第100話 帰郷
窓の外を流れる景色から、王都の名残はとうに消えていた。
貨物魔導列車の後方につながれた客車。その座席に腰掛け、俺は緩やかに遠ざかっていく街並みを眺めていた。
最初は石造りの建物が点在していたが、今では広い農地と小さな集落が見えるばかりだ。さらに先には森が広がり、その向こうに緩やかな山並みが連なっている。
列車が荷物を積み下ろすために何度か停車するたび、王都から離れていることを実感する。
『随分と緑が増えてきたわね』
膝の上に置いたセレスから声が届いた。
「ああ。もう少し進めば、クレハルト領に入る」
『あなたが育った場所なのよね』
「そうだ」
『もう少し嬉しそうに答えたらどうかしら』
「嬉しくないわけじゃない」
『それなら、緊張しているの?』
「……少しだけな」
素直に認めると、セレスは意外そうに沈黙した。
『あなたでも、家族に会うだけで緊張するのね』
「俺を何だと思っているんだ」
『魔物や格上の相手には、考えるより先に向かっていく人かしら』
「間違ってはいないが」
家族に会うこと自体が嫌なわけではない。
むしろ、帰りたいと思っていた。
家を飛び出し、王都を離れ、浮遊大陸へ渡り、帝国で身体を鍛え直した。勇者とも出会い、自分の知らなかった世界と力を見てきた。
その間にも、故郷を忘れたことはない。
ただ、以前と同じ顔で帰れるわけではなかった
祖父の刀を折った。
兄からすでに話は伝わっているはずだ。それでも、自分の口から祖父に告げることとは違う。
『また難しい顔をしているわ』
「見えないんじゃなかったのか?」
『声を聞けば分かると言ったでしょう』
「便利だな」
『長く一緒にいるもの。それくらいは分かるわ』
からかうような口調だったが、その声はどこか優しかった。
『刀のことを考えているの?』
「ああ」
『折れたものは戻らないわ』
「分かっている」
『それでも、あなたは戻ることができた。まずは、それでいいのではなくて?』
俺はすぐに答えられなかった。
セレスの言葉が正しいのかは分からない。だが、窓の外に広がる景色を眺めていると、胸の奥にあった重さが少しだけ軽くなった。
昼を過ぎた頃には、森と草原の占める割合がさらに増えていた。
陽光を反射する細い川が草原を縫うように流れ、その周囲には青々とした畑が広がっている。遠くでは水車がゆっくりと回り、放牧された家畜が草を食んでいた。
『あの辺りも、クレハルト領なの?』
「ここから先はそうだ」
『想像していたよりも……』
「田舎だろう」
『綺麗な場所だと言おうとしたのだけれど』
「それは悪かった」
『自分の故郷に対して失礼な人ね』
「住んでいた頃は、本当に何もない場所だと思っていたんだ」
王都の賑わいに憧れたこともある。
だが、外の世界を知った今では、この景色も以前とは違って見えた。
穏やかな風に揺れる草木。
澄んだ水が流れる川。
遠くまで見渡せる緑の丘陵。
浮遊大陸や帝国の街ほど目を引くものはない。それでも、眺めているだけで身体から余計な力が抜けていく。
『落ち着く場所なのね』
「ああ。今になって、ようやく分かった」
やがて貨物魔導列車は速度を落とし、小さな駅へ滑り込んだ。
王都の駅とは違い、低い駅舎と倉庫がいくつか並んでいるだけの簡素な貨物駅だ。
列車から降りると、別の貨車へ積まれていた馬車もすでに降ろされ始めていた。
固定具が外され、馬車が牽引術式によって斜路を下りる。繋留区画で休んでいた二頭の馬が再びつながれると、御者が俺の前へやってきた。
「お待たせいたしました。館までは、もう半刻ほどです」
「はい」
御者が客室の扉を開く。
中へ入ろうとして、俺は足を止めた。
「今日は隣に座ってもいいですか?」
「私の隣に、ですか?」
「久しぶりに景色を見ておきたいんです」
「もちろんでございます」
御者の隣へ腰を下ろすと、馬車はゆっくりと駅を離れた。
石畳の道は、やがて土と砂利の混じった街道へ変わる。
左右には畑が広がり、その先を透き通った小川が流れている。畑仕事をしていた者たちが馬車に気づき、遠くからこちらへ頭を下げた。
風が草木を揺らす音。
湿り気を含んだ土の匂い。
どれも記憶に残っている。
森の手前で街道を外れ、緩やかな坂道を上っていく。
木々の隙間から、黒い屋根が見え始めた。
『あれが、あなたの家なのね』
「ああ」
深い軒を持つ東方風の屋根。その下には洋風の白い外壁と縦長の硝子窓が並び、正面玄関へ続く階段は淡い色の石で造られている。
庭に面した縁側や木造の渡り廊下には東方の様式が色濃く残りながら、中央の居住棟には洋風の意匠が取り入れられていた。
名家の館としては、それほど大きくない。
周囲の森を切り開いて威容を示すのではなく、豊かな木々の中へ溶け込むように建てられている。
昔と変わらない、クレハルト家の館だった。
馬車が正面玄関の前で止まる。
そこには、二人の姿があった。
父エドガーと、母ディアナ。
二人とも館の中で待つことなく、俺を迎えるために外へ出ていた。
御者台から降りると、母が父よりも先に歩み寄ってくる。
「おかえりなさい、レグルス」
「ただいま戻りました、母上」
母は柔らかく笑い、俺の両肩へ手を添えた。
昔と変わらない手だった。
だが、右肩に置かれた掌から伝わる力の向きが、ごくわずかに変わる。
押されたわけでも、引かれたわけでもない。
それでも身体が反応し、俺は無意識に左足の位置をずらして重心を整えていた。
母の目が、わずかに細くなる。
「……本当に変わったのね」
「そう見えますか?」
「ええ。身体が大きくなった、という話ではなさそうね」
「ディアナ、そのくらいにしてやったらどうだ。レグルスは帰ってきたばかりだぞ」
父が控えめに口を挟む。
母は俺の肩から手を離し、笑顔のまま父を振り返った。
「あら。私は息子を迎えただけよ?」
「いや、今、明らかに――」
「何かしら?」
「……何でもない」
父は一瞬で言葉を引っ込めた。
外では刀と騎士剣を同時に振るう父も、母を前にすると昔からこうだった。
『お父様は、随分と分かりやすい方なのね』
セレスの声が聞こえたが、俺は答えない。
今ここで笑えば、父から後で何を言われるか分からない。
「あなたも久しぶりに触れてみたら?」
「私は立ち方を見れば十分だ」
「そう?」
「ああ。十分だ」
父が妙に強く頷く。
母はそれ以上追及せず、再び俺へ向き直った。
「無事に帰ってきてくれて、本当によかったわ」
「ご心配をおかけしました」
「心配するのが親の役目だ。お前が謝る必要はない」
今度は父が俺の肩を叩く。
母とは違い、真っ直ぐで重い手だった。
「よく戻った、レグルス」
「はい、父上」
父の視線が、俺の足元から腰、肩へと静かに動く。
何も言わなかったが、以前との違いには気づいているようだった。
「祖母上は、まだ旅に?」
「ええ、相変わらずよ。少し前に手紙が届いたけれど、いつ帰ってくるかは書かれていなかったわ」
「母上らしいな」
父が小さく息を吐く。
その口調から、祖母の長旅は今に始まったことではないと分かる。
「祖父上は?」
「奥の座敷にいる」
父が館の奥へ目を向けた。
「お前が戻る時刻も伝えてある。朝から落ち着かない様子だったが、玄関まで迎えに出るのは気恥ずかしかったらしい」
「何度も廊下へ出てきては、まだ着かないのかと聞いていたのよ」
「それは言わない約束だっただろう」
「そうだったかしら?」
父が困ったように眉を下げる。
祖父が玄関へ出てこなかった理由を知り、俺の肩から少し力が抜けた。
「まずは顔を見せてきなさい。話はそれからよ」
母が告げる。
父も頷いた。
「荷物はこちらで運ばせる。行ってこい」
「分かりました」
石造りの玄関を通り、靴を脱いで一段高い木張りの床へ上がる。
磨かれた廊下。
硝子窓の向こうに見える中庭。
木と畳の混じった懐かしい匂い。
何も変わっていないように見える。
だが、廊下を歩くたび、足裏へ伝わる感覚は以前よりも鮮明だった。床板のわずかな沈みや軋みまで、今の俺には感じ取れる。
変わったのは、この家ではない。
俺の方だ。
館の奥へ進み、一枚の襖の前で足を止める。
『また緊張しているわね』
セレスの声が小さく響いた。
「静かにしていてくれ」
『大丈夫よ。先ほどのお話を聞く限り、怖い方ではなさそうだもの』
「怖くはない。ただ、祖父上は何でも見抜く」
『それなら、隠そうとしなければいいでしょう』
「簡単に言うな」
『あなたが考えすぎているだけではなくて?』
否定できなかった。
一度息を整え、襖へ手を掛ける。
「祖父上、レグルスです。ただいま戻りました」
「おお、帰ったか。入ってこい」
すぐに声が返ってきた。
襖を開く。
座敷の奥。
低い卓を前にして、祖父ラウルが座っていた。
背筋は真っ直ぐに伸びているが、張り詰めた様子はない。俺の姿を認めると、その目元が柔らかく緩んだ。
「そんなところに立っていないで、こちらへ来い。顔をよく見せてくれ」
「はい」
座敷へ入り、祖父の前で頭を下げる。
「ただいま戻りました、祖父上」
「ああ。よく帰ったな、レグルス」
祖父は俺の顔を眺め、それから肩、腰、足元へと視線を移した。
「少し逞しくなったか」
「自分では、あまり分かりません」
「身体の大きさだけではない。以前よりも余計な力が抜けている。外でよい師に出会ったようだな」
その一言だけで、帝国で積み重ねてきたものを見抜かれた気がした。
「祖父上、刀のことですが……」
「ああ。その話も聞いている」
祖父は俺の言葉を遮ることなく、穏やかに頷いた。
「申し訳ありません。祖父上から預かった刀を、俺は――」
「レグルス」
祖父が静かに俺の名を呼ぶ。
「刀は折れるものだ」
「ですが……」
「大切に扱っていたことは、レオンから聞いている。遊び半分で折ったわけでも、粗末にしたわけでもないのだろう?」
「はい」
「ならば、今はそれでいい」
祖父は卓の上の茶へ手を伸ばしたが、すでに冷めていることに気づき、困ったように笑った。
「お前を待っている間に、すっかり冷めてしまった。まずは新しい茶を頼むとしよう」
そして、俺へ座るよう手で示す。
「刀の話も、外で何を見てきたのかも、後でゆっくり聞かせてくれ。だが、その前に言っておかなければならんことがある」
祖父は真っ直ぐに俺を見つめた。
「おかえり、レグルス」
「……はい。ただいま戻りました」
胸の奥に残っていた重さが、ようやくほどけていく。
そのとき初めて、俺は本当に故郷へ帰ってきたのだと実感した。




