第99話 家のある日々
新しい家で暮らし始めて、三週間が過ぎた。
王都での暮らしが落ち着いたら、一度実家へ帰る。
そのつもりだったが、家へ移った翌朝、姉から簡易通信が届いた。
姉は別邸へ戻ったあと、王都への帰還と家を借りたことを父さんたちへ伝えていたらしい。
その返事には、王都での暮らしをゆっくり整えてから帰ってくればいい、と書かれていた。
その言葉に甘え、最初は一件だけのつもりで依頼を受けた。
王都近郊の街道巡回。
薬草を採取する者たちの護衛。
農地の周辺へ現れた魔物の討伐。
どれも一日か二日で終わる依頼だった。
一つ終えたら帰ろうと思っているうちに別の依頼を受け、空いている日は家を整えたり、庭で刀を振ったりしていた。
気づけば、三週間が過ぎていた。
『まずは刀を抜かずに、型を一巡させなさい。円環を保ったままね』
セレスの声が庭へ響く。
幻影の姿をしたセレスは、何度も剣を打ち込まれた跡のある木の杭へ腰かけていた。
「分かってる」
『昨日も、獅吼爆炎へ移るところで流れが途切れたでしょう』
「途切れてはいない。少し乱れただけだ」
『それを途切れたと言うのよ』
獅心を腰へ差したまま、庭の中央へ立つ。
足を肩幅よりわずかに広く開き、呼吸を整えた。
今朝の目的は、速さでも威力でもない。
魔力円環を、体術の動きの中でさらに深めることだった。
腹の奥へ沈めた魔力を、身体の内側にある命脈へ触れさせる。
足裏から脚へ。
脚から腰、背中、肩へ。
両腕を通った魔力は指先まで届き、胸から腹へ戻っていく。
一度流して終わりではない。
戻ってきた魔力を、再び足元へ送り出す。
身体の中で始まりと終わりがつながり、一つの円環を作った。
以前は、一つの技を放つたびに魔力の流れが途切れていた。
次の技を使う時には、また最初から魔力を集め直していた。
今は違う。
魔力を巡らせたまま、その向きと性質だけを変える。
左足を半歩前へ出す。
左の掌で正面から来る攻撃を払うように腕を動かし、重心を前へ移しながら右の掌を突き出す。
拳や掌だけで打つのではない。
地面を踏んだ力を脚から腰へ通し、背中と肩を経て腕へ乗せる。
突き出した掌を引き戻し、その動きのまま身体をひねる。
肘を打ち込む。
さらに一歩踏み込み、肩から身体ごとぶつかる寸前で止めた。
足を止めない。
姿勢を低くし、足元を払うように右脚を回す。
回転の勢いを腰へ戻し、今度は左脚を蹴り上げた。
足先が朝の空気を切る。
着地と同時に半歩退き、両腕を上げて構え直す。
一つの動きを終えてから、次へ移るのではない。
掌から肘へ。
肘から肩へ。
肩から脚へ。
力も魔力も途切れさせず、次の動きへ渡していく。
その間も、魔力円環は身体の内側を巡り続けていた。
『右の肘へ移る時、魔力が腕へ寄りすぎているわ』
「肘へ集めた方が威力は上がる」
『一撃だけならね。でも、そこで使い切ったら、次の蹴りへつながらないでしょう』
「使い切ってはいない」
『残っていればいいという話ではないわ。円環の太さを変えないで』
一度構えを解きかけ、思い直す。
魔力の流れは止めない。
足を元の位置へ戻し、そのまま二巡目へ入った。
今度は肘へ集める魔力を抑え、余った流れを腰から脚へ送る。
肘打ちから身体を沈める。
先ほどよりも滑らかに足払いへつながった。
『今の方がいいわ』
「威力は落ちたぞ」
『肘だけを見ればね。その代わり、次の蹴りは速くなったでしょう?』
確かに、身体へ引っかかる感覚はなかった。
技を一つずつ強くするのではなく、一連の流れとして完成させる。
リヴィアが教えたかったのは、そういうことなのかもしれない。
二巡目の途中で、水の属性を円環へ重ねる。
掌へ集まった魔力が薄い水の膜となり、指先から手首を包んだ。
獅子琉掌。
本来なら相手の力を受け流し、その流れごと打ち返す技だ。
だが今は、水を外へ放たない。
掌を前へ出し、受け止める形から押し返す形へ移りながら、使った魔力を円環へ戻す。
水の気配が消える前に腰をひねる。
次は火。
両拳へ熱が集まった。
獅吼爆炎。
拳の周囲で火花が散る。
爆発させる直前で力を抑え、その熱を腕から胸へ引き戻した。
円環が一瞬だけ膨らむ。
『今よ』
「分かってる」
『火へ変えた途端、外へ出そうとしたでしょう』
「獅吼爆炎は、放つ技だからな」
『今日は放たない稽古よ。術が変わっても、あなたの中を巡る魔力まで乱さないで』
拳に残った熱を消し、流れを整える。
続けて風の属性を重ねた。
腕と脚へ、細い風がまとわりつく。
獅爪疾脚。
一歩踏み込む。
風に押された身体が、一瞬で庭の端まで進む。
石壁へ届く前に足を止め、身体をひねりながら蹴りを放った。
風が弧を描く。
それでも、石壁に刻まれた術式が反応するほどの魔力は外へ漏れなかった。
蹴り足を下ろす。
着地する瞬間、最後に土の属性を円環へ重ねた。
足裏から伝わった魔力が、脚と腰へ沈んでいく。
風に押されていた身体の勢いが収まり、揺れていた重心が地面へ吸いつくように安定した。
土の属性には、まだ技と呼べる形がない。
今できるのは、身体の軸を固め、次の動きへ移るための足場を作ることだけだった。
『そこで魔力を止めないで』
「土は、止めて固める属性じゃないのか?」
『身体を支えることと、魔力を滞らせることは違うわ。円環へ組み込むなら、土も巡らせなさい』
足元へ溜まりかけた魔力を、脚から腰へ引き上げる。
背中と肩を通し、両腕へ。
土の重さを残したまま、流れだけを再び腹の奥へ戻した。
身体の軸は崩れない。
それでも、魔力円環は止まることなく巡り続けている。
ゆっくりと最初の構えへ戻る。
水。
火。
風。
そして、土。
技として形になっているのは、まだ三つだけだ。
それでも、四つの属性を通しても魔力円環は切れていなかった。
『今の一巡は悪くなかったわ』
「昨日よりは?」
『火へ移るところと、最後に土を重ねたところ。それ以外は、少し良くなったわね』
「土は、まだ掴みきれてない」
『だから円環の中で何度も巡らせるのよ。技にするのは、その先でいいわ』
「獅吼爆炎の方は、昨日より抑えたぞ」
『昨日が膨らみすぎていたのよ』
三巡目に入る。
同じ型を繰り返しながら、今度はセレスに指摘された場所だけでなく、身体の内側にある細かな淀みを探した。
右肩。
左の腿。
踏み込んだ時の足裏。
魔力が一か所へ溜まりそうになれば、次の動きへ渡す。
強く流れすぎれば抑え、弱ければ別の命脈から補う。
最後の蹴りを終えても、構えは解かなかった。
魔力円環を保ったまま、右手を獅心の柄へ添える。
『右足が、少し外へ開いているわ』
「これくらいか?」
『もう少し内側。そうね、その位置よ』
足の向きを直す。
体術の型で巡らせていた魔力を、柄へ触れた指先から刀へつなげる。
鞘の奥から、小さな鼓動が返ってきた。
刀へ一方的に魔力を流し込むのではない。
柄から刀身へ。
刀身から切っ先へ。
そこまで届いた魔力を、再び自分の身体へ戻す。
獅心まで含めて、一つの円環へ組み込んでいく。
地面を蹴る。
脚から腰、背中、肩へ力を通す。
体術で掌や拳へ渡していたものを、今度は柄を握る手へ乗せた。
一歩踏み込む。
黒い刀身を抜き放ち、庭の中央で止める。
切っ先が空気を裂く。
だが、石壁へ衝撃が届くことも、地面が抉れることもなかった。
『今のは悪くないわね』
「昨日よりは?」
『少しだけ良くなったわ』
「少しだけか」
『一日で大きく変わるものではないでしょう?』
獅心を鞘へ納める。
帝国で、あの魔族の黒い鱗を斬った時に得た手応え。
一閃の、その先。
今もなお遠い、兄や父、祖父の背中。
以前なら、少しでも早く追いつくために、ただ出せる限りの力を刀へ込めていた。
今は違う。必要な力を、必要な場所へ流す。
余分な魔力を外へ逃がさず、自分の円の中で収める。
体術と刀も、別々のものではなくなり始めていた。
地面から受けた力を拳へ乗せるか。
蹴りへ乗せるか。
それとも、刀の切っ先まで通すか。
違うのは最後に力が届く場所だけだ。
身体そのものを一つの術式とし、獅心までその先へつなげる。
リヴィアから教わった命脈闘法を刀へつなげるには、出力を上げるだけでは足りなかった。
『もう一度するの?』
「型を最初から一巡して、そのあと抜刀を十回」
『今ので三巡目よ』
「火へ移るところと、土を重ねた時の流れが乱れた」
『最後の一巡は、ほとんど乱れていなかったでしょう』
「少しは乱れた」
『そういうところは、前と変わらないわね』
呆れたように言いながらも、セレスは木の杭から動かなかった。
最後の十回を終え、家の中へ戻る。
台所では、昨夜のうちに切っておいた根菜と、卵を使ったスープを作った。
買ったばかりの頃は何も入っていなかった棚にも、今は塩や香草、干した肉、幾つかの野菜が並んでいる。
卓の上には料理の本が開かれていた。
セレスが頁の上へ立ち、書かれている手順を指で示す。
『次に卵を入れるのよ』
「もう入れていいのか?」
『煮立ってからと書いてあるでしょう』
「もう煮立ってる」
『それなら、ゆっくり流し入れて』
溶いた卵を鍋へ入れる。
木の匙で軽く混ぜると、黄色い卵が細く広がった。
『火を弱めて』
「分かってる」
『昨日もそう言って、鍋の底を焦がしたでしょう』
「あれは肉を焼いた時だ」
『鍋を焦がしたことは変わらないわ』
スープを器へ移し、パンと一緒に卓へ並べる。
一口飲む。
塩気は強すぎず、根菜にも火が通っていた。
「今日は上手くできたな」
『三週間もあれば、さすがにね』
「最初から食べられないものは作ってないぞ」
『お姉さまは、最初の煮込みを随分長く噛んでいたけれど』
「肉が硬かっただけだ」
『それを失敗と言うのよ』
言い返しながら、もう一口スープを飲む。
自分で作ったものを、自分の家で食べる。
最初の頃は少し妙な感覚があったが、今では朝の稽古と同じくらい、いつものことになり始めていた。
食事を終えると、依頼へ向かう準備をする。
今日受けているのは、王都北側の農地へ現れた猪型の魔物を討伐する依頼だった。
獅心を腰へ差し、セレスを身につける。
玄関の扉を開けると、幻影のセレスが俺の隣へ並んだ。
『今日は夕方までに戻れそう?』
「魔物が資料どおりの数ならな」
『昨日、パンを買っていたでしょう。帰りが遅くなっても、夕食を抜いては駄目よ』
「セレスまで母さんみたいなことを言うようになったな」
『あなたと暮らしていれば、誰でも似たことを言うようになるのではなくて?』
「姉さんも同じことを言いそうだ」
『お姉さまなら、もう少し強く言うでしょうね』
門を開く。
境界を越えると、セレスの小さな姿が光へ変わり、いつもの声だけが意識へ残った。
王都ギルドへ立ち寄り、依頼の場所を確認する。
農地までは、王都の北門から歩いて半日もかからない。
昼前には、荒らされた畑と、地面に残る大きな足跡を見つけた。
足跡を追った先にいたのは、資料どおり三頭だった。
普通の猪より二回りは大きく、背中から頭にかけて硬い皮膚に覆われている。
畑の端に積まれた収穫前の根菜を食い荒らし、こちらへ気づくと一頭が鼻息を荒くした。
前脚が地面を掻く。
次の瞬間、巨体が真っ直ぐこちらへ突進してきた。
獅心へ手を添える。
正面から受け止める必要はない。
一歩だけ横へ動き、すれ違う瞬間に刀を抜く。
黒い刃が、硬い皮膚の継ぎ目を通り抜けた。
猪型の魔物が数歩進んだところで崩れ落ちる。
残る二頭が、左右から向かってきた。
自分を中心とした円を思い描く。
左の一頭へ身体を向けながら、右から来る魔物の動きを意識へ収める。
一頭目の牙を鞘で弾く。
身体が傾いたところへ踏み込み、首元へ刃を入れた。
背後から迫る気配へ合わせ、足を運ぶ。
最後の一頭の突進が、先ほどまで立っていた場所を通り過ぎた。
追いかける。
速度を上げすぎず、必要な距離だけ詰める。
黒い刃を振り下ろすと、三頭目も地面へ倒れた。
『随分と余裕があったわね』
「資料どおりだったからな」
『帝国へ行く前なら、最初の一頭を正面から斬ろうとしていたでしょう?』
「今でも斬れるとは思う」
『できるかどうかではなく、する必要があるかどうかの話よ』
「分かってる。だから、しなかっただろ」
『ええ。そこは成長したわね』
討伐証明となる牙を回収し、農地の持ち主へ魔物を倒したことを伝える。
王都へ戻り、ギルドで報告を終えた頃には、日が沈み始めていた。
帰り道に鶏肉と野菜、それから焼きたてのパンを買う。
職人街へ入り、自分の家の門を開けた。
境界を越えた瞬間、腰にあるセレスの魔導書が淡く光る。
光が地面へ降り、小さな人の姿を作った。
『おかえりなさい、レグルス』
「ただいま」
初めて言われた時は、返事をするまで少し時間がかかった。
今では、考える前に言葉が出る。
セレスは満足そうに頷くと、俺と一緒に玄関へ向かった。
『今日は何を買ってきたの?』
「鶏肉と野菜。煮込みにする」
『朝も煮込んでいなかった?』
「あれはスープだ」
『違いはあるの?』
「肉が入ってる」
『それだけ?』
「味も変えるつもりだ」
玄関の鍵を開けようとしたところで、門の外から声が聞こえた。
「レグルス、帰っている?」
「姉さんだ」
『お姉さまね』
門へ戻ると、姉が紙袋を抱えて立っていた。
「依頼帰り?」
「ああ。今戻ったところだ」
「ちょうどよかったわ」
姉が紙袋を持ち上げる。
「本と、別邸でもらった果物を持ってきたの」
「また本か?」
『どんな本?』
「セレスは嬉しそうだな」
『当然でしょう』
姉を家へ迎え入れる。
セレスは姉にも見えるように姿を整えると、紙袋の周囲を飛び回った。
「今日は三冊だけよ」
『前より少ないわね』
「一度に持ってこられる量にも限りがあるの」
「まだ増やすつもりなのか?」
二階の本棚は、三週間前より随分と埋まっていた。
俺が依頼の帰りに買ったものもある。
そのほとんどはセレスに頼まれた本だったが、魔物や薬草、王国周辺の地理について書かれたものは依頼にも役立っている。
姉が持ってきた術式の本も、すでに一段分は並んでいた。
「書庫が必要だと言った意味が分かったでしょう?」
『最初から分かっていたことよ』
「二人で勝手に増やしてるだけじゃないか」
「レグルスも読んでいるでしょう?」
「必要なところはな」
『それで十分よ。最初から全部読む必要はないもの』
本を書庫へ運んだあと、三人で台所へ入る。
「今夜は煮込みを作るんでしょう?」
姉が袖を少し上げる。
「手伝うわ」
「今日は一人で作れる」
「本当に?」
「朝も作った」
『鍋を焦がさなかったのは、今日が初めてだけれど』
「それは言わなくていい」
姉が笑いながら、紙袋から果物を取り出す。
「なら、私はこれを切るわ。食後に食べましょう」
「姉さんが辛くないように、香辛料は少なめにする」
「まだ昨日の肉包みのことを言っているの?」
「三週間前だぞ」
「覚えているなら、余計に言わないで」
『お姉さまの顔は、本当に赤かったものね』
「セレスまで覚えていなくていいのよ」
鶏肉の表面を焼き、切った根菜と一緒に鍋へ入れる。
水と香草を加え、弱い火で煮込んでいく。
姉が持ってきた果物を切っている間、セレスは鍋の縁へ腰かけた。
『塩は、まだ入れないの?』
「肉に味をつけた時に使ったから、最後に確かめてから入れる」
『考えているのね』
「同じ失敗はしない」
「料理に関しては、失敗しても素直に直すのね」
姉が言う。
「刀でも直してる」
「刀の時は、納得するまで時間がかかるでしょう?」
「自分で確かめないと分からないからな」
『料理は食べれば、すぐに分かるものね』
煮込みが完成し、卓へ並べる。
姉が一口食べ、ゆっくりと飲み込んだ。
「どうだ?」
「普通に美味しいわ」
「普通に、は必要か?」
「最初に作ったものと比べたら、随分美味しくなったという意味よ」
『最初の肉は、本当に硬かったものね』
「セレスは食べてないだろ」
『お姉さまが噛んでいる時間を見れば分かるわ』
「全部食べたわよ」
「無理してたのか?」
「初めて弟が作った料理を残せるわけがないでしょう」
姉がもう一口食べる。
「でも、今日は本当に美味しいわ」
「なら、また作るよ」
「次は煮込み以外にしてね」
『私も賛成よ』
「二人とも、注文が増えてないか?」
食事を続けながら、この三週間に受けた依頼や、学園での出来事を話す。
姉は家へ来るたび、研究に使っている術式や、学生たちの失敗について話してくれた。
俺も、依頼で見つけた魔物や、帝国で覚えた身体の使い方について話す。
以前は、姉が一人で話し、俺が聞くことの方が多かった。
今は、俺から話すことも増えていた。
「そういえば、父さんたちのところへは、いつ帰るの?」
姉が食後の果物へ手を伸ばす。
「今受けている依頼は、今日で終わった。次はまだ決めてないから、そろそろ帰ろうと思ってる」
「父さんから、暮らしを整えてからでいいと言われたからって、随分とゆっくりしたわね」
「三週間だろ」
「三週間も、よ」
『お母さまは、もう待ちきれなくなっているかもしれないわね』
「母さんなら、姉さんに連絡するんじゃないか?」
「最近は来てないわよ」
「なら、まだ大丈夫だろ」
姉とセレスが顔を見合わせる。
「どうして二人とも、同じ顔をするんだ?」
『お母さまが何も言わないから大丈夫だと思うところが、危ないのよ』
「セレスは母さんに会ったことがないだろ」
『お姉さまの話を聞けば、想像くらいできるわ』
「私も、そろそろ自分から連絡した方がいいと思うわよ」
「分かった。明日、ギルドから伝言を送る」
「明日ね?」
「ああ」
姉はまだ何か言いたそうだったが、最後には頷いた。
翌朝。いつものように庭で稽古をしていると、家の中から小さな鐘の音が聞こえた。
門の術式が、誰かの訪れを知らせている。
『お姉さまではないわね』
木の杭へ座っていたセレスが立ち上がる。
「姉さんの魔力には反応しないようにしてるからな」
『ギルドの使いかしら?』
「昨日の依頼なら、報告は終わってる」
獅心を鞘へ納め、門へ向かう。
扉の向こうに立っていたのは、落ち着いた色の上着を身につけた中年の男性だった。
胸元には、クレハルト家の紋章を象った銀の留め具がある。
領地の屋敷で、長く働いている使用人だった。
「お久しぶりでございます、レグルス様」
「久しぶりです。どうして王都へ?」
「奥様より、お届け物とお手紙を預かってまいりました」
使用人の後ろには、小さな荷車が停められている。
荷台には、木箱が一つ載せられていた。
「それを、母さんが?」
「はい。それから、明日の朝、王都の別邸へお迎えの馬車を回すよう申しつけられております」
「迎えまで?」
「奥様は、迎えを出さなければ、レグルス様がいつまで経ってもお帰りにならないのではないかと心配されております」
『よく分かっているわね』
セレスの声が、俺にだけ聞こえる。
「帰るつもりはありました」
「そのようにお伝えしておきます」
使用人は表情を変えなかったが、声にはわずかな笑いが混じっていた。
木箱を受け取り、家の中へ運ぶ。
使用人にも入って休んでもらおうとしたが、別邸へ届ける物が残っているらしい。
「明日の朝、別邸にてお待ちしております」
「分かりました。ありがとうございます」
「奥様も、旦那様も、大旦那様も、お帰りをお待ちです」
使用人が一礼し、荷車とともに職人街を離れていく。
門を閉じると、セレスがいつもの姿へ戻った。
『昨日、明日連絡すると言ったばかりなのに、先を越されたわね』
「母さんが手紙を出したのは、昨日より前だろ」
『そういう問題ではないでしょう』
居間へ木箱を置く。
蓋を開けると、中には保存の利く肉やチーズ、焼き菓子、果実を煮詰めた瓶が詰められていた。
見覚えのある香草茶も入っている。
「随分と多いな」
『食事ができているか、心配されていたのでしょうね』
「自分で作ってると伝えてなかったからな」
『伝えていたら、別の意味で心配されたかもしれないわ』
「今は普通に作れる」
『昨日、お姉さまから合格をもらったばかりでしょう』
木箱の一番上に、封をされた手紙が置かれていた。
封蝋には、クレハルト家の紋章が刻まれている。
手紙を開く。
丁寧な文字で、短い文章が書かれていた。
レグルスへ。
王都へ無事に戻ったことも、自分で住む家を決めたことも、アリシアから聞きました。
王都での暮らしが落ち着いてから帰るとのことでしたが、三週間もあれば十分でしょう。
帝国で怪我をしていないか、自分の目で確かめたいので、一度帰ってきなさい。
父さんも、祖父さんも、あなたの帰りを待っています。
明日の朝、迎えの馬車を向かわせます。
箱の中身を食べ終えるまで待つ必要はありません。
最後の一文を読み、木箱へ目を向ける。
「期限まで決められてるな」
『お母さまは、あなたの扱い方をよく分かっているわね』
「帰ると言ってるだろ」
『三週間前にも聞いたわ』
「父さんが、急がなくていいと言ったからだ」
『お父さまは急がなくていいと言っただけで、依頼を幾つも受けなさいとは言っていないでしょう?』
「……明日帰るよ」
『初めから、そう言えばいいのよ』
その日のうちに王都ギルドへ向かい、数日間王都を離れることを伝えた。
受けている依頼は、昨日ですべて終わっている。
急ぎの指名依頼もなく、帰ることに問題はなかった。
姉へも、実家から迎えが来たことを伝える。
夕方になると、姉は学園から直接家へやってきた。
「本当に迎えを出されたのね」
「ああ。これも届いた」
木箱を見せる。
姉は中を確認すると、香草茶と焼き菓子を取り出した。
「私の分も入っているみたい」
「俺宛てじゃないのか?」
「この焼き菓子は、昔から私が好きなものよ。母さんは、私がここへ来ると思って入れたのでしょうね」
『お母さまには、全部分かっているみたいね』
「姉さんが家の場所を教えたんだろ?」
「家を借りたことと住所は伝えたわ。でも、今日届けが来ることまでは知らなかったわよ」
新しい香草茶を淹れ、三人で卓を囲む。
蜂蜜を少し加えると、別邸で飲んだものと同じ、慣れた甘さになった。
「姉さんは一緒に帰らないのか?」
「明日から授業があるもの。次の連休には、私も帰るつもりよ」
「なら、父さんたちに伝えておく」
「お願い。それから、母さんに聞かれたら、ちゃんと食事をしていると答えるのよ」
「してるだろ」
「家の中も、今くらいは片づいていると伝えておいて」
『それは、お姉さまが来る前に片づけたからでしょう?』
「いつも散らかってるみたいに言うな」
「装備は片づけているけど、読み終わった本や服を卓へ置いたままにするでしょう」
『私は本棚へ戻してほしいのだけれど、自分では動かせないもの』
「戻すのは俺だから、あとで読もうと思って置いてるんだ」
「そう言って、何日置いていたの?」
「二日くらいだ」
『四日よ』
「セレスは細かいな」
『本のことなら当然でしょう』
姉は焼き菓子を食べながら、家の中を見回した。
「三週間前より、本当にあなたの家らしくなったわね」
「そうか?」
「ええ。最初は、家具を置いただけの空き家みたいだったもの。今は、ちゃんと誰かが暮らしているように見えるわ」
『私も暮らしているわよ』
「分かっているわ。セレスの本も増えたものね」
「半分は姉さんが持ってきたんだぞ」
「役に立っているでしょう?」
「ああ。それは否定しない」
姉が少しだけ微笑む。
「実家へ帰っても、ここへ戻ってくるのでしょう?」
「そのつもりだ。王都で依頼を続けるなら、ここが拠点だからな」
『地点登録までしたのだから、戻ってもらわないと困るわ』
「何日か留守にするだけだ」
「なら、母さんたちとゆっくり話してきなさい。帝国でのことも、全部ね」
「全部話したら、母さんが心配するだろ」
「隠した方が心配するわよ」
『お姉さまに賛成ね』
「どこまで話すかは、帰ってから考えるよ」
「そう言って、都合の悪いところを省くつもりでしょう?」
「聞かれたことには答える」
「兄さんにも同じことを言っていそうね」
否定できず、香草茶を飲む。
慣れた甘さが、温かさとともに身体へ広がった。
翌日、出発の準備を終え、家の中を一度見回した。
窓は閉めた。台所の火も消えている。
傷みそうな食材は、昨夜のうちに姉へ持って帰ってもらった。
二階の書庫へ入る。
セレスは本棚の中段に立ち、並んだ本を見上げていた。
『数日くらいなら、埃もそれほど積もらないわね』
「心配なのは家じゃなくて本なのか?」
『家の術式は、私が確認できるもの。本は誰かが動かさない限り、そのままでしょう?』
「なら、何も心配することはないだろ」
『帰ってきたら、続きを読んでちょうだい』
「分かった」
装備を保管する部屋へ向かう。
獅心を腰へ差し、着替えを入れた鞄を持つ。
帝国へ向かった時と比べれば、荷物は少ない。
必要のないものを置いていける場所があるからだった。
玄関の扉へ鍵をかけ、庭へ出る。
セレスが空中を歩きながら、俺の隣へ並んだ。
『せっかく慣れたところなのに、また出発ね』
「数日で戻る」
『分かっているわ』
門の前で、一度だけ家を振り返る。
窓の内側に灯りはなく、庭にも誰もいない。
それでも、三週間前に見た空き家とは違っていた。
依頼から戻れば、門を開ける。
セレスが姿を現し、おかえりと言う。
台所で食事を作り、姉が来れば三人で卓を囲む。
そこまで考えて、鍵を握り直した。
『帰ってくる家があるのだから、そんなに見なくても大丈夫よ』
「別に心配してるわけじゃない」
『なら、行きましょう。今度は、もう一つの帰る場所へ』
「ああ」
門を閉じ、鍵をかける。
境界を越えると、セレスの幻影が淡い光へ変わった。
『帰ってきた時は、また迎えてあげるわ』
「頼む」
王都の別邸へ着くと、入口の前に一台の馬車が停まっていた。
扉には、クレハルト家の紋章が刻まれている。
昨日の使用人が待っており、俺に気づくと一礼した。
「お待ちしておりました、レグルス様」
「お願いします」
荷物を預け、馬車へ乗り込む。
扉が閉じる。
馬車が向かったのは、王都の外縁にある魔導列車の駅だった。
『馬車で屋敷まで向かうのではないの?』
「ここから領地まで馬車だけで行けば、何日かかかるからな。列車で領地の近くまで運ぶんだ」
『この馬車も一緒に?』
「ああ。向こうの駅から屋敷までは離れてる。馬車ごと運んだ方が、乗り換える荷物も少なくて済む」
駅へ着くと、幾つもの貨車を連ねた魔導列車が停まっていた。
長い車列の後方には、荷主や護衛が利用するための客車も連結されている。
馬車は駅員たちの手で専用の貨車へ載せられた。
車輪の前後へ金具が取りつけられ、床に刻まれた固定術式が淡く光る。
ここまで馬車を引いてきた馬は、別邸へ戻されるらしい。
領地側の駅には、屋敷から別の馬が用意されているという。
『馬まで一緒に揺られるわけではないのね』
「向こうにも家の馬がいるからな」
『随分と大がかりな迎えね』
「母さんが、確実に帰らせるために手配したんだろ」
『そこまでしなければ帰らないと思われているのよ』
「帰るつもりだった」
『三週間前から聞いているわ』
言い返せないまま、使用人とともに客車へ乗り込む。
やがて、出発を知らせる鐘が鳴った。
床の下から低い振動が伝わり、魔導列車がゆっくりと動き始める。
速度が上がるにつれて、王都の建物が窓の外を流れていった。
手元には、新しい家の鍵がある。
実家へ帰るだけなのに、すでに王都へ戻ってくる時のことを考えていた。
自分で選んだ、新しい家を離れ。
俺は、もう一つの帰る場所へ向かった。




