1. 同じ顔が、二つ
馬車の窓に、内側から霜が降りている。
わたしは指の背でそれを擦った。爪の先まで感覚がない。北の道は、日が落ちるとすぐに凍る。窓を拭いても、拭いたそばから息が白く曇り、外はどのみち何も見えなかった。
三日、この揺れの中にいる。
「お嬢様。お手が」
向かいでフェリツィアが膝掛けを寄こす。七年仕えている侍女は、わたしより先にわたしの手の冷えに気づく人である。
「平気です」
「三年、そうおっしゃっておいでですわ」
懐に書状が一通ある。婚約破棄の申し出。文面はひと月かけて清書した。
〈情愛の不在〉。そう書いた自分の字を、わたしはよく覚えている。この一行を書くのに、羽根ペンを三度置いた。置くたびに、これは恨みではない、事実の記載だと自分に言い聞かせた覚えがある。
それから手帳。表紙の擦り切れた、掌ほどの帳面。三年ぶんの〈面会記録〉が三十四項ある。最後の一枚だけ白紙で残してあるのは、理由が自分でも言えない。
「本当に、お出しになりますか?」
「出します」
「三年でございますよ」
「三年だから、出すのです」
窓の外を、冬館の門灯が流れていく。
十一月十四日。三年前の今日、わたしはこの家と婚約した。毎月十四日に四半刻、それを三十四回。今日は数えれば三十五回目にあたる。
――最後の面会が、破棄の日になる。ちょうどよい取り合わせではないか。
馬車の中で、口上を三度さらった。畳んで、恨まず、書類として終わらせる。父の家にも、この家にも、傷を残さない。それがわたしの三年の結論である。
門から玄関まで、雪を踏んで三分ほど。外套の裾に凍った雪の玉が下がり、歩くたびに脛を打つ。門番が走って知らせに行き、家令が出迎え、外套を預かる。そのあいだ、わたしは自分の息が白いことばかり見ていた。
玄関の大広間は、燭台が多すぎる。
こんなに灯した部屋を、この家で見たことがない。三年、わたしが通されたのはいつも北の客間で、そこは蝋燭が二本と決まっていた。明るすぎる部屋というのは、それだけで何かの知らせに見える。
北の壁ぎわに、下り階段の扉がある。開いていた。冬のあいだは閉めておくものだと、三年前に誰かが言っていた気がする。
そして、正面に。
「ミリアム。よく来てくれた」
「ミリアム。……よく、来てくれた」
声が、二つ重なる。
同じ顔が、二つ、こちらを見ていた。
息の吸い方を忘れる。喉の奥が急に狭くなって、指先の冷たさだけが、やけにはっきりと戻ってくる。凍った雪の玉が裾で鳴った。それだけが、わたしがまだこの部屋に立っている証拠である。
わたしから見て右と、左。背丈も、肩幅も、髪の分け方も同じである。名を呼ぶ前に一拍置く癖まで同じだった。右の閣下のほうが、その一拍がわずかに短い。目だけが先にわたしを見ている。
左の閣下は、外套の雪を払おうとして、手を止めていた。
「……閣下」
わたしの喉から出たのは、それだけである。
三日かけて温めてきた口上が、どこにもない。畳むための言葉は、相手が一人であることを前提にしてできている。
「王立鑑定院、シュタイナーと申します」
広間の隅から、灰色の外套の男が進み出た。卓に水盤を置き、二人の指先を順に沈める。三度、覗く。三度目のあと、彼は静かに水を捨てた。
「二人とも、ヴァルベルクの当主にございます」
「――どういう意味ですか?」
「言葉どおりにございます。血も、魔力紋も、覚えておいでのことも、寸分違いませぬ。鑑定は別人であるか否かを見る術にございますれば、別人でないお二方には、何も申せませぬ」
「では、どちらかが偽っているのでは?」
「偽りますには、まず別人でなければなりませぬ」
シュタイナーは懐から折本を出し、読み上げる。
「〈名の帳〉、表の条は五つ。一の条、北の名を負う者は、一人。二の条、当主は、迷うてはならぬ。迷いは帳が預かる。預けし者の口は、帳が閉ざす。預かりの終わるは、預かりし物みずから、迷いのもとを口にせしとき」
誰も動かない。
「三の条、一の条の破れしとき、立会人、十日のうちに名を指せ。指されざる者は、帳より消ゆ。四の条、立会人は、当主と血を分かたず、帳に名を書き添えし者に限る」
そこで男は、いったん息を継いだ。
「五の条、立会人『指せぬ』と申さば、帳は猶予を垂れる。申し立ては、十日のあいだに立てし判定のうち、なお一人を指して残るもの、一つとして無き証を要す。猶予を垂れしとき、立会人の名を北の名の下に書き加え、その者もまた北の名を負う」
「――お待ちください。いまの、最後のところは」
「立会人が『指せぬ』と申し立てれば、期限は延びます。ただし、ただ申せばよいのではございませぬ。十日のあいだにお立てになった判定が、どれ一つとして一人を指したまま残っておらぬこと。その証を出さねばなりませぬ」
「証、とは」
「立てた判定と、それが崩れた次第の、記録にございましょう」
わたしは、懐の手帳の重さを思い出した。
「そして、猶予を得たときは」
「あなた様のお名前が、北の名の下に書き加わります。――以後、あなた様もまた、北の名を負われる。一の条は、北の名を負う者は一人、と申します」
「……わたくしも、消えうるということですか?」
「さようにございます」
誰も、そこには何も足さない。
「――なお、裏にもう一条ございますが、帳の間に入れるのは当主だけにございます。裏の条は、当主しか読めませぬ」
男の声には、抑揚というものがまるでない。凍った道の上を、荷車が同じ速さで進んでいくような読み方をする。
「一の条は、今宵の日没に破れましてございます。以後、破れたままにございます。帳は日の出とともに開き、日没とともに閉じます。開いておりますあいだだけ、帳はお二方を一つに押さえられる。――繕いではございませぬ。押さえでございます。破れは続いておりますゆえ、三の条の十日は、今宵から数えます」
「押さえる、とは?」
「日が昇れば、閣下はお一人になられます。日が落ちれば、お二人に。……昼の閣下は、夜のことを何ひとつ覚えておいでではありませぬ。お身体も、今宵の姿で止まります」
「――お一人になるとは、どちらかが消えるということですか?」
「いいえ。畳まれるのでございます。畳まれた閣下は、右でも左でもございませぬ」
シュタイナーは折本を閉じ、それから少しだけ声を落とした。
「――なお、帳が押さえられますのは、帳がその余白に、物を預かっておりますあいだだけにございます。二の条の預かりが終わりましたなら、破れておりましても、帳はもう押さえられませぬ。……何を預かっておるのかは、わたくしには読めませぬ。裏の条にございましょう」
わたしは、意味の分からない話を、意味の分からないまま覚えた。帳面を出す暇はない。
覚えるという癖だけは、こういうときにも働く。父の家で帳面を見て育つと、分からない数でも、まず写しておく手が動くようになる。
できることをする。二人に名を呼ばせ、柱の傷に背を並べさせた。声の高さ、語尾の落ち方、背丈。
「ミリアム」
「ミリアム」
一つも違わない。
柱の傷は、二人とも同じ高さで額に触れる。声は、目を閉じれば区別がつかない。
わたしは早々に、この判定を諦めた。
「お嬢様。お声は、いかがでした?」
「同じです。高さも、語尾の落ち方も」
「お背丈は」
「柱の傷に、お二方とも同じ高さで額が触れました」
フェリツィアが、燭台のほうを見たまま黙る。
「……では、目で見て分かることは」
「ひとつもありません」
言葉にしてしまうと、たった三行で終わる。三行で終わることを確かめるために、わたしは北の雪を三日かけて越えてきたのである。
「立会人の資格を持つお方は」
シュタイナーがわたしを見る。
「婚約の証書に連署なさった、あなた様おひとりにございます」
懐の書状の角が、指に当たっていた。
「……もし、婚約を破棄したら?」
「連署が消えます。立会人がなくなれば、三の条により、お二方とも帳から消えましてございましょう」
三年かけて畳もうとしたものが、畳めない。
畳めないどころではない。畳もうとした瞬間に、二人死ぬ。わたしが三年かけて用意した紙は、いま、この部屋でいちばん危険なものになっている。
「お嬢様」
フェリツィアが小声で言う。わたしは首を振った。
「わたしは、この人を終わらせに来たのです」
言ってしまってから、自分の声の薄さに気づく。
この人、と口が言う。二人いるのに、わたしの舌は一人ぶんの言い方をした。三年、この家に向かって使ってきた言葉が、まだ手のうちに残っている。
シュタイナーは一礼して、扉のほうへ歩いていった。敷居のところで振り返る。
「十日目の日没までに。――なお、指されなかったほうは、痛みはございません」
扉が閉まる。
広間には、蝋の焼ける音だけが残った。わたしは懐の書状を、指の腹で一度だけなでる。角が少し柔らかくなっている。三日、握りすぎたらしい。
◇
〈面会記録〉第一項
日付 三年前 十一月十四日
場所 冬館 玄関の間
時間 四半刻
話題 なし。ご挨拶のみ
所見 お言葉は八度。うち六度が、こちらの問いへの短いお答え。わたくしの顔を見てお話しになったのは一度きり。ご興味がないのだと思われる。父は良い縁だと申すけれど、この方はわたくしを見ておいでではない。四半刻は、思っていたよりずっと長い。次からは何か持って参ろう。帰りに手帳を買った。




