第八話 少年宛の手紙
前書き
人は、言えなかった言葉をいくつ持っているのでしょうか。
ありがとう。
ごめん。
大好きだった。
たったそれだけの言葉でも、伝えられないまま時間が過ぎてしまうことがあります。
この郵便局には、そんな言葉が届きます。
そして今日もまた、一通の手紙が届きました。
けれどそれは、少しだけ特別な手紙でした。
第八話 少年宛の手紙
机の上に、一通の手紙が置かれている。
白い封筒。
少しだけ古びていて、けれど丁寧に書かれた文字。
そこにはこう書かれていた。
「配達の少年へ」
少年は椅子に座ったまま、その封筒をじっと見つめていた。
郵便局の中は静かだ。
午後の光が窓から差し込み、机の上を柔らかく照らしている。
私はカウンターの奥から、その様子を見ていた。
「……まだ開けないの?」
声をかけると、少年は少しだけこちらを見た。
「うーん」
そして封筒を指で軽く叩く。
「なんか変な感じ」
「変?」
「だってさ」
少年は少し笑った。
「俺、配達する側じゃん」
私は小さく肩をすくめる。
「たまには受け取る側でもいいでしょう?」
少年は封筒を持ち上げて光に透かす。
「誰が書いたんだろ」
「さあ」
本当は知っている。
けれど私は言わなかった。
少年はしばらく考えてから言った。
「でもさ」
「ちょっと怖い」
「どうして?」
「読んだら、なんか変わりそうだから」
私は少し驚いた。
「変わる?」
少年は椅子をくるりと回して窓の外を見る。
青い空が広がっている。
「うん」
「なんとなくだけど」
「これ読んだら」
「今までと同じじゃなくなる気がする」
その言葉に、私は何も言えなかった。
しばらく沈黙が流れる。
やがて少年は大きく息を吐いた。
「……まあいいや」
封を切る。
紙の小さな音が郵便局に響く。
少年は中の便箋を取り出した。
そして読み始める。
最初の一行で、少年の目が少しだけ細くなる。
「……ふーん」
「どう?」
私が聞くと、少年は続きを読みながら言った。
「なんか」
「昔の話みたい」
「昔?」
「うん」
少年は便箋を少し離して眺める。
「俺のこと、結構知ってる」
私は黙っていた。
少年は続きを読む。
紙をめくる音が静かに響く。
やがて少年の手が止まった。
「……あれ」
「どうしたの?」
少年は少し首をかしげた。
「思い出せない」
「何が?」
少年は額に手を当てる。
「ここに書いてあること」
「たぶん本当なんだけど」
「全然覚えてない」
私は息を止める。
少年は困ったように笑った。
「なんかさ」
「変なんだよね」
「変?」
「うん」
少年は机に肘をついた。
「俺、自分のこと」
「結構忘れてる」
その言葉に、胸が少しだけ痛くなる。
少年は続ける。
「名前は覚えてる」
「あと、この郵便局のこと」
「配達のことも」
少し間を置く。
「でも」
「それ以外がぼんやりしてる」
私はゆっくり聞いた。
「前から?」
「いや」
少年は首を振る。
「最近」
「最近?」
「うん」
少年は窓の外を見る。
「配達して帰ってくるとさ」
「なんか」
「少し忘れてる気がする」
私は思わず聞き返した。
「忘れてる?」
「うん」
少年は軽く笑う。
「さっきまで覚えてたこととか」
「思い出すのに時間かかる」
そしてぽつりと言った。
「たぶんさ」
「向こうに近づいてるんだと思う」
私は息をのむ。
「向こう?」
「天国」
少年はあっさり言った。
「配達ってさ」
「向こう行くでしょ」
「そのせいかも」
私は何も言えなかった。
少年は手紙をもう一度見た。
「ここにも書いてある」
「何て?」
「無理して届けすぎって」
少年は少し笑う。
「怒られてる」
私は静かに聞く。
「誰に?」
少年は便箋を見ながら答えた。
「たぶん」
「この郵便局の人」
私は目を伏せる。
少年はさらに読む。
その表情が、少しずつ真面目になっていく。
「……へえ」
「どうしたの?」
少年は便箋から目を上げた。
「俺さ」
「なんで49日過ぎてもここにいるか」
「書いてある」
私は黙る。
少年は読み上げた。
「“あなたには、まだ届けていない手紙がある”」
静かな空気が流れる。
少年は少し首をかしげた。
「そんなのあったっけ」
私はゆっくり言う。
「あるのよ」
少年はこちらを見る。
「どこに?」
私は答えない。
少年は少し笑った。
「まあいいや」
そして便箋を机に置いた。
「でもさ」
「その手紙、たぶん」
「最後の配達だよね」
私は小さくうなずく。
少年は椅子にもたれた。
「そっか」
「だから残ってるのか」
その声はどこか納得したようだった。
私は静かに聞く。
「怖くない?」
少年は少し考える。
「うーん」
それから笑った。
「配達終わるだけでしょ?」
その言葉が、胸に刺さる。
少年は続けた。
「配達人ってさ」
「最後まで届けるのが仕事じゃん」
私は何も言えなかった。
少年は手紙を封筒に戻す。
「まだ読んでないとこあるけど」
「全部は今読まない」
「どうして?」
少年は笑う。
「手紙ってさ」
「読むタイミング大事じゃん」
私は少しだけ笑った。
「本当に配達人ね」
少年は立ち上がる。
「じゃあ」
「今日の配達行ってくる」
そして扉の方へ歩く。
その背中を見ながら、私は思う。
この子はもう。
少しずつ。
向こうへ近づいている。
扉の前で少年が振り返る。
「なに?」
「……ううん」
私は首を振る。
「気をつけて」
少年は軽く手を振った。
「すぐ戻る」
扉が開く。
外の光が郵便局の中に流れ込む。
少年の姿が消える。
静かな空間の中で、私は机の上を見る。
そこには、もう一通の封筒がある。
まだ誰にも見せていない手紙。
その宛名を、私はそっと指でなぞる。
それは。
最後の手紙だった。
少年が出ていったあと、郵便局の中はまた静かになった。
外では夕方の風が吹いている。
カラン、と扉の鈴が少しだけ揺れた。
私は机の前に立ったまま、動けずにいた。
机の上には、さっき少年が読んでいた封筒がある。
「配達の少年へ」
私はそれをそっと手に取った。
もう一度、中の便箋を開く。
そこに書かれている文字を、私はゆっくりと読み返した。
――配達の少年へ。
もしこれを読んでいるなら、きっとあなたはまだここにいるのでしょう。
あなたはきっと、自分のことを少しずつ忘れていると思います。
それは仕方のないことです。
あなたはもう、本当は向こうの人だから。
私は便箋を握る。
この手紙を書いた日のことを思い出す。
夜だった。
郵便局には私一人しかいなかった。
机に向かって、何度もペンを止めながら書いた手紙。
――あなたはきっと、自分がどうしてここにいるのか分からなくなっているでしょう。
けれど理由は一つです。
まだ届けていない手紙があるから。
その手紙は、あなたにしか届けられません。
私は目を閉じる。
窓の外から、遠くの子どもたちの声が聞こえてくる。
少年がこの郵便局に現れた日、つまり再会の日のことを、私は覚えている。
あの日も、こんな静かな午後だった。
カラン。
扉の鈴が鳴った。
振り返ると、そこに少年が立っていた。
びしょ濡れだった。
服も髪も、雨でぐしゃぐしゃだった。
「……ここ、郵便局?」
そう聞いた声は、どこか不思議だった。
私はうなずいた。
「ええ」
「手紙、送れる?」
私は聞いた。
「どこへ?」
少年は少し考えてから言った。
「……天国かな」
そのとき、私はすぐに分かった。
この子は。
間違いなくあの時……十五年前の子だ。
でも少年は気づいていない。
私は聞いた。
「誰に手紙を送るの?」
少年は首をかしげた。
「分かんない」
少し笑う。
「でも」
「なんか、届けないといけない気がする」
私はその言葉を今でも覚えている。
――届けないといけない気がする。
それが、この子の役目になっていたんだ。
便箋の続きを読む。
――あなたはたくさんの手紙を届けました。
言えなかった想い。
後悔。
ありがとう。
さよなら。
たくさんの言葉を、あなたは運びました。
でも。
あなたが一番届けなければいけない手紙は、
まだ残っています。
私は便箋を机に置いた。
胸の奥が静かに痛む。
窓の外を見る。
空はもう夕焼けになっていた。
そのとき。
ふっと空気が揺れた。
「ただいま」
振り向くと、少年が立っていた。
ポケットに手を入れて、いつもの顔で笑っている。
「おかえり」
「今日もちゃんと届けてきた」
少年は椅子に座った。
「なんか最近、向こう混んでる」
私は思わず笑った。
「天国との狭間って混むの?」
「うん」
「今の季節は特に」
少年は机に肘をつく。
「……あ」
「どうしたの?」
少年は少し眉をひそめた。
「今さ」
「何か思い出しかけた」
「思い出した?」
「いや」
少年は首を振る。
「もう消えた」
私は静かに聞いた。
「どんなこと?」
少年は少し考える。
「雨」
「雨?」
「うん」
「すごい雨」
私は息を止めた。
少年は続ける。
「あと」
「公園」
胸が強く鳴る。
少年は額に手を当てた。
「そこまでは思い出せる」
「でも」
「そのあとがない」
私はゆっくり息を吐く。
少年は少し笑った。
「まあいいや」
「思い出せなくても困らないし」
その言葉に、胸が締め付けられる。
少年は椅子をくるくる回す。
「でもさ」
「なに?」
少年は私を見る。
「俺、さ」
少しだけ真面目な顔になる。
「たぶん」
「もうすぐ思い出す気がする」
私は何も言えなかった。
少年は笑う。
「最後の配達のとき」
「全部」
「思い出す気がする」
郵便局の中に、夕日の光が差し込む。
私は机の上の封筒を見た。
まだ少年が読んでいない手紙の続き。
そこには、こう書かれている。
――あなたが届ける最後の手紙は、
あなた自身の物語を終わらせる手紙です。
私はそっと封筒を閉じた。
少年は窓の外を見ている。
「ねぇ」
「なに?」
少年は夕焼けを見ながら言った。
「最後の配達ってさ」
「うん」
「誰に届けるんだろうね」
私は答えなかった。
ただ、静かに思う。
それはきっと。
あなた自身へ届く手紙。
その日が来るまで。
この郵便局は、今日も静かに手紙を待っている。
あとがき
第八話を読んでいただき、ありがとうございました。
この話では、少年の記憶や存在に少しずつ変化が現れ始めます。
それは彼が天国に近づいているからなのか、それとも別の理由なのか。
そして、郵便局には「ある手紙」が届きます。
それが誰に宛てられたものなのか。
その意味が分かるのは、もう少し先の話になります。
もしよければ、次の話も読んでいただけたら嬉しいです。




