第十二章 奪われた夜
帝国軍の前線野営地は、丘陵地帯にあった。
俺は単身で、武器も持たずに歩み寄った。
歩哨に見つかった。手を上げて、ミサキ・レイ、と名乗った。歩哨の顔色が変わった。すぐに縛られ、大きな天幕に連れていかれた。
その天幕の真ん中で、黒田先輩はだらしなく椅子に座っていた。卓の上には、酒の入った金杯。その横で、エリィは縄で椅子に縛られていた。頬に、丸い痣があった。
俺は黒田先輩の前に膝をついた。
「先輩。彼女を返してください」
「お、来たか。ノロマ」
黒田先輩は、笑った。
歯が、暗かった。
「土下座、しろって書いただろ」
「はい」
俺は、石の床に額をつけた。
石は冷たかった。でも、祖母の家の縁側ほど冷たくはなかった。あの縁側のほうが、まだ慈悲があった。
「なあ、ミサキ」
「はい」
「お前さ、なんでそんなに『誠実』なフリができんの」
「フリ、じゃ、ないです」
「あぁ?」
黒田先輩は、立ち上がり、俺の頭を踏みつけた。
革靴の底のゴムが、髪と頭皮の間にざらりとめり込んだ。
「お前みたいな万年ヒラがよ、世界を救うとか、軍師とか、笑わせるなよ。お前は、横もちが分相応なんだよ」
俺は答えなかった。
答えるためには、もう少しだけ、自分の声を信じる時間が要った。
「だからな、ミサキ」
「はい」
「俺はお前の『養生計画』を、丸ごと頂く」
黒田先輩は、俺の頭から足を離し、卓の上に紙束を投げた。
俺の配車表の写しだった。誰の手で抜かれたのか、紙の端に、煙草の焦げ跡が残っていた。
俺は息を、止めた。
「これがあれば、結界回廊への流入は俺が支配できる。お前の組んだ動線、お前の組んだ運搬計画、ぜんぶ俺の名前で発表する」
「先輩」
「あぁ?」
「あれは、誰かの権力のためのものじゃ、ありません」
「ふん」
黒田先輩の鼻の鳴る音は、低かった。
「世の中、結局は権力なんだよ。お前みたいな雑魚にはわからねえだろうけどな」
俺は顔を上げた。
その瞬間、エリィが叫んだ。
「養生さま、逃げて!」
黒田先輩の合図で、兵士たちが俺を取り囲んだ。
ここから先のことを、俺はあまり整理して覚えていない。
覚えているのは、棒で殴られた音と、肋骨の下の方で、何かが小さく折れた感覚。蹴られた脇腹に、酒の臭いを嗅ぎながら膝をついた瞬間。視界の右半分が、まず暗くなったこと。腕の骨に、ひびが入った時の、自分の声がよく聞こえなかったこと。
暴力は不思議と痛みでは記憶されない。
記憶されるのは、別のものだった。蹴り上げる兵士の、靴の革の継ぎ目。棒を振るう男の、息の合間の咳。床の石の継ぎ目に詰まった、誰かの血液の乾いた跡。それから、エリィが縛られた椅子の、椅子の脚の、磨かれていない木の繊維。誰かを縛るために用意された椅子は、たいてい、磨かれていない。磨かれていない木の繊維は、毛布の繊維にすこし似ていた。似ていることが、その瞬間に、なぜか頭の片隅でふっと悲しかった。
悲しい、と思ったことを、俺は俺の中の別の俺が、軽く笑った。
こんな時に何を考えてるんだ、と。
別の俺は笑いながら、配車表のあるページを思い浮かべていた。中立地帯通過、千人。終わったセクター。次のセクター。次の次のセクター。──最後に、現場主任たちに、引き継ぎが、できているかどうか。
できている、はずだった。
頭の中で、それを確認しながら、俺はまたどこかを蹴られた。
外で、誰かが叫んでいた。マルゲンの声だった。俺の指示を聞かず、彼は追ってきていた。
乱戦の音。剣と剣の打ち合う、薄い金属の悲鳴。
俺は引きずられるように天幕の外に出された。マルゲンが駆け込んできた。彼の肩から、血が、噴き出ていた。
別の騎士が、エリィの縄を切りに走った。けれど、彼女はすでに別の天幕の奥へ移されていた。
俺たちは、命からがら、森に逃げ込んだ。
夜の森は、湿って、暗くて、葉の落ちる音だけがしていた。
マルゲンと俺は、地面に倒れた。
「すまぬ、貴公」
マルゲンが、息を切らせながら呟いた。
「私の、判断ミスだ」
「いえ。俺の判断ミスです」
俺はゆっくりと目を閉じた。
目を閉じた瞼の裏で、最初に浮かんだのは、エリィの叫び声でも、黒田先輩の歯でもなかった。
介護施設の廊下の、リノリウムの床の、薄い灰色の模様だった。
なぜそれが浮かんだのか、自分でもわからなかった。
ただ、その模様の上を、誰かの靴底が、歩いて通り過ぎていく音が、薄く、聞こえた気がした。
遠くで、誰かが泣いている気がした。
その夜、意識の境目で、夢を見た。
介護施設のベッドに、祖母が起き上がっていた。
夢の中の祖母は、俺の顔を覚えていた。
「怜」
「ばあちゃん」
「おばあちゃんね、もう疲れちゃった」
祖母は、にっこり笑った。
久しぶりの、ばあちゃんの笑顔だった。
俺の知っている、若い頃のばあちゃんの笑顔ではなかった。最近のばあちゃんの皺の深い笑顔。けれど、目だけは、若い頃のばあちゃんに、戻っていた。目の奥の、湿った光だけが、若い頃のままだった。
「ねえ、怜」
「うん」
「ちゃんと、養生しなさい。物も、人も、自分自身もね」
俺は、何か答えようとした。
声は、出なかった。
声を出そうとして、喉の奥がふいに塩水に変わった気がした。
祖母は、俺の声を待たなかった。
すうっと目を閉じた。
まばたきよりも、すこしだけ長い、目の閉じ方だった。
俺は、跳ね起きた。
森の中だった。風が冷たかった。マルゲンが、心配そうに俺を覗き込んでいた。
俺は、地面に手をついた。
頬を、温いものが伝った。
俺は知っていた。今夜、祖母が、あちらでいってしまったことを。胸の中の、もう何年も吹いていた冷たい風が、いっぺんに、抜けた。
抜けた風の代わりに、胸の真ん中に、ぽっかり、何もない場所が、できた。
その何もない場所は、しかし痛くはなかった。
ただ、空いていた。
空いていることが、わかる空き方だった。
計画も、配車表も、難民も、エリィも、世界の養生も、一瞬すべてが遠くなった。
俺は声を殺して、泣いた。
マルゲンは、何も言わず、俺の肩に、片手を置いた。
彼の手は、剣を握ってきた手だった。重さがあった。重さが、俺の肩を、下に押した。
下に押される肩は、押されることでようやく地面に近い場所まで、降りてきた。
月は、雲に隠れていた。




