衝撃が地面を走り、足元の土が浅く抉れた。
巻き上がった砂と土煙が、円を描くように周囲へ広がる。
稽古場を囲む木々が大きく揺れ、枝から朝露が降り注いだ。
「うおっ――」
父が腕で顔を庇う。
祖父は座ったまま動かない。
祖父の前まで迫った土煙だけが、何かに遮られたように左右へ分かれ、茶器には一粒の砂も届かなかった。
母の周囲で、濃密な魔力が陽炎のように揺らめいている。
玄関で俺を抱き締め、夕食を用意してくれた母と同じ人物には見えなかった。
そこに立っているのは、帝国で合気の最高峰と称された流派を継ぐ、一人の武人だ。
母が楽しそうに笑う。
「さあ、レグルス」
その声には、隠し切れない喜びが滲んでいた。
「今度は、私から行くわ」
身体の奥で、普段から巡らせている魔力円環が強く脈打った。
俺の本能が告げている。
ここから先は、先ほどまでの手合わせとは違う。
母の一歩を受け止めるには、俺も今持てる力のすべてを解き放たなければならない。




