第十三章 日報の余白
翌日、俺たちは旧王国残党のキャンプに戻った。
マルゲンは、肩の傷の治癒にしばらく床に就いた。俺は右目の腫れが引かず、左腕は吊り、肋骨の下のひびのせいで、深く息が吸えなかった。配車表は、まだ大半が黒田先輩の手にあった。帝国は俺の名前で「養生計画」を発表し、結界回廊の通行料を釣り上げ、隷属の数も増えた。
計画は、剽窃された。
計画の名前は、嘲弄の道具になった。
俺は天幕の中で、しばらく動けなかった。
動けない、というのは、肋骨のせいではなかった。動こうとしても、動く意味の根が、見つからなかった。
粥を運んできた女性が、目を伏せて言った。
「養生さま、すみません。皆、不安がってます」
「……」
「養生さまがいなければ、私たちはまた混乱します」
俺は頷いた。けれど、何もできなかった。
頭の中は、祖母のことでいっぱいだった。自分の養生もできなかった俺。
あの夢の中で、ばあちゃんは、笑って、目を閉じた。
あの目を閉じる動作が、俺の頭の中で何度も反復された。
反復するたびに、ばあちゃんの目元の皺が、すこしずつ薄くなる気がした。
忘れていく、ということだった。
俺はばあちゃんを、忘れたくなかった。けれど、夢の中の映像は、どんなにしっかりと見ようとしても、見るたびに、輪郭が、削られた。
夢の中の祖母の顔を、俺は、どんどん覚えていなくなった。
その不安が、肋骨の痛みよりずっと深かった。
夜、蝋燭を一本だけ灯し、胸ポケットから日報のコピーの束を取り出した。
持ってきていたのは、最近の三十日分だけだった。よれた紙の端を一枚ずつ伸ばし、膝の上に並べた。
紙の縁の繊維が、指先に、すこし引っかかった。引っかかった繊維は、現代日本の現場で、何度も毛布に擦れた繊維だった。匂いを嗅ぐと、毛布の繊維と汗の匂いと、墨のかすかな匂いがした。
ある日。
『晴れ。マンション四階。冷蔵庫一人で運搬。膝、痛む。黒田先輩、指示なし。養生:完了』
ある日。
『雨。古い民家。桐箪笥搬出。雨で延期申し出るも、依頼者が拒否。床養生を二重にして対応。養生:完了』
ある日。
『曇り。アパート二階から戸建て。子どものいる家。子どもが走り回る。家具を予定外の順序で運ぶ。子どもに当たらないよう動線変更。養生:完了』
ある日。
『晴れ。一人作業。先輩は休み。客先に「一人で大丈夫か」と心配される。問題ないと答える。養生:完了』
ある日。
『晴れ。ばあちゃんの見舞い。ばあちゃん、俺のこと、忘れてる。手だけ、握る。』
その日報には、最後の一行がなかった。
俺は当時、書かずに机に置いた。書く資格がない、と思ったのだ。
いまその空白を見ると不思議と書かなかった一行こそが、俺の本心だった気がした。
養生:完了。
あの日、俺は、ばあちゃんを養生できなかった。
その不在の一行を、頬の温い涙が、二度ほど濡らした。
涙が、紙の繊維に染み込んでいくのを、俺はしばらく見ていた。
紙が、涙を吸う音は、現場で、養生テープが粘着面同士を合わせる音に、似ていた。
ぴち、と、小さな音。
その音を、俺は何度も心の中で、聞き直した。
俺は紙の束を、膝の上で握った。
ばあちゃんの言葉が、頭の中に蘇った。
いいかい、怜。引越しはね、運ぶことじゃないんだよ。傷つけないことなんだよ。
ばあちゃんの声は、夢の中の声よりもずっとはっきりしていた。
夢の中の祖母の顔は、削れていったのに、声だけは、削れずに、残っていた。
声というのは、顔よりずっと長持ちする。
声は、俺の指の動きの中に、染み込んでいるからだった。
毛布を畳む手の運び。
隅当てを当てる指の角度。
養生テープを貼る掌の押し方。
その動きの中に、ばあちゃんの声が、設計図として、入っていた。
動きが続く限り、声は、消えない。
声が、設計図のままで、毎日、新しく書き直される。
俺は、そのことにようやく気づいた。
俺は、運んでいたんじゃない。
守っていたんだ。
毛布で物を、隅当てで角を、テープで思い出を。ぜんぶ、傷つけないために。
そして、世界も、同じだ。
古い大地から、新しい大地へ、世界そのものが移る。
その時、世界全体を養生しなければ、人も、物も、思い出も、傷ついて散る。
黒田先輩は、運んでいる。
俺は、傷つけないようにしている。
二人は、別の仕事をしているのだ。
俺は深く息を吸い込み、肋骨の下の鋭い痛みに、軽く笑った。
痛みが、生きている合図に、ようやく感じられた。
俺は紙束を仕舞い、跛をひいて、マルゲンの天幕に向かった。
マルゲンは、薄目を開けて、俺を見た。
「貴公、起きてよいのか」
「マルゲンさん」
「うむ」
「世界を、養生します」
マルゲンは、瞬きを一度した。
驚きではなかった。確認だった。
「承知した。貴公の指示を待つ」
その夜、雲が抜けた。
月は二つとも、白と銀の光で地上を照らしていた。
俺は天幕に戻り、新しい紙の束に向かい、配車表を一から作り直し始めた。
今度のは、結界回廊を、使わない計画だった。
毛布で物を、隅当てで角を、テープで思い出を。ぜんぶ、傷つけないために。
そして、世界も、同じだ。
古い大地から、新しい大地へ、世界そのものが移る。
その時、世界全体を養生しなければ、人も、物も、思い出も、傷ついて散る。
黒田先輩は、運んでいる。
俺は、傷つけないようにしている。
二人は、別の仕事をしているのだ。
俺は深く息を吸い込み、肋骨の下の鋭い痛みに、軽く笑った。
痛みが、生きている合図に、ようやく感じられた。
俺は紙束を仕舞い、跛をひいて、マルゲンの天幕に向かった。
マルゲンは、薄目を開けて、俺を見た。
「貴公、起きてよいのか」
「マルゲンさん」
「うむ」
「世界を、養生します」
マルゲンは、瞬きを一度した。
驚きではなかった。確認だった。
「承知した。貴公の指示を待つ」
その夜、雲が抜けた。
月は二つとも、白と銀の光で地上を照らしていた。
俺は天幕に戻り、新しい紙の束に向かい、配車表を一から作り直し始めた。
今度のは、結界回廊を、使わない計画だった。




