第十四章 世界を養生する
翌朝、キャンプに号令を出した。
集まったのは、怪我人を含めて、二千を超えていた。マルゲンは、杖をついて隣に立ってくれた。
その朝の風は、冷たくはなかったが、湿っていた。湿った風は、声を遠くまで届かせるのに向いていない。けれど、俺はもう声の届く距離を心配しなくてよかった。聞こうとして集まった人間の耳は、こちらの声を、必要なだけ拾ってくれる。
俺は人々の顔を、ひとり、ひとり、見た。
昨日まで配車表の数字でしか把握していなかった人々が、いま目の前に立っていた。年配の女性の口元の皺。若い母親の手の甲の小さな擦り傷。子どもの、まだ栄養の足りていない頬の薄さ。老人の、震える指で杖を握る、その指の関節の白さ。
それぞれが、これまで配車表の中で、ただの「人数」として、数字に丸められていた。
今朝、俺はその丸めをやめることにした。
数字に丸めて運ぶのは、運ぶことだ。
数字に丸めずに運ぶのが、養生だ。
俺は、かすれた声で、できるだけ短く話した。
「俺たちは、結界回廊を使いません」
ざわめきが広がった。
ざわめきの中に、まず不安。次に、戸惑い。それから、すこしずつ別の音が混じり始めた。それは、息を止めて聞こうとする人間の集団の、音にならない音だった。空気がすこし薄くなる。
「結界回廊は、黒田准将の手にあります。そこを通れば、半分の人が隷属する。そういう取引はもうしません」
「しかし──」
声を上げたのは、年配の元騎士だった。鎧は脱いでいる。代わりに、肩に毛布を一枚かけていた。
「結界回廊以外の道を、神官の書物は、認めていない」
「はい」
「それを使うことは、神々への背反になりはしないか」
彼の声には、敵意はなかった。あったのは、信仰のある人間の、まっすぐな心配だった。
俺は頷いた。
「俺は神様のことは、わかりません」
「うむ」
「でも、ばあちゃんの言葉なら、知っています」
「ばあちゃん」
「俺の祖母は、引越し屋の娘でした」
元騎士の眉がすこし上がった。
「祖母は、こう言いました。引越しはね、運ぶことじゃない。傷つけないことなんだよ」
ざわめきが、止まった。
俺は、続けた。
「結界回廊を使えば、運ぶことはできます。半分の人を、犠牲にして」
「はい」
「俺は、運びたくありません。傷つけずに、渡したい」
元騎士は、しばらく沈黙していた。それから深く頷いた。
「神官の書物にない道でも、傷つけぬ道なら、神々は、咎めぬ。──私は、貴公の道を、信じる」
その一言で、ざわめきの種類が、変わった。
「結界回廊を使わずに、新しい大地に渡ります」
誰も意味がわからない、という沈黙が、もう一拍、広がった。
俺は、マルゲンが手配してくれた羊皮紙の地図を、地面に広げた。
風で、地図の端が、めくれた。
マルゲンが、右の端を、靴の踵で軽く押さえてくれた。彼の靴の踵は、長く現場を歩いた者の踵だった。革の縁の擦り具合で、それが、わかった。
大陸の地図。
古い大地と、新しい大地。
そのあいだの「亀裂」。
「亀裂は、神官の言うところの結界回廊の元となる場所です。けれど、亀裂そのものは、ずっとそこにあります。古い大地と新しい大地は、極端に薄い『境目』で繋がっている。そこに、移動の刻限の前後、世界そのものの揺れが、走る」
「揺れ」
「家も、街も、人も、物も、ぜんぶ崩れる規模の揺れです。神官の方々が祈祷する『大移動』とは、その揺れを意味しているはずです」
神官たちが、何人か、互いに顔を見合わせた。彼らは、自分たちの儀式の言葉が、はじめて現場の言葉に翻訳された瞬間に、立ち会っていた。
俺は地図に、印を百八個つけていった。
ペン先が、地図の上で、こつ、こつ、と、軽い音を立てた。
配車表の各セクターの、最大ボトルネック地点。
「この百八ヶ所が、揺れの極大点です。ここに、養生材を敷き詰める」
「養生材、というのは──」
「毛布、藁、苔、繊維、岩、何でも。揺れを受け止めるものを、現地で集められるだけ、集めて、敷く」
集まった人々の中から、誰かがぽつりとつぶやいた。
うちの家畜小屋の藁をぜんぶ出していい。
別の誰かが、続けた。
うちには、紡ぎかけの繊維が、納屋一杯ある。
また別の誰かが、続けた。
うちは、苔を採る仕事だ。あの斜面の苔、好きなだけ。
言葉が、口から、口へ、伝わった。
誰も、計算の言葉でしゃべっていなかった。みんな、現場の言葉だった。
「それで、揺れが、止まりますか」
「止まりません。受け止めるだけです」
止めようとしないこと、というのは、俺の引越しの仕事の、いちばんの根の部分だった。
地震を止めることはできない。けれど、家具を倒さないことは、できる。
倒さない、ではなく、倒れたとしても、傷つけない。
養生というのは、抗う技術ではなく、受け止める技術だった。
俺は、もう一本、線を引いた。
「揺れが受け止められれば、人々は揺れの少ない地点に集まり、そこから安全に新しい大地へ渡れます。回廊を一点に集中させない。大陸全体に、百八の『小回廊』を作ります」
「神官の定めた書には、そのような話は……」
「現場のやり方ですよ」
俺は、できるだけ、低い声でそう言った。
誰も、何も言わなかった。
マルゲンが、片膝をついた。
「貴公の指示に従う。我ら旧王国残党、すべて貴公の足元に」
止めようとした。
止める前に、若い騎士が膝をつき、年配の女が膝をつき、子どもが、老人が、隊列の端から端まで、二千人以上が、地面に膝をついた。
膝が地面に当たる音は、ばらばらに鳴った。けれど、ばらばらに鳴った音が不思議とひとつの音に、聞こえた。
俺は、何も言えなかった。
ただ、頭を下げ返した。
返す頭の角度の中に、祖母の手の温度がふっと戻ってきた。
頭を下げながら、俺は心の中で、ばあちゃんに、報告した。
ばあちゃんようやく世界も、養生していいですか。
返事はもちろんなかった。
返事はなかったのに、頷きの音だけが、頭の奥で、確かに聞こえた気がした。




