2. 筆跡は、嘘をつかない
朝が来て、閣下はひとりになった。
北の客間の窓から中庭を見下ろす。横切っていく背中が一つしかない。わたしは息を止めてそれを数えた。一つ。何度見ても、一つである。
雪の上に足跡も一列しか残らない。
昨夜あれだけの人数で見たものが、朝には無かったことになっている。夢を見たのだと言われれば、信じてしまいそうな朝だった。ただ、玄関の燭台だけが、まだ多いままである。
昼、書斎へ通された。三年間と同じ、四半刻の面会である。
「よく来てくれた」
昼の閣下はそう言って椅子を勧める。三年、聞いてきた声だ。低くて、平らで、少し遅い。
「……昨夜のことを、覚えておいでですか?」
「昨夜、とは?」
閣下は、わたしの顔をまっすぐに見た。それから、本当に思い出そうとする人の目で、窓のほうへ視線を移す。
「すまない。何かあっただろうか?」
わたしは膝の上で手を握った。
この人は嘘をついていない。嘘をつくとき人は喋りすぎるものだが、この人は喋らなかった。ただ、無いのである。昨夜が、この人の中に無い。
「いいえ。何も」
嘘をついたのは、わたしのほうだった。
人がひとり、まるごと空白を抱えて、いつもと同じ顔でお茶を勧めてくる。その空白の縁を指でなぞるようなことは、どうしてもできない。
「北の道は、荒れていなかったか」
「三日かかりました。例年より一日、多くかかっております」
「そうか。……雪囲いの藁が、去年より薄いという話を聞いた」
「父の請負です。今年は麦のほうへ人を回しました」
「なるほど」
それきりである。
四半刻が過ぎ、鐘が鳴る。三年間、わたしはこの鐘で立ち上がってきた。今日もそうする。
――怖い、と思ったのは廊下へ出てからである。
いま、わたしはこの人と、三年でいちばん普通の話をした。荒れた道と、藁の厚み。三十四回、こういう話をして帰ってきた。そして今日、この人の中には昨夜が無い。
それを三年間、わたしは「話が続かない人」として記録してきたのではないか。
日が落ちる。
書斎の絨毯は、暖炉の右手前が一箇所、丸く焦げている。焦げた羊毛の匂いがまだ残っていた。
誰も、それを片づけていない。この家の使用人は、昨夜から何ひとつ手をつけられずにいるらしい。
わたしは羊皮紙を二枚並べ、婚約の証書を開く。末尾の一文を指した。
「これを、書き写していただけますか?」
「北の名において、これを約す――だな」
右の閣下がすぐに羽根ペンを取る。左の閣下は、少し遅れて手を伸ばした。手袋をしたままである。
「閣下。手袋は」
「このままで構わない」
「書きにくくはありませんか?」
「……寒いのでね」
書斎は暖炉が焚かれている。わたしはそれを言わなかった。
言わずに、書かせる。指摘すれば、相手はそこを直してしまう。父の家で、荷を検めるときに教わったことである。おかしなところは、見つけた時点では黙っておく。
二枚が並ぶ。
羊皮紙に落ちたインクの匂いが立った。乾ききらない字は、光の角度で少しだけ艶を持つ。わたしは燭台を近づけ、片方ずつ、証書の隣に置いてみる。
右の閣下の字は、証書と重なった。撥ねの角度、「の」の返しの深さ、行の終わりで少し上がる癖。三年ぶんの手紙で見慣れた字である。
左の閣下の字は、右上がりが崩れていた。返しが浅い。震えではなく、力の入り方そのものが違う。
「――右の閣下が、証書とそろっています」
自分の声が、思ったより硬く出る。
左の閣下は羽根ペンを置いた。何も言わない。
「ご不服はありませんか?」
「ない」
「弁明もなさらないのですか?」
「言うことがない」
フェリツィアが背後で息を吐いたのが分かる。
わたしは、その「言うことがない」に苛立ちを覚える。三年、この人はそう言い続けてきた。何を訊いても、なんでもない、言うことがない。そして今夜、それは自分の命を差し出すのと同じ意味になっている。
わたしは手帳を開き、三年ぶんの手紙の束を膝に載せた。三十四通。文面はどれも三行で、行を数えるほどのものではない。
――そう思って、初めて紙のほうを見る。
日付がそろっていた。毎月十四日の面会のあと、必ず三日以内に届いている。三十四通、ひとつも遅れがない。
北の冬は、道が消える。春は雪解けで橋が落ちる。それでも三日以内に届いていた。届けるためには、書く日を決めておかねばならない。書く日を決めるというのは、忘れないでいるということである。
三行しか書かない人が、三年、一度も遅れなかった。
わたしはそれに、今日まで気づかずにいたのである。
「フェリツィア。この束を、日付の順に並べてくださいますか?」
「もう並んでおりますわ。お嬢様が、いつもそうしておいでですもの」
――そうだった。並べたのはわたしである。並べておいて、中身しか見ていない。
「お嬢様。何をお探しで?」
「探してはいません。……見落としを、数えているだけです」
「あなたに会う日は」
右の閣下が言った。
「前の晩、眠れなかった」
顔を上げる。彼はまっすぐこちらを見ていた。怯えも照れもなく、事実を読み上げるように言う。
「……三年、一度も伺いませんでした」
「訊かれなかったからだ」
「訊けば、お答えになったのですか?」
「……分からない」
わたしは、その答えを書き留めなかった。書けば、それも判定の材料になってしまう。
「お答えにならなかったと思います」
「そうかもしれない」
「三年、そうでしたから」
そこで初めて、彼は目を伏せた。
わたしは何と書けばよいのか分からず、手帳を開いたまま持て余す。
こういうとき、書く欄がない。日付、場所、時間、話題、所見。三年前のわたしが決めた様式には、こんなことを書く場所がない。
「気味が悪うございます」
部屋を出てから、フェリツィアが言った。
「お上手すぎます。あちらの方」
「上手なほうが偽物だと、決まっているわけではありません」
「では、決まっていることが何かございますか?」
答えられない。
振り返ると、書斎の扉が細く開いている。左の閣下が羽根ペンを筆架へ戻すところだった。
手袋の指先に、赤がにじんでいる。
◇
〈面会記録〉第三十四項
日付 今年 十月十四日
場所 冬館 北の客間
時間 四半刻
話題 北の道の雪囲い。以上
所見 三十四回目。本日、破棄状の下書きを始めた。閣下はいつもどおり、お茶が運ばれるまで何もおっしゃらない。わたくしが黙れば、四半刻ずっと黙っておいでになる。試したことがあるので確かである。〈情愛の不在〉と書くのが最も穏当であろう。恨みは残さぬこと。父にも、この方にも。




