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星すら斬るまで、俺は振り続ける  作者: ゆ
第七章 勇者との邂逅、王国への帰還
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第98話 新しい住人

 俺と姉は、正式な契約を結ぶために王都ギルドを訪れていた。

 昨日、物件を案内してくれた女性が、受付近くの卓へ書類を並べていく。


「契約期間は一年。賃料は月ごとの支払いとなります。依頼などで王都を離れる場合は、事前にギルドへ申告していただければ、管理者が定期的に建物を確認します」


「留守にしている間、家の中へ入ることもあるんですか?」


「緊急時を除き、建物内へ入ることはありません。扉や窓、庭の状態を外から確認します。室内の点検を希望される場合は、別途契約が必要です」


「それなら大丈夫です」


 俺が答える横で、姉は契約書へ目を通していた。

 一枚読み終えると次の書類を取り、端に書かれた小さな文字まで確認している。


「姉さんが契約するみたいだな」


「あなたが読まなさすぎるのよ」


「必要なところは読んだ」


「庭の術式を直すことについては?」


「昨日、管理人に伝えただろ」


「契約書に書かれているか確認したの?」


 姉に言われ、もう一度書類へ目を落とす。

 建物に刻まれた既存術式の修復は、構造へ影響を与えない範囲で認める。

 ただし、新たな機能を加える場合は、所有者または管理者へ報告すること。

 昨日は気づかなかった一文だった。


「書いてあるな」


「今、読んだでしょう」


『お姉さまがいてよかったわね』


「最初から否定してないだろ」


 管理人の女性が微笑みながら、別の書類をこちらへ向けた。


「ご希望いただいた扉と窓の補修、台所の魔石交換は、本日の昼までに完了する予定です。家具の搬入は、それ以降にお願いします」


「分かりました」


「庭の術式については、修復後に一度確認させてください。元の機能を戻すだけでしたら、そのままお使いいただけます」


「少し手を加えるかもしれません」

 姉が言う。


「音と魔力を外へ漏らしにくくする機能を強めたいのですが」


「周囲へ影響がなければ問題ありません。術式の構成だけ、あとで控えを提出してください」


「それくらいなら構いません」


 姉がすべての書類を確認し終える。

 俺は契約書へ名前を書き、保証金と最初の月の賃料を支払った。

 帝国で受け取った報酬があるため、生活に必要な物を揃えても余裕はある。

 それでも、依頼の報酬を住む場所へ使うのは初めてだった。


「最後に、ギルドへ住所を登録します」


 受付の女性が、家の場所が記された金属板を取り出す。

 俺の冒険者証を重ねると、二つの術式が淡く光った。


「これで、緊急依頼や指名依頼が入った際は、ギルドの使いがご自宅へ連絡に伺います。長期間不在にする場合は、伝言をこちらでお預かりします」


「お願いします」


「では、こちらが鍵です」


 卓上へ、二本の鍵が置かれた。


 一つは玄関。

 もう一つは門と、装備を保管する小部屋に使うものらしい。

 手に取る。

 何の飾りもない鉄の鍵だった。

 それでも、宿で部屋を借りる時に渡される鍵とは、どこか違って見えた。


『さっきから、何度も見ているわよ』


「形を覚えてるんだ」


『それなら、一度見れば十分でしょう』


「なくさないように確認してる」


「気に入ったなら、そう言えばいいじゃない」

 姉まで会話に加わる。


「鍵を気に入れることなんてあるのか?」


「今のあなたがそうでしょう?」


 否定しようとして、手の中の鍵へもう一度目を向ける。


「……悪くはないな」


『随分と控えめな言い方ね』


 契約を終えると、俺たちは家具を扱う店へ向かった。

 大きな家具は、職人街にある店から直接運んでもらえる。

 最初に選んだのは、寝室へ置く寝台だった。


「これでいい」


 店の入口に近い、簡素な木製の寝台を指す。


「まだ一つ目よ」


「寝られれば同じだろ」


「少しくらい比べなさい。毎日使うものなのよ」


 姉に背中を押され、店の奥まで見ることになった。

 柔らかすぎる寝台は、身体が沈む。

 装飾の多いものは、部屋に置くには大きすぎる。

 結局、最初に選んだものより少し幅があり、木枠のしっかりした寝台に決まった。


「最初のものと、それほど変わらないぞ」


「敷物が違うわ。こちらの方が、長く使っても形が崩れにくいの」


「姉さんが使うわけじゃないだろ」


「だからといって、弟が毎朝身体を痛めて起きるのを放っておけないでしょう」


『レグルスなら、床で寝ても身体を痛めなさそうだけれど』


「野営では地面で寝てるからな」


「家の中まで野営と同じにしないの」


 次に、居間へ置く卓と椅子を選ぶ。

 二人か三人で使えれば十分だと思っていたが、俺が選んだ卓の周囲には四脚の椅子が置けた。


「四脚も必要?」

 姉が尋ねる。


「余って困るものでもないだろ。姉さん以外にも、誰か来るかもしれない」


「誰かって?」


「父さんたちとか、兄さんとか」


 兄が王都まで来る機会は、すぐにはないかもしれない。

 それでも、座る場所がないよりはいい。


『一脚は私の分ね』


「今は座れないだろ」


『だから、今のうちに用意しておくのよ』


「いつ座れるようになるんだ?」


『それは、あとで教えるわ』


 昨日と同じ、意味を残した答えだった。

 姉が椅子の一つへ座り、背もたれを確かめる。


「これなら悪くないわね」


「座り心地のいい椅子が欲しいと言ってたからな」


「覚えていたの?」


「昨日のことだぞ」


「あなたは、興味のない話をすぐに忘れるでしょう」


「姉さんが来る時に使うものなら、興味のない話じゃない」


 姉が一瞬だけ黙る。


『お姉さま、嬉しそうね』


「セレス、余計なことを言わないで」


「そうなのか?」


「違うとは言っていないわよ」


 卓と椅子を決めたあと、二階の小部屋へ置く机と、客用の簡易寝台も選んだ。

 装備を保管する部屋には、獅心《コル・レオニス》を置くための刀掛けを用意する。

 黒鞘に合うような余計な飾りのないものを選ぶと、姉が意外そうに首を傾げた。


「もっと立派なものを選ぶかと思ったわ」


「刀掛けが目立っても仕方ないだろ。獅心《コル・レオニス》を置ければいい」


『刀の方が十分に目立つものね』


「黒いだけだぞ」


「名前を呼ぶと脈打つ刀を、黒いだけとは言わないと思うわ」


 家具の次は、食器と調理道具だった。


「包丁は必要か? 野営で使っている短刀があるぞ」


「魔物の素材を解体した短刀で、毎日の食事を作るつもり?」


「使ったあとは洗ってる」


「そういう問題ではないわ」


『お姉さまに賛成ね』


「二人とも、細かいところを気にしすぎじゃないか?」


「あなたが気にしなさすぎるのよ」


 結局、包丁も買うことになった。


 最後に立ち寄ったのは本屋だった。

 家具や食器より、セレスが一番長く迷った場所だ。


『その棚の三段目。右から二冊目と、その隣も取って』


「さっきから術式の本ばかりだな」


『王国で使われている現代術式を知る必要があるもの』


「セレスなら、本を読まなくても分かるんじゃないのか?」


『基礎は分かるわ。でも、術式は時代や土地に合わせて変わるものよ。昔と同じ構成を使い続けている方がおかしいでしょう』


 言われたとおり二冊を取り出す。

 すでに腕の中には、王都の歴史や魔導具について書かれた本が積まれていた。


「最低限にする話じゃなかったのか?」


『二十三冊から七冊まで減らしたのよ』


「最初が多すぎる」


「なら、今日は五冊にしたら?」

 姉が提案する。


「残りは、必要になった時に買えばいいでしょう」


『仕方ないわね。それで我慢するわ』


「我慢する人の数じゃないだろ」


 五冊を選び終えたところで、姉が薄い本を一冊加えた。


「これは?」


「王都で手に入る食材を使った、簡単な家庭料理の本よ」


「頼んでないぞ」


「必要でしょう?」


『私も必要だと思うわ』


「セレスが読むのか?」


『読んで、あなたへ作り方を教えてあげる』


「自分で作れないのに?」


『知識を提供するのが、私の役目でしょう』


「家賃の代わりだったな」


『ようやく理解したみたいね』


 買い物を終える頃には、昼を知らせる鐘が鳴っていた。

 昨日見つけた屋台へ向かい、焼いた腸詰めと豆の煮込みを買う。


「今日は辛くないものよね?」

 姉が念を押す。


「店の人にも確認した。香草で味をつけてるだけだ」


「それなら大丈夫そうね」


「姉さんの分は、辛味のあるソースを抜いてもらった」


『随分と気が利くようになったわね』


「昨日、顔を赤くしてたからな」


「あれは熱かったからだと言ったでしょう」


「今日は熱くないのか?」


「……少し冷ましてから食べるわ」


 職人街の広場にある卓へ座り、腸詰めを一口かじる。

 皮が弾け、肉汁と香草の匂いが口の中へ広がった。


「これも美味いな」


「新しい家の近くに、美味しい店が多くてよかったわね」


「ああ。依頼から戻った日は、ここで買って帰ってもいい」


『料理の本を買ったばかりでしょう』


「毎日作るとは言ってない」


「毎日外で食べるとも言わなくなったわね」

 姉が笑う。


「簡単なものなら作ってみるよ。せっかく台所もあるからな」


「なら、最初に作った時は呼んでね」


「失敗しても食べるのか?」


「弟が初めて作った料理なら、少しくらい失敗していても食べるわよ」


『私は味見ができないから、安心して見ていられるわね』


「セレスにも何か食べさせる方法を考えた方がいいか?」


『今は必要ないわ。でも、覚えておく』


 昼食を終えると、新しい家へ向かった。

 玄関の扉と二階の窓は、すでに補修が終わっている。

 台所の水を引く術式にも、新しい魔石が取りつけられていた。


 門を開け、玄関の前に立つ。

 受け取ったばかりの鍵を差し込んだ。

 金属の噛み合う音がして、鍵が回る。

 自分で選んだ家を、自分の鍵で開ける。

 ただそれだけのことなのに、扉の向こうに見える部屋は、昨日とは違って見えた。


『おかえりなさい、レグルス』

 セレスの声が意識へ響く。


 一瞬だけ、返事が遅れた。


「……ただいま」


 家の中へ入る。

 後ろから続いてきた姉が、扉を閉めながら俺を見る。


「私には何もないの?」


『お姉さまは訪ねてきた側でしょう?』


「随分と厳密なのね」


「おかえり、姉さん」


「どうして家主のあなたに言われるのよ」


 姉が笑いながら、居間へ入っていく。

 まだ家具はなく、声が少しだけ響いた。

 間もなく家具を載せた荷車が到着した。

 寝台を二階へ運び、居間には卓と四脚の椅子を置く。

 書庫には机と簡易寝台。

 装備を保管する部屋の壁際へ、刀掛けが据えられた。


 俺も荷運びを手伝うと、家具職人が驚いたようにこちらを見る。


「その寝台、一人で持ち上げるんですか?」


「階段は狭いから、この方が早いでしょう」


「壁へぶつけないでよ」


 下から姉の声が聞こえる。


「分かってる」


『右へ少し寄せた方がいいわ』


「セレスまで指示するな」


『壁との間に隙間が必要でしょう?』


「持っているのは俺だぞ」


『だから、私は周りを見てあげているのよ』


 言われたとおり右へ寄せると、寝台は壁にも階段にも触れず二階へ運べた。


「今のは助かった」


『素直でよろしい』


 すべての家具を置き終え、職人たちが帰る。


 空だった家の中に、暮らすための形ができていた。

 卓の周囲には四脚の椅子。

 台所の棚には食器と調理道具。

 二階の寝室には寝台があり、書庫の本棚には、今日買ったばかりの本が並んでいる。


「悪くないな」


「昨日より、家らしくなったでしょう?」


「ああ。姉さんが来ても座る場所がある」


「私が来ることを基準にしてくれるのは嬉しいけれど、あなたが暮らしやすいことが一番よ」


「俺には十分だよ」


『まだ終わっていないわ』

 セレスの声に、姉が庭へ目を向ける。


「次は、術式ね」


 姉が持ってきた鞄を卓上へ置いた。

 中には、小さな魔石と、術式を刻むための金属粉、細い筆が入っている。

 俺たちは庭へ移動した。

 石壁に残る術式は、昨日と変わらず幾つもの場所で途切れている。

 姉が古い線へ沿って魔力を流すと、消えかけた構成が淡く浮かび上がった。


「まず、侵入を知らせる術式から直すわ。レグルスは門の近くにある魔石へ、少しずつ魔力を流して」


「分かった」


『本当に少しずつよ』


「二人とも、俺が加減できないと思ってるだろ」


「以前のあなたなら、最初から必要な量を全部流そうとしたでしょう?」


「今はしない」


 門柱に埋め込まれた小さな魔石へ手を触れる。

 魔力を細く伸ばし、古い術式へ流していく。

 庭を囲む石壁に沿って、淡い光が少しずつ広がった。

 命脈へ魔力を巡らせる時と同じように、術式の流れを一つずつ確かめる。

 途中で詰まっている場所があれば、そこで流れを止めた。


「ここから先がつながらない」


「そこは線が欠けているわね」


 姉が石壁へしゃがみ込み、筆へ金属粉をつける。


『そのまま直線でつなげると、音を抑える術式と干渉するわ。一本、内側へ回して』


「こう?」


『もう少し浅く。そう、その位置よ』


 姉が新しい線を描く。

 俺が再び魔力を流すと、今度は光が途切れず先へ進んだ。


「二人とも、よく見ただけで分かるな」


「私は今使われている術式を知っているから」


『私は、元の術式が作られた時代を知っているからよ』


「なら、俺は何をすればいい?」


「今みたいに、魔力の流れを見つけてくれればいいわ。術式の詰まりを探すのは、あなたが一番早いもの」


 姉に言われ、もう一度石壁へ意識を向ける。

 三人で役割を分けながら、途切れた線をつないでいく。

 侵入を知らせる術式。

 音を外へ漏らしにくくする術式。

 庭で使った魔力を、外から感知されにくくする術式。

 最後の線がつながると、石壁全体に光が巡った。

 強く輝いたのは一瞬だけだった。

 すぐに光は石の中へ沈み、庭には元の静けさが戻る。


「終わったのか?」


「基礎部分はね。門を一度開けてみて」


 外へ出て、門を閉じる。

 もう一度開けると、家の中から小さな鐘のような音が響いた。


「これなら、誰かが入れば分かるな」


「今は全員に反応する状態よ。あとで、あなたと私の魔力は除外しておくわ」


『招いた相手まで毎回知らせると、落ち着かないものね』


「セレスは?」


『私は術式の内側にいるから、反応しないわ』


 家の中へ戻る。

 姉が残った材料を片づけようとすると、セレスがそれを止めた。


『もう一つ、やっておきたいことがあるわ』


「まだ何か直すのか?」


『修復ではないわ。この家を、私たちの拠点として登録するの』


「ギルドには、さっき住所を登録したぞ」


『それとは違うわよ』

 セレスが呆れたように答える。


『世界の中に存在する一つの場所として、この家の座標を私の術式へ刻むの』


 俺には、住所との違いがよく分からなかった。

 姉は意味を理解したらしく、卓上に置かれた魔導書へ目を向ける。


「空間座標の固定?」


『近いわ。この家と庭を囲む術式が安定したから、地点として記録できるようになったの』


「そんなことができるの?」


『私を誰だと思っているのかしら』


「古い魔導書」


『レグルス、言い方を考えなさい』


「間違ってないだろ」


『否定はしないけれど』


 俺はセレスの魔導書を、居間の卓の中央へ置いた。

 黒い表紙へ手を触れる。


「何をすればいい?」


『私へ魔力を流して。さっきと同じように、ゆっくりでいいわ』


「分かった」


『それから、この場所を自分の帰る場所として受け入れて』


「もう受け入れてる」


『なら、問題ないわね。地点登録を始めるわ』


 表紙に刻まれた文字が光る。

 俺の手から流れた魔力が、魔導書の中へ吸い込まれていった。

 開いていないはずの頁が、風もないのに動き始める。

 淡い光が卓上へあふれ、床へ落ちた。

 光は細い線となって居間を巡り、台所と装備置き場へ伸びていく。

 階段を上り、二階の部屋を通り抜け、最後に庭を囲む石壁へ重なった。

 家全体が、一つの大きな術式へ変わっていく。

 先ほど姉と直した線へ、見たことのない新しい構成が加わった。


「これは……転移系統の術式に似ているけれど、少し違うわね」


 姉が床へしゃがみ、光を目で追う。


『移動させるための術式ではなく、場所を見失わないための術式よ』


 セレスの声が、家の中全体から聞こえた。

 やがて光が魔導書へ戻っていく。

 最後の一筋が表紙へ吸い込まれると、頁の動きも止まった。


『地点登録、完了。この家は、私とレグルスが確実に見つけられる場所になったわ』


「何か変わったのか?」


『すぐに分かるわ』


 魔導書の上へ、小さな光が集まり始める。

 最初に形作られたのは、足だった。

 次に身体と腕が現れ、最後に髪と顔の輪郭が浮かび上がる。

 卓上に、掌ほどの大きさをしたセレスが立っていた。

 これまで俺の意識の中で見ていたものと、同じ姿だった。

 だが今は、姉も同じ場所を見ている。


「セレス?」

 姉が卓へ顔を近づける。


『ええ。ようやく、こちら側でも姿を見せられるようになったわ』


 セレスは自分の両手を確かめたあと、卓の上を歩き始めた。

 小さな足が木の表面へ触れている。

 だが、足音は聞こえず、卓にも重さは伝わっていない。


「本当に小さいのね」


『意識の中と同じ大きさでしょう?』


「私は、そこで見ることができなかったもの。触ってもいい?」


 姉が人差し指を伸ばす。


『構わないけれど、今は触れられないわよ』


 指先が、セレスの身体を通り抜けた。

 光の輪郭がわずかに揺れる。

 それでも、姿が崩れることはなかった。


「幻影なのね」


『この地点に、私の姿を映しているだけだから。見る相手も、声を聞かせる相手も選べるわ』


「今は触れられないと言ったわね」


 姉が目を細める。


「今は、ということは、いずれ触れられるようになるの?」


『レグルスがもっと先へ進めば、できることも増えるという意味よ』


「俺の力で、セレスに重さがつくのか?」


『もう少し別の言い方があるでしょう』


「でも、触れられるなら重さも必要だろ」


『理屈は間違っていないけれど、情緒が足りないわ』


 姉が口元を押さえて笑う。


「レグルスらしいわね」


『お姉さままで笑わないで』


 セレスは卓の端まで歩くと、そのまま空中へ一歩を踏み出した。

 落ちることなく、見えない階段を下りるように床へ向かう。

 そのまま台所へ入り、壁際の水口を見上げた。


『ここも問題ないわね』


「家の中なら、どこへでも行けるのか?」


『登録した範囲ならね。二階も庭も自由に動けるわ』


 セレスが壁を通り抜け、装備を置く部屋へ入る。


「扉を使わないのか?」


『開けられないのだから、仕方ないでしょう』


「家の中を勝手に通り抜けられるのは、少し落ち着かないな」


『なら、これからは扉を通るふりをしてあげるわ』


「ふりなのか」


 階段へ向かったセレスを追い、俺たちも二階へ上がる。

 書庫へ入ると、セレスは一直線に本棚へ向かった。

 棚の中段に立ち、今日買った本を見回す。


『悪くないわね。まだ随分と空いているけれど』


「五冊買ったばかりだぞ」


『本棚があるのに、空いている方が不自然でしょう』


「埋めるまで買うつもりか?」


『時間をかけて増やせばいいのよ。ここは、これから長く使うのでしょう?』


「ああ。そのつもりだ」

 答えると、セレスが満足そうに頷く。


『なら、急ぐ必要はないわね』


「珍しく聞き分けがいいな」


『私はいつでも聞き分けがいいわよ』


「それは違うと思う」


「私も、レグルスに賛成ね」


『二対一なんて卑怯よ』


「昨日は俺が同じことを言ったぞ」


 セレスは本棚から机へ移り、椅子の背へ腰かけた。

 身体を預けているように見えるが、椅子には触れていない。


「座れるじゃないか」


『座っているように見せているだけよ』


「なら、居間の椅子も一脚いらなかったな」


『いずれ必要になると言ったでしょう』


 新しい住人は、家主である俺より先に家へ馴染み始めていた。

 居間へ戻ると、姉はもう一度床の術式を調べ始めた。


「セレス。この地点登録は、幻影を安定させるためだけのものではないでしょう?」


『さすが、お姉さまね』


「空間座標を固定するだけなら、幻影に使う構成が多すぎるわ」


 セレスは卓上へ戻り、魔導書の表紙に立った。


『今は、私の姿をこの家へ映すために使っている。でも、レグルスの力が上がれば、別の使い方もできるわ』


「別の使い方?」


『どれほど遠くにいても、登録した場所へ帰るための術式よ』


「転移できるのか?」


『今すぐは無理ね。今のあなたでは、この家を登録して、私の幻影を維持するだけで限界よ』


 幻影を維持している間、魔力がわずかに流れ続けている。

 負担になるほどではない。

 だが、長く使えば消費していることは分かる。


『もっと魔力が増えて、空間へ道を通せるようになれば、最初はここへ帰るだけ。その先は、別の場所を登録して行き来することもできるかもしれないわ』


「依頼が終わったら、すぐに家へ帰れるようになるのか」


『空間が乱れていなければね。亀裂の近くや、転移を妨げる術式の中では使えないわ。それに、戦いながら気軽に使えるようなものでもない』


「それでも十分だ。遠くへ行っても、ここへ帰れるなら便利だな」


「随分と簡単に受け入れるのね」

 姉が驚いたように言う。


「セレスができると言うなら、いつかはできるんだろ」


『随分と信用してくれるのね』


「できないことまで、できるとは言わないだろ」


『そうね。できるようになるまで、あなたを鍛えるだけだもの』


「結局、俺次第か」


『最初からそう言っているでしょう』


 姉が光の消えた床へ触れる。


「転移術式というより、帰還術式と呼んだ方が近いのかもしれないわね」


『ええ。どこかへ行くためではなく、帰る場所を定める術式よ』


 家を決めたばかりで、すぐに帰るための術式を登録することになるとは思わなかった。

 今はまだ使えない。

 それでも、依頼で遠くへ向かったあと、この家へ直接戻ってくる自分の姿は想像できた。


「そのうち使えるようにするよ」


『期待しているわ』


 夕方になると、近くの店で豆と肉の煮込み、焼いた腸詰め、パンを買ってきた。

 新しい皿へ料理を盛り、卓上へ並べる。

 姉は椅子へ座り、セレスは空いている一脚の背もたれへ腰かけた。


「本当に、その椅子を使うのね」


『私のために買ったのでしょう?』


「父さんたちが来た時のためでもある」


『その時は、私は卓の上へ移るわ』


「譲るつもりはあるんだな」


『客人を立たせるほど狭量ではないもの』


「セレスも、すっかりこの家の住人ね」

 姉が言う。


『最初から、そのつもりよ。レグルスがどこへ住んでも、私は一緒だもの』


「家賃は知識で払うんだったな」


『ええ。今日の術式だけでも、最初の一年分にはなると思うけれど』


「それは否定できないな」


 煮込みを一口食べる。

 柔らかく煮込まれた豆に、肉の味が染み込んでいる。

 香草の香りも強すぎず、パンにもよく合った。


「この店も美味いな」


「家が決まってから、食べ物の話ばかりしていない?」


「暮らす場所を選ぶなら大事だろ」


『料理の本もあるのだから、明日からは自分で作る日も加えなさい』


「最初は簡単なものからだな」


「私がいる時にしてね」


「失敗しても食べると言ったからか?」


「一人で作って、食べられないものができたら困るでしょう?」


『お姉さまがいれば、味の確認もできるものね』


「二人とも、失敗することを前提にしてないか?」


 三人で話しながら食事を続ける。

 まだ壁には何も飾られていない。

 棚にも空いている場所が多く、卓と椅子にも新しい木の匂いが残っている。

 それでも、今朝まで誰も住んでいなかった家には、すでに灯りと声があった。


「そういえば」

 姉がパンを置く。


「家が決まったこと、父さんたちにも知らせないといけないわね」


「王都へ戻ったことも、俺からはまだ伝えてないな」


「兄さんから、何か言われていたんじゃないの?」


「父さんたちにも、よろしくと言われた」


「それを二日も預かったままなの?」


「王都へ戻ってから、家を探してたからな」


『お母さまにとっては、理由にならなさそうね』


「母さんなら、どうして先に連絡しなかったのか聞くだろうな」


「間違いなく聞くわ。そのあと、帝国で怪我をしていないか、頭から足元まで確認されると思う」


『刀を見せるより先に、服を脱がされそうね』


「母さんなら、本当にやりそうだな」


 帝国での戦いをすべて話せば、心配をかける。

 だが、何も話さなければ、それはそれで怒られるだろう。


「家も決まったし、王都での暮らしが落ち着いたら、一度父さんたちのところへ帰るよ」


「母さん、きっと喜ぶわ」


「父さんと祖父さんには、獅心《コル・レオニス》も見せたい。今の構えも、どう見えるか聞いてみたいんだ」


「結局、二人とは刀の話になるのね」


「姉さんとは術式の話をしただろ。同じようなものだ」


「それを言われると否定できないわね」

 姉が小さく笑う。


「自分の家ができても、領地の屋敷が帰る場所でなくなるわけではないでしょう?」


「ああ」


 昨日までは、家族の家と、自分で選んだ家を別のものとして考えていた。

 今も同じ場所だとは思わない。

 それでも、どちらか一つだけを帰る場所にする必要はなかった。


「今なら、姉さんが寮も別邸も帰る場所だと言った意味が、少し分かる気がする」


「分かるのが一日遅いわよ」


『レグルスにしては早い方でしょう』


「セレスは、どっちの味方なんだ?」


『面白い方よ』


 食事を終える頃には、外は暗くなっていた。

 姉は今夜も別邸へ戻るらしい。

 家の前まで馬車が入れないため、大通りで待たせているという。


「一人で戻れるぞ」


「送ってくれると言う弟を断る理由はないでしょう?」


「俺は、まだ何も言ってないけど」


「送ってくれないの?」


「送るよ」


『お姉さまの勝ちね』


「今日は何度負ければいいんだ?」


 セレスの魔導書を持ち、姉とともに家を出る。

 小さな幻影の姿をしたセレスも、俺たちの横を空中で歩いていた。

 庭を抜け、門を開く。

 セレスが境界を越えようとした瞬間、その姿が淡い光へ変わった。

 光はすぐに消え、いつもの声だけが意識へ残る。


『やっぱり、今の範囲はここまでね』


「家と庭だけか」


『登録した地点から離れれば、幻影を固定できないもの。魔導書を持ち出した時点で、術式も解除されるわ』


「少し慣れないわね」


 姉が、セレスの姿が消えた場所を見る。


「声は聞こえてるだろ」


「ええ。でも、姿があったあとだと、急にいなくなったように感じるわ」


『明日また来れば、いつでも見られるわよ』


「そうするわ」


 職人街の通りを抜け、大通りへ向かう。

 店じまいを始める工房もあれば、夜まで作業を続けている鍛冶場もある。

 金属を打つ音と、食堂から聞こえる声が混じり合っていた。


 大通りへ出たところで、一人の女とすれ違った。

 旅人らしい外套を身につけ、銀色の装飾が施された眼鏡をかけている。

 眼鏡の奥に見えた瞳は、淡い青色だった。

 一瞬だけ、その女がこちらを見たような気がした。


 俺も視線を向ける。

 だが、次の瞬間には、人混みの中に紛れていた。


『今、誰かとすれ違った?』

 セレスが尋ねる。


「何人もいただろ」


『そうではなくて……』

 声が途切れる。


『……いいえ。気のせいみたいね』


「珍しいな。セレスが見失うなんて」


『だから、気のせいだと言ったでしょう』


 大通りに停まっていた馬車まで姉を送り、扉が閉じるのを見届ける。


「明日も来るから、ちゃんと起きていてね」


「家にいるなら、朝から起きてるよ」


「庭で刀を振っていても、呼んだら返事をすること」


「分かった」


「本当に?」


「昨日から、そればかり聞いてないか?」


「あなたには何度でも確認した方がいいのよ」


 姉が笑い、馬車が動き始める。

 クレハルト家の紋章が、夜の通りを遠ざかっていった。

 俺は来た道を戻り、新しい家へ向かう。

 門を開ければ、セレスの姿も戻る。

 今夜から、あの家での暮らしが始まる。

 そう考えていた俺の意識には、先ほどすれ違った女の姿は、もう残っていなかった。


 俺の姿が大通りの人混みへ消えたあと。

 銀色の眼鏡をかけた女が、静かに足を止めた。

 眼鏡の奥にあった淡い青の瞳が消える。

 代わりに現れたのは、深い赤色だった。


『接触なさいますか』

 銀色の眼鏡から、冷静な男の声が聞こえる。


「いいえ。今日は見に来ただけよ」


 女の赤い目が、レグルスの消えた方角へ向けられる。


「魔力の巡りも、身体の使い方も前とは違う。面白い刀まで手に入れたみたいね」


『想定よりも早い成長でしょうか』


「まだ足りない。でも、いい育ち方をしているわ」


 女は再び歩き始める。

 通りを行き交う者たちは、誰一人として彼女へ目を向けない。

 その夜、銀色の眼鏡をかけた赤い目の女が王都にいたことを覚えている者は、どこにもいなかった。

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