第十章 老議員の溜息
帝国議会の地下、薄暗い回廊で、ガレシウス公は独り、書類の山に向かっていた。
地下の空気は、いつも乾いていた。乾いているのに、肺の奥に重く溜まる。何百年分かの羊皮紙の油と、燭台の蝋と、煉瓦の隙間から染み出す石灰の匂い。窓のない部屋で、その三種の匂いだけが入れ替わり立ち替わり鼻に届く。彼はもう外の空気を吸う時間が、一日のうちにどれくらい残っているか、数えるのをやめていた。
卓上には、二つの報告書が並んでいた。
ひとつは、黒田准将が中立地帯で千人の隊列に手を出せず、引き下がった顛末。もうひとつは、その隊列を率いた「養生師ミサキ」なる男の存在に関する記述。
報告書の文字は、写字生の手によるきれいな筆跡だった。彼は紙の端を指で挟み、紙を撫でるように、もう一度最初から読み直した。文字の上を指がなぞるたびに、若い頃の自分が、別の紙の上で似た動作をしていた記憶がふっと肩のあたりに戻ってきた。
ガレシウスは、老眼鏡を外し、目頭を指で押さえた。
目の奥のじんとした感覚は、最近では昼を過ぎた頃から始まる。指の腹で押すと、視野の隅に薄い緑色の残像が浮き、それからゆっくり消える。歳を取った、というより、歳が彼の中に住みついた、と言うほうが近かった。
彼の机の引き出しの奥には、配車表の写しが眠っていた。寝返った帝国軍の若い兵士が、軍の機密を抜いて持ち帰った一枚。
彼はその写しを、もう三日、夜ごと取り出して眺めていた。眺めて、しまい、また眺めた。
それは、一人の人間が組む計算ではなかった。
いや、組むことは出来る。だが、これは「動き始める」ように出来ている。読んだ者の手を、自然に動かすように設計されている。神官の祈祷文に近かった。けれど祈りのような不在ではなく、現実の重力で書かれていた。
彼は、配車表の左上の欄を、もう一度指でなぞった。区間名、責任者、最大人数、ボトルネック、養生材の現地調達分。──若い頃、運送ギルドの下働きをしていた時に、年長の御者から殴られながら覚えた帳票の書式と、骨組みは同じだった。書式が同じだから、彼にはそれが現場の言葉でできていることが、すぐにわかった。
現場の言葉。
彼はその一言を、頭の中でもう何度も繰り返していた。
現場の言葉でできた書類が、議会の卓に乗ることは、滅多にない。卓に乗るのは、たいてい、議事の言葉でできた書類だった。議事の言葉は、響きが立派で、現実とのあいだに、いつもひと呼吸の距離があった。
現場の言葉で書かれた書類は、その距離を持っていなかった。
持っていないことが、彼の胸を軽くけれど深く、刺した。
わたしも、若い頃、現場の言葉で生きていた。
いつのまにか、議事の言葉のほうが、舌に馴染んでしまっていた。
彼は、左の手のひらを開いてみた。皺の奥に、四十年以上前のタコの跡が、薄くまだ残っていた。荷車の取手の形そのままの、楕円形のタコの跡。指の根元に近いほうが厚く、指先に近いほうが薄い。重い荷物を引いた者の掌だ。羊皮紙ばかり触る掌では、こうはならない。
彼は、自分の掌を、しばらく見ていた。
「──取りこぼしたな」
声に出してから、彼は自分の声に驚いた。
地下の部屋では、独り言は反響する。反響した自分の声が、上の世代の議員たちの声と区別がつかないことが、時々ある。今日のは、明らかに自分の声だった。声は若くなかった。けれど、声の角度だけは、若い頃の自分の角度に、戻っていた。
彼は深く溜息をついた。
溜息は、燭台の炎を、わずかに揺らした。揺れた炎の影が、卓上の二つの報告書のあいだを、行ったり来たりした。
黒田、という名は、彼にとって最初は他人事の音だった。けれど、その音は、ここ数週間、書類の上で何度も繰り返されるうちに、軋みのある記号として彼の頭に残るようになった。
報告書には、流民の隊列の中に女子供が含まれていたこと、そのうち何割かを「間引き」の対象として黒田准将が指定したこと、現場の若い兵士たちが、夜ごと脱走しはじめていることが、淡々と書かれていた。
淡々と、書かれていた。
淡々と書かれていることが、彼には、いちばん耐えがたかった。
書く者が現場の言葉を持っていないと、痛みは、淡々と書かれてしまう。
彼は、ペンを取った。羽根ペンの軸の端は、長年握りすぎて、すこし曲がっていた。曲がりは、彼の指の癖の形だった。
書斎の隅で、伝令役の若者が、息を殺して立っていた。彼の家で何代か前から仕えている家系の若者だった。伝令の所作は、子どもの頃から仕込まれている。靴音を立てない、扉を完全には閉めない、合図に振り向くまでに半呼吸置く。彼はその若者の存在を、視界の端で確かめた。
ガレシウスは、密書を一通したためた。送り先は、旧王国の生き残りの議会。
書面には、ただ短くこうあった。
『帝国議会内部、良心派一同。ヨウジョウ計画の主に、一度面会を望む。
黒田准将の暴挙に、我々もまた、耐えかねている』
書き終えてから、彼は、さらに小さな字で、欄外に一行を加えた。
『余の若き日、運送ギルドにて荷車を曳きし日々の名にかけて』
その一行だけは、彼自身の現場の言葉で書かれていた。書いた瞬間に、彼の指の根元のタコが軽く疼いた。
彼は、伝令を呼び寄せた。
「これを、丘を二つ越えた向こうへ。明日の夜明け前に届けてくれ」
「は」
「途中、検問にあったときは、これを呑み込め」
若者は、深く頷いた。
書状を懐に納めた若者の足音は、回廊の途中で、ほとんど消えた。
密書は、信頼できる伝令の手で、翌朝、丘を二つ越えて運ばれた。
風は、すでに季節を一段、進めていた。
地下の小部屋に、また独りで残されたガレシウスは、机の上に老眼鏡を置き、指の根元のタコをゆっくり撫でた。
四十年以上ぶりに、その場所を、自分の指で意識していた。




