第九章 中立地帯の千人
黒田先輩が結界回廊の入口を押さえた、という報せが入ったのは、養生計画が回り始めてから二週間ほど経った頃だった。
帝国は通行料を設定した。金品、奴隷、または「部族長の臣従」。臣従というのはただの言葉で、実態は身分を奪われた人間の流通だった。
マルゲンは、地図に拳を置いた。
「これでは民の半分が、隷属する」
「マルゲンさん」
「貴公、何か手はあるか」
俺は机の上の配車表を見直した。
最大のボトルネックは結界回廊の入口だった。けれどボトルネックは、必ずしも正面突破するものではない。現場では、ボトルネックを避けて回り道を作るほうが、最終的に早いことが多い。
俺は地図の上で、結界回廊から五十キロ南西の山道に指を置いた。
「中立地帯を抜けます」
「あそこは、旧王国軍と帝国軍がにらみ合う戦線の真ん中ぞ」
「だからこそ、誰も難民の列を撃てません。撃てば中立を破ったことになる」
マルゲンの目の動きが、ふと止まった。
「貴公、戦をするのか」
「戦をするんじゃないです。通り抜けるだけです」
俺は地図の上で指を二本動かした。
「一日目に、千人。二日目に、また千人。一日ずつずらしながら、淡々と渡る。誰も武器を持たない。武器を持たないことが、唯一の武器になります」
マルゲンは、しばらく沈黙してから、ゆっくり首を振った。
驚きの首振りではなく、納得の首振りだった。
翌朝、千人の難民が動き出した。
俺の配車表に従い、列は四つに分かれていた。先頭に老人と子ども、次に妊婦と病人、その次に荷物を持った成人、最後尾に元戦闘員。各列の間に、養生用の毛布で巻いた竹竿を渡し、隣の列に荷物が崩れ込まないようにした。
俺は隊列の中央を歩いた。
右にエリィ。左にマルゲン。後ろに、かつての戦友らしき騎士たちが付き従った。
午後、戦線にさしかかった。
左手の丘の上に、旧王国軍。右手の丘の上に、帝国軍。馬の蹄が地面を時々叩き、弓兵の弦の音が、風に乗って薄く届く。距離があるのに、弦の音だけが、生き物のように飛んできた。
空気が、ぴんと張った。
張った空気の中で、隊列の足音だけが、整然と、続いた。先頭の老人が杖を地面につく音。後ろで子どもが小さく転びかけて持ち直す音。妊婦が立ち止まって息を整える音。誰も、声を出さなかった。声を出さないことが、そのまま、武器を持たないことの宣言だった。
俺は隊列の中央で、後ろを振り返った。千人が、誰も走らずに、誰も立ち止まらずに、ただ歩いていた。歩く速度を作っていたのは、隊列の真ん中あたりにいる、年配の女性たちだった。彼女たちは、腰の高さで小さく手を振り合い、互いの歩幅を、ささやかに調整していた。配車表に書いていない動きが、現場で、勝手に、生まれていた。
俺はその動きを、配車表の余白に、目で書きとめた。
張りの中を、俺たちはただ歩いた。
半時ほど歩いた頃、馬蹄の音が右の丘の麓から、こちらへ近づいてきた。
黒い鎧、赤いマント。先頭の馬から、聞き覚えのある声が上がった。
「おーう、おーう。なんだお前ぇ、こっちでも横もちかよ」
黒田先輩は、馬上から俺を見下ろし、せせら笑った。
俺は答えなかった。隊列を止めず、ゆっくり歩を進めた。エリィが、横で息を整えた。
黒田先輩は、馬を駆って、俺の真横まで来た。馬の口の白い泡が、俺の作業着の袖口に飛んだ。湿った重さがあった。馬の鼻息は、湿った草と、酸っぱい胃液の匂いを、混ぜて運んできた。馬の側腹で、汗が筋になり、鞍の下から鞍の縁へ、ゆっくり流れていた。馬は、長く走らされていた。
黒田先輩は、馬から滑り降り、俺の胸ぐらを掴んだ。
革手袋の指の関節が、鎖骨の上の薄い皮膚を押した。
手袋の革は、まだ新しかった。先輩は、こちらの世界で、新しい革手袋を、あつらえてもらったらしい。革の油の匂いが、間近で、強かった。
「いい気になってんじゃねえぞ、ノロマ」
その瞬間、周囲の空気が変わった。
マルゲンが、剣の柄に手をかけた。後ろの騎士たちの腰の鞘が、わずかに鳴った。隊列の千人が、ほぼ同時に、こちらへ目を向けた。武器を抜かない、けれど抜く準備はあった、という気配が、俺の背中側で、巨大な毛布のように立ち上がった。
その気配は、剣呑な気配ではなかった。
子どもをひとり、囲って守る、家族の気配だった。守る相手が、たまたま俺だっただけだ。彼らは、ここまで運ばれてきたあいだに、誰かを守ることを、互いの呼吸で覚えてしまった人々だった。
俺の胸ぐらを掴む先輩の指の関節が、その背中側の気配に押されてわずかに緩んだ。先輩は、それに気づいたかどうかは、わからない。けれど、彼の目の動きがふっと視線の奥へ、引っ込んだ。
帝国軍の兵士が、自分たちの丘の上で、思わず一歩、後ろへ下がったのが見えた。
黒田先輩の手は、鎖骨から外れた。
「ちっ。覚えてろよ」
黒田先輩は、唾を吐きかけてくることまではしなかった。馬に飛び乗り、土埃を立てて去った。
馬の蹄がまた丘の麓を駆けて、薄くなっていった。
帝国軍の若い兵士が、列の通過を見送りながら、隣の兵士に呟くのが、距離越しに、なぜか聞こえた。
あの准将と、あの男は、別の世界の住人だ。
その言葉は、その日のうちに、帝国軍の中でゆっくりと広がっていった。
夜、野営地で焚火を囲んだとき、エリィが、低い声で言った。
「養生さま」
「うん」
「さっき、武器、誰も抜かなかったね」
「うん。抜かなくて、よかった」
「私ね、抜かないっていうのが、こんなに、強いことだって、知らなかった」
俺は火の中の、燃えている薪の節を、見ていた。節はゆっくり白くなり、黒くなり、消えていった。
「うん。俺も、こっちに来るまで、知らなかった」




