第101話 見抜く目
新しい茶が運ばれてくると、祖父は湯気の立つ茶器を一つ、俺の前へ置いた。
「長旅で疲れただろう。まずは飲め」
「ありがとうございます」
茶器を手に取り、口元へ運ぶ。
慣れ親しんだ香りと、わずかな渋み。王都や帝国でも茶を飲む機会はあったが、家で飲んでいたものとはどこか違っていた。
祖父も一口だけ茶を飲み、卓へ戻す。
その目が、俺の腰元へ向けられた。
「ところで、レグルス」
「はい」
「その本には、名があるのか?」
祖父が見ているのは、腰に提げたセレスだった。
「……セレスといいます」
「名があるのか」
祖父の目がわずかに細くなる。
「ならば、意思もあるのだな?」
『本当に鋭い方ね』
セレスの声が頭へ響く。
俺が答えずにいると、祖父は小さく笑った。
「今、何かを言われたか」
「分かるのですか?」
「言葉までは聞こえん。だが、その本へ意識を向けたことくらいは分かる」
『隠しても無駄そうね』
セレスの言うとおりだった。
祖父は俺の顔ではなく、呼吸や視線の動きまで見ている。
「はい。セレスには意思があります。声を届ける相手も、セレス自身が選べます。普段は俺と話していますが、姉上とも直接会話したことがあります」
『そこまで説明された後で、黙っているのも不自然ね』
それまで俺にだけ届いていたセレスの声が、静かな座敷へ広がった。
『初めまして、ラウル様。私はセレスよ』
祖父がわずかに目を見開く。
「これは丁寧にどうも。ラウル・クレハルトだ。孫が世話になっているようだな」
『ええ。それはもう、随分と』
「おい」
『何か間違っているかしら?』
「……間違ってはいない」
祖父は俺たちのやり取りを見て、楽しそうに笑った。
「なるほど。本当に意思を持っているのだな」
笑みを残したまま、祖父はセレスをしばらく見つめる。
「だが、意思を持つ魔導書というだけではない。」
祖父はしばらくセレスを見つめた後、再び俺へ視線を戻した。
「お前が座敷へ入ってきたときから、一人で立っているようには見えなかった」
「一人ではない?」
「お前の気配に、もう一つ別の意思が重なっている。魔導具を身につけているだけでは、あのような気配にはならん」
祖父の視線から、隠し通すことはできない。
元々、家族にまで隠し続けるつもりはなかった。ただ、どこまで話すべきか決められずにいただけだ。
「レグルス」
祖父が静かに問いかける。
「お前は、そのセレスというものと契約を結んだのか?」
「……はい」
俺が答えると、祖父は驚くでもなく、確かめるように頷いた。
「やはり、契約者か」
「その言葉を、祖父上はどこで?」
「昔、一度だけ似た気配を持つ者に出会ったことがある」
祖父は茶器を手に取りながら、遠い記憶を探るように目を伏せた。
「まだ私がこの家へ戻る前だ。修行を兼ねて各地を旅していた頃、ある土地で一人の旅人と出会った」
「その人も、契約者だったのですか?」
「本人はそう言っていた。その者も、見た目は一人だった。だが、向かい合うと二つの意思に見つめられているような、妙な感覚があった」
俺とセレスのように、契約した存在の意思が重なっていたのだろうか。
「何と契約していたのですか?」
「分からん」
祖父は首を横に振った。
「名も、契約した相手も教えようとはしなかった。私も深く尋ねなかった。その者が自らを契約者と呼んだことと、常人では持ち得ない力を有していたことしか知らん」
「今、その人がどこにいるかは?」
「それも知らん。一度出会ったきりだ。それ以降、契約者らしき者と会うこともなかった」
祖父が出会った人物が、どの契約者だったのかは分からない。
そもそも、現在も生きているのかさえ不明だ。
「話せる範囲で構わん。お前が何と契約し、どのような力を得たのか聞かせてくれるか」
「分かりました」
俺はセレスへ意識を向ける。
『話しても構わないわ。ここまで見抜かれたのなら、下手に隠す方が不自然でしょう』
セレスの了承を得て、俺は契約について話し始めた。
セレスと出会い、契約を結んだこと。
獅子宮と呼ばれる場所が存在し、階層ごとに課された試練を越えてきたこと。
そこで火、水、風、土の属性を得たこと。
契約後、刀を振る、突く、叩く、弾くといった一つひとつの行為が、以前とは異なる形で自分の中へ積み重なるようになったこと。
ただし、十二宮のすべてを知っているわけではない。ほかの契約者についても、分からないことの方が多い。
俺が知っている範囲だけを選び、祖父へ伝えた。
祖父は途中で口を挟まず、最後まで静かに聞いていた。
「なるほどな」
話を終えると、祖父は短く息を吐いた。
「それで、以前とは身体も魔力も変わったということか」
「はい。契約していなければ、今の俺はありません」
「そうだろうな」
祖父は否定しなかった。
「お前がこの家を飛び出す前のことは、よく覚えている」
その言葉に、俺は自然と背筋を伸ばしていた。
「レオンは剣を握れば、教えられたことをすぐに形にした。アリシアは術式を一度見れば、その仕組みを理解した。二人は幼い頃から才に恵まれていた」
「はい」
「お前も頭が悪かったわけではない。何をすべきか、どう身体を動かすべきかは理解していた」
祖父は俺の手へ視線を落とす。
「だが、頭で思い描いた動きに身体がついてこなかった。魔力との親和性も低く、強化を使えば動きが乱れた」
何度も経験したことだった。
理解はできる。
どう動けばいいのかも分かる。
それなのに、実際に刀を振ると身体が遅れる。
力を込めれば刃筋がぶれ、速度を上げれば足元が崩れた。
「そのうえ、お前が選んだのは刀だった」
祖父がわずかに笑う。
「騎士剣よりも扱いが難しく、誤魔化しの利かない武器だ。憧れだけで手を伸ばし、何度も刀に振り回されていた」
「……返す言葉もありません」
「責めているわけではない」
祖父の声は穏やかだった。
「何度失敗しても、お前は刀を手放さなかった。レオンやアリシアとの差を思い知らされても、振ることだけはやめなかった」
祖父の目が、俺の足元へ移る。
「契約がお前に力を与え、閉ざされていた道を開いた。それは間違いないだろう」
「はい」
「だが、契約を結んだだけの者が、今のお前のような立ち方をすることはない」
祖父の言葉に、俺は顔を上げた。
「余計な力を抜き、どの方向にも動けるよう重心を置いている。誰かに言われて形だけを真似たものではない。幾度も失敗し、自分の身体で確かめた者の立ち方だ」
「祖父上……」
「契約が道を開いたとしても、その道を歩いたのはお前だ。振り、考え、鍛えることをやめなかったから、今のお前がある」
自分が重ねてきたものを、祖父は立っている姿だけで見抜いていた。
胸の奥が、わずかに熱くなる。
「契約の力を借り物だと卑下する必要はない」
祖父の表情から、笑みが消える。
「お前が受け入れ、磨き、己の意思で扱っているのなら、それもまたお前の力だ」
「はい」
「だが、契約に選ばれたから自分は強いなどと思うな」
静かな声だった。
それでも、その言葉には刀を突きつけられたような重みがあった。
「得た力に溺れ、自らを磨くことをやめた瞬間、お前は再び刀に振り回される。今度は以前のように転ぶだけでは済まん。お前の力は、自分だけでなく周囲の者まで傷つける」
「……はい」
「契約によって得たものを活かせ。だが、頼り切るな。これまでと同じように、自らを鍛え続けろ」
「忘れません」
祖父は俺の目をしばらく見つめた後、表情を緩めた。
「ならばいい。お前は昔から、物覚えだけは悪くなかったからな」
「身体がついてこなかっただけです」
「今はついてくるのだろう?」
「以前よりは」
「ならば、これからも振り続けろ」
短い言葉だった。
だが、それだけで十分だった。
祖父との話を終え、俺は自分の部屋へ向かった。
廊下の突き当たりにある扉を開く。
中の様子は、家を出た日とほとんど変わっていなかった。
寝台と机。
壁際に並ぶ本棚。
幼い頃に使っていた木刀や、刃筋を確認するための古い稽古道具。
机の端には、読みかけのまま置いていった本まで残されている。
それでも埃は積もっていない。
窓も定期的に開けられていたのか、空気が淀んだ様子もなかった。
『ずっと手入れをしてくれていたのね』
「ああ」
腰から外したセレスを机へ置く。
『あなたのお祖父様、優しい方ね』
「昔から、俺たちには甘いところがある」
『でも、誤魔化せる相手ではなさそうだわ』
「それも昔からだ」
祖父の前では、嘘や隠し事が長く続いたためしがない。
『あなたのことを、ずっと見ていたのね』
「祖父上だからな」
『ええ。良いお祖父様だわ』
俺は上着を脱ぎ、部屋の中央へ腰を下ろした。
『休まないの?』
「列車に乗っていただけだ。それに、これは日課だからな」
目を閉じ、呼吸を整える。
普段から全身へ巡らせている少量の魔力へ意識を向ける。その流れを崩さないよう、修練に用いる魔力を少しずつ加えていった。
中心から胸へ。
肩を通し、腕から指先へ。
戻した魔力を腰から両脚へ送り、足先まで行き渡らせて再び中心へ戻す。
一巡。
二巡。
増やした魔力が途切れないよう、円を描く。
力を押し出すのではなく、流れそのものを止めない。
帝国で何度も繰り返してきた日課だった。
慣れ親しんだ部屋で行うと、いつもより呼吸が深くなる。余計な力が抜け、魔力が身体へ馴染んでいく。
祖父の言葉を思い出す。
契約が開いた道を歩いたのは、自分だ。
そして、これからも歩き続けなければならない。
『言われた直後から鍛錬を始めるのね』
「今までと同じことをしているだけだ」
『だから、あの方も認めたのでしょうね』
セレスの声を聞きながら、さらに魔力を巡らせる。
何度か円環を繰り返したところで、扉が軽く叩かれた。
「レグルス、夕食の用意ができたわ」
母の声だった。
「今行きます」
修練のために増やしていた魔力量を少しずつ絞り、普段から維持している量へ戻す。
円環そのものは止めない。少量の魔力をいつものように全身へ巡らせたまま、ゆっくりと目を開いた。
立ち上がって身なりを整え、セレスを腰へ戻した。
食堂へ入ると、すでに父と祖父が席についていた。
卓には焼いた肉や新鮮な野菜、温かなスープが並んでいる。どれも豪華というほどではないが、幼い頃から食べ慣れたものばかりだった。
「さあ、座って」
「はい、母上」
自分の席へ腰を下ろす。
祖母の席は空いていたが、父と母、祖父と同じ食卓を囲むのは久しぶりだった。
食事が始まり、しばらくは料理の味や領地の近況について話した。
やがて父が、手にしていた食器を置く。
「それで、レグルス」
「はい」
「家を出てから、何があったのか聞かせてくれるか」
俺は一度頷き、家を飛び出した日から順に話し始めた。
冒険者として依頼を受け、王都へ移ったこと。
学園で過ごした日々。
浮遊大陸へ渡り、そこで多くの人々と出会ったこと。
戦いの中で刀を折ったこと。
話のすべてを細かく説明すれば、夜が明けても終わらない。要点だけを選びながら話したが、それでも何度か食事の手が止まった。
危険な魔物や死にかけた戦いについて話すたび、母の目が細くなる。
「あなた、そんなことを何度もしていたの?」
「必要な戦いでした」
「必要なら、何度死にかけてもいいわけではないでしょう」
「それについては、私も同感だ」
父が頷く。
「あなたも昔、似たようなことをしていたでしょう?」
「……今はレグルスの話だ」
父はそれ以上何も言わず、静かにスープへ口をつけた。
祖父は口を挟まず、時折頷きながら俺の話を聞いている。
浮遊大陸を離れた後、兄を訪ねて帝国へ向かったところまで話を進める。
「帝国では兄上と再会し、しばらく兄上の家に滞在しました。その後、リヴィアという人物から命脈闘法を教わることになりました」
母の手が止まった。
「リヴィア?」
「はい。帝国で知り合った人から紹介された武術家です。命脈闘法を教わりましたが、詳しい素性までは聞いていません」
「そう。あの人らしいわね」
母は懐かしむように目を細めた。
「リヴィアは今、帝国元老院の第四席よ」
「第四席……?」
思わず母の顔を見返す。
「俺は、そのようなことを一度も聞いていません」
「本人も名乗らなかったのでしょう?」
「はい」
「やはり、あのリヴィアなのね」
母の口調がわずかに柔らかくなる。
「母上は、リヴィアをご存じなのですか?」
「ええ。知っているわ」
母は食器を卓へ置いた。
「私が帝国にいた頃、何度も手合わせしたことがあるもの」
「母上が帝国出身だとは聞いていましたが……」
「詳しい話は、したことがなかったわね」
母は俺を真っ直ぐに見つめる。
「私の旧姓は、ディアナ・アルディネ。帝国で合気の最高峰と称される、月輪流合気術を継ぐ宗家の生まれよ」
初めて聞く母の旧姓だった。
「宗家……」
「ええ。一通りの技は、帝国を離れる前に修めているわ」
「なぜ、今まで話してくれなかったのですか?」
「隠していたわけではないのよ」
母は穏やかに笑う。
「わざわざ話す必要もないと思っていたの。今の私はアルディネ家の人間ではなく、クレハルト家のディアナだもの」
「私から話そうとしたことは、何度かあったのだが」
父が横から口を挟む。
母がゆっくりと父へ顔を向けた。
「そうだったかしら?」
「……いや。私の勘違いだったようだ」
父はすぐに視線を逸らした。
『本当に、お母様には弱いのね』
セレスの声が聞こえたが、俺は何も返さなかった。
「リヴィアとは、どのような関係だったのですか?」
「同じ帝国で武を学ぶ者として、何度も拳を交えた関係よ。あの人は昔から、自分にも相手にも厳しかったわ」
母の視線が、俺の肩から腕へ移る。
「言葉で教えるより、身体が覚えるまで何度も繰り返させる人でしょう?」
「……はい」
「変わっていないのね」
母は困ったように笑った。
「玄関であなたに触れたとき、身体の流れに覚えのある癖を感じたの。まさかと思ったけれど、リヴィアに教わったのなら納得だわ」
あの一瞬で、そこまで見抜いていたのか。
「命脈闘法と魔力円環を教わりました。それに、力を一定に配分する方法も」
「魔力円環まで?」
「はい」
母の目に、わずかな興味が浮かぶ。
「それなら、ちょうどいいわね」
「何がでしょうか?」
「明日の朝、稽古場へいらっしゃい」
「稽古場へ?」
「あなたがリヴィアから何を学び、どこまで自分のものにしたのか、この目で確かめるわ」
母は柔らかく笑っている。
しかし、その目は玄関で俺の肩へ触れたときと同じだった。
「母上と手合わせをする、ということですか?」
「ほかに何があるの?」
父が俺へ同情するような視線を向けてくる。
「レグルス。もし断るつもりなら、今のうちに――」
「エドガー?」
「いや、何でもない」
父は姿勢を正し、言葉を続けた。
「母上との手合わせは、非常に得るものが多い。謹んで受けるといい」
「急に言うことが変わりましたね、父上」
「世の中には、逆らっても結果が変わらないことがある」
「何か言ったかしら?」
「いや。明日の手合わせが楽しみだと言っただけだ」
母は満足そうに頷いた。
俺に断るつもりはなかった。
帝国で命脈闘法を学んだ今だからこそ、母の合気が以前とは違って見えるはずだ。
「分かりました。よろしくお願いします、母上」
「ええ。楽しみにしているわ」
こうして帰郷した翌朝、最初に向き合う相手は母に決まった。




