ある手紙の物語(前編)
【番外編 前書き】
ここまで物語を読んでくださり、ありがとうございます。
この番外編は、本編とは少し違い、
「一通の手紙」に焦点を当てたお話です。
この郵便局には、たくさんの手紙が届きます。
誰かに伝えたかった言葉、
言えなかった後悔、
ずっと胸にしまっていた想い。
その一つ一つの手紙には、
それぞれの物語があります。
今回の物語は、
十年間書けなかった母親の手紙です。
もしあなたにも、
「今はもう会えないけれど、伝えたい言葉」があるなら、
少しだけこの物語を思い出してもらえたら嬉しいです。
番外編 ある手紙の物語(前編)
その手紙は、閉店間際に届いた。
その日は珍しく、誰も来なかった。
夕方の光が郵便局の窓から差し込み、
古い木のカウンターをオレンジ色に染めている。
時計を見る。
もうすぐ閉める時間だった。
「今日は静かだね」
私がそう言うと、少年は窓際の椅子に座ったまま肩をすくめた。
「こういう日もあるよ」
少年は天井を見上げながら言う。
「みんな、言いたいことはだいたい生きてるうちに言ってるのかも」
「それならいいことじゃない?」
私は笑う。
「そうだね」
そのときだった。
カラン、と小さな音がした。
郵便局の入口の鈴が鳴ったのだ。
振り向くと、一人の女性が立っていた。
年は四十代くらいだろうか。
少しだけ濡れたコートを着ている。
外はいつの間にか小雨が降っていたらしい。
女性はゆっくりと窓口まで歩いてくる。
そして、バッグから一通の封筒を取り出した。
「すみません」
静かな声だった。
「ここで……」
少し言葉を探すようにしてから続ける。
「天国へ手紙を送れると聞いたんですが」
私はうなずく。
「はい」
女性は封筒を見つめていた。
「本当に届くんでしょうか」
その声には、どこか迷いがあった。
私は答える。
「届くかどうかは分かりません」
女性は少し驚いた顔をする。
私は続けた。
「でも」
「想いは、きっと届きます」
しばらく沈黙が流れた。
女性はゆっくりと封筒を差し出す。
私はそれを受け取る。
宛先を見る。
そこには、丁寧な文字でこう書かれていた。
『天国の娘へ』
私は思わず顔を上げた。
女性は静かに言う。
「十年前に亡くなりました」
その言葉は、とても落ち着いていた。
「事故でした」
郵便局の中が静かになる。
女性は続ける。
「でも……」
「実は、ずっと手紙を書けなかったんです」
封筒を見つめながら話す。
「十年間」
「何を書けばいいのか分からなくて」
私は封筒をそっと持つ。
女性は小さく笑った。
「でも今日」
「やっと書けました」
そのとき、少年が立ち上がった。
女性には見えていない。
少年は封筒をじっと見ている。
「これ……」
少年が小さく言う。
「すごく重い手紙だね」
私はうなずく。
女性は続ける。
「娘は、まだ七歳でした」
「とても元気な子で」
女性の目が少し遠くを見る。
「ケーキが好きで」
「イチゴのケーキばっかり食べて」
私は静かに聞いていた。
女性は言う。
「最後に言った言葉が」
そこで、言葉が止まる。
女性は少しだけ笑った。
「“早く帰ってきてね”でした」
その言葉を聞いた瞬間、
郵便局の中の空気が、少しだけ変わった気がした。
少年が静かに言う。
「……そっか」
私は封筒を見つめる。
十年かけて書かれた手紙。
その中には、どんな言葉が入っているのだろう。
女性は言った。
「もし」
「もし届くなら」
「娘に伝えてほしいんです」
その声はとても優しかった。
「ずっと大好きだったって」
夕方の光が少しずつ薄れていく。
少年は封筒を見つめたまま、ぽつりと言った。
「これ、僕が届ける」
私は少年を見る。
「大丈夫?」
少年は小さく笑った。
「うん」
「こういう手紙こそ、ちゃんと届けないと」
そして少年は封筒を受け取る。
「行ってくる」
その瞬間。
少年の姿は、静かに消えた。
郵便局には、雨の音だけが残った。
私はふと考える。
十年間、書けなかった手紙。
その想いは、
本当に天国まで届くのだろうか。




