第十一章 人質と剽窃
密書を見せられたとき、俺は、一拍、答えに迷った。
羊皮紙のような薄い紙の表面には、墨の濃淡が二段階あった。本文はしっかりした濃さで書かれていたが、欄外の一行だけが、わずかに薄かった。書き手が、その一行を最後に、別の心持ちで足したことが、墨の濃さの違いから読み取れた。
『余の若き日、運送ギルドにて荷車を曳きし日々の名にかけて』
俺はその一行を、二度読んだ。
一度目は、文字として読んだ。二度目は、書き手の息遣いとして読んだ。
書き手が、欄外に身分も役職も書かず、ただ若い頃の自分を保証として差し出している、という一行だった。世のどんな印章よりも、その一行のほうが、俺には、信用できそうな気がした。
けれど、罠の可能性は、確かにあった。マルゲンも厳しい顔で頷いた。
「貴公、それを信じるか」
「信じます」
「根拠は」
「現場の言葉です」
マルゲンは、俺の目を、しばらく見ていた。
俺の目の中に、彼が探していた答えが、あったのか、なかったのか、それは俺にもわからなかった。
しかし、無視はできなかった。帝国の中に味方を作れれば、結界回廊の封鎖を、内側から解ける可能性があった。
誰を使者に立てるか。
マルゲンは自分が行く、と言った。俺も、自分が行く、と申し出た。どちらも適任ではなかった。マルゲンは責任者として動けないし、俺は配車表の中央計算を止められない。
そこで、長い沈黙があった。
沈黙のあいだ、俺は天幕の中の、燭台の蝋の音を、ずっと聞いていた。蝋が垂れて、皿に当たる、ぴち、という小さな音。何度かそれが続いた頃、外の人気のしない場所から、鳥の声がした。聞いたことのない鳥の声だった。けれど、夜になれば鳴きやむ種類だ、ということは、声の調子で、なんとなく、わかった。
手を上げたのは、エリィだった。
「私が行きます」
彼女の声に、迷いはなかった。
迷いがない、ということが、俺にはむしろ心配だった。迷いのない人間は、迷うべき場面で、迷わない癖がつく。それは、現場では、危ない癖だ。
「エリィは──」
「養生さま。私は、元領主の娘です。身分の保証もある。それに、女のほうが、警戒されない」
「でも」
「私もう逃げないって決めたから」
彼女の言い方には、芝居がかったところは、なかった。むしろ、自分に言い聞かせる種類の言い方だった。長く震えていた人間が、震えなくなった瞬間に、自分でその音を確かめている、そういう声だった。
俺は、口の中で、いくつかの言葉を作って、潰した。
行くな、と言うのは違う。
行くな、と言うのは、彼女がここまで歩いてきた距離を、なかったことにする言い方だった。
俺は、彼女が、難民キャンプの最初の夜、火のそばで肩を震わせていた姿を、覚えている。あの夜、彼女のサンダルの紐は、片方ほどけていた。彼女は、ほどけたままずっと足元を見ていた。歩く道がなかったからだ。歩こうとして、紐の切れ目が彼女に道を許さなかったからだ。
いま、彼女は、紐を巻き直した足で、自分の道を、自分で選ぼうとしている。
その道に、俺が「待って」と言うことは、たぶんもう出来なかった。
彼女の目は、震えてはいなかった。震えのあった場所に、別のものが、光のように、立っていた。決意、という言葉では足りない、もっと、地味で堅いもの。たとえばそれは、家を一棟、運び出した者だけが持つ、運び終えた後の手のひらの落ち着き、に近かった。
「エリィ、護衛は誰でも選んでいい」
「ええ」
「マルゲンさんが選んだ若騎士、二人。これだけは譲ってもらえますか」
「うん。ありがとう」
彼女は頷いた。
頷きの角度が、深かった。
その深さは、彼女が何かをたぶん覚悟している角度だった。
送り出すとき、俺は彼女のサンダルの紐を、もう一度養生テープで巻き直した。
本当はもう彼女は新しい革紐を持っていたから、テープで巻く必要は、なかった。それでも、俺は、巻いた。
指の動きの中に、どうしても捨てられない何かが、あった。
現場で、毛布を畳む時の手の運びと、同じ手の運びだった。誰かを送り出す時、現場の人間は、紐を結び直す。結び直しながら、自分の側の何かに、結び目を、つけ直す。
彼女は、くすぐったそうに、笑った。
「養生さま、神経質すぎ」
「……すみません」
「行ってきます」
彼女は、護衛の若騎士二人と、北東へ消えた。
彼女が消えた方角の地平線には、低い雲が、刷毛で薄く塗ったように広がっていた。
雲の縁に、二つの月のうちの白い方が、半分隠れていた。残りの半分は、雲の上で、色を失っていた。
俺はしばらくその場から、動けなかった。
動けない自分を、隣でマルゲンが、声をかけずに、ただ、立って待ってくれていた。
マルゲンは、左頬の傷に何度か軽く指を当てた。
彼の左頬の傷は、誰かを送り出した時にできた傷だ、と聞いていた。
今日、彼は、誰かを送り出すたびに、その傷を確かめる人なのだろう、と俺は思った。
二日後、悪い報せが届いた。
エリィの一行は、帝国の良心派と接触する直前で、別働隊に襲われた。護衛は殺され、エリィは捕らえられた。
黒田先輩の手の者だった。
その夜、剣の切っ先で押し付けられたような乱暴な手書きが、俺の天幕に届いた。
『あの女を返してほしけりゃ、俺の前で土下座しろ』
マルゲンは怒りで震えていた。
「貴公、私が一人で踏み込む。貴公は計画の要だ」
「マルゲンさん」
「動いてはならぬ」
俺は、首を振った。
「これは、俺の問題です」
「貴公──」
「先輩の問題でも、ある。俺が行きます」
マルゲンは何度も止めた。俺は頷かなかった。
夜、俺は一人で天幕を出た。
胸ポケットの日報のコピーは、もう端がよれていた。布の繊維に、墨の匂いと汗の匂いが混じっていた。その紙はもう地図と呼んで差し支えなかった。
俺は、北の闇へ歩き出した。
月は二つとも、薄雲の向こうで、にじんでいた。
エリィの一行は、帝国の良心派と接触する直前で、別働隊に襲われた。護衛は殺され、エリィは捕らえられた。
黒田先輩の手の者だった。
その夜、剣の切っ先で押し付けられたような乱暴な手書きが、俺の天幕に届いた。
『あの女を返してほしけりゃ、俺の前で土下座しろ』
マルゲンは怒りで震えていた。
「貴公、私が一人で踏み込む。貴公は計画の要だ」
「マルゲンさん」
「動いてはならぬ」
俺は、首を振った。
「これは、俺の問題です」
「貴公──」
「先輩の問題でも、ある。俺が行きます」
マルゲンは何度も止めた。俺は頷かなかった。
夜、俺は一人で天幕を出た。
胸ポケットの日報のコピーは、もう端がよれていた。布の繊維に、墨の匂いと汗の匂いが混じっていた。その紙はもう地図と呼んで差し支えなかった。
俺は、北の闇へ歩き出した。
月は二つとも、薄雲の向こうで、にじんでいた。




