第八章 先輩、軍属となる
その頃、東の駐屯地で、黒田先輩は鎧に着替えていた。
帝国の駐屯地では、捕虜にせよ流民にせよ、まず武器を持たせる気のある者は地下牢に、武器を持たせる気のない者は柵の外に、と仕分けられていた。黒田先輩は、その仕分けの境界線を、自分の声の大きさで動かした男だった。
大陸の人間にとって、彼の振る舞いは、最初は単なる異物だった。声が大きく、仕草が雑で、目線が高く、笑い方が下品。けれど、その雑さは、酒場で受けた。誰もが緊張している時代に、緊張を笑い飛ばす男は時々必要とされる。
「俺の世界じゃ、こんなもの、子どもでも知ってる」
黒田先輩は、酒場の卓上に、革袋から取り出した黒い粉を盛った。硝石、硫黄、木炭。比率はかなり怪しかったが、それでもこの世界には存在しなかったらしい黒い粉に、酔った男たちは目を見張った。
彼の指先はわずかに震えていた。
震えは、酒のせいではなかった。新しい場所で、新しい権力を、初めて手に入れる人間の指の震えだった。
ふだんの彼なら、その震えを、舌打ちで隠した。けれど今夜は、隠さなかった。隠さなくても、誰にも見破られないからだ。
「点火してみせよう」
黒田先輩は、皿の上に粉を一抓みのせ、火種を落とした。粉は、明るい火を一瞬だけ吐き、黒煙を残して消えた。
火が立ち上った瞬間、酒場の空気がわずかに薄くなった。男たちは、息を呑んだ。誰かが、ゴブレットを取り落とした。陶器が床に当たって、乾いた音を立て、割れた。
黒田先輩は、その音を、耳の端で聞いた。
聞きながら、口の端を、釣り上げた。
駐屯地の指揮官は、目を細めた。何かを見抜くというより、何かを得たという顔だった。
数日後、黒田先輩は准将の称号を授かった。
部下を百人預けられ、馬を一頭与えられ、専用の天幕を持った。准将、という称号は、本来この世界では、もっと厳粛な手続きで与えられるものだった。それを駐屯地長が、独断で授けた。背景には、帝国本部の混乱があった。本部の貴族たちは、結界回廊周辺の流民問題に、頭を抱えていた。火薬という外来の技術は、たまたまの解決策に見えた。
黒田先輩は、天幕の中で酒をあおり、椅子の上で爪を切っていた。
爪切りは、彼が日本から持ち込んだものだった。鋼の質が、こちらの刃物とは違う、と本人は得意げに見せて回った。実際に違いがあったのかどうかは、誰も検証できなかった。
「もっと丁寧に酌をしねえか、ボケ」
「ひいっ、申し訳ありません」
「まったくよ。下界の人間ってのは、雑なんだよな」
黒田先輩の口から「下界」という単語が出てきたのは、その夜が最初だった。彼の中で、自分が「上界」の人間に切り替わったのは、たぶんその粉に火を点けた瞬間だった。
切り替わりは、本人の意識ではなかった。意識の下でゆっくり湿った布が裏返るように、起きた。表側は、これまでと同じだった。けれど裏側では、彼の中の、いちばん幼い部分が、はじめて誰かを見下ろせる場所に立っていた。
彼は、子どもの頃、家庭の中で、長く、見下ろされる側だった。
その記憶は、酒場の卓の下にずっとしゃがんでいた。
卓上で人々が彼に注ぐ視線が、しゃがんでいた記憶を、卓上まで、引き上げた。
翌朝、黒田先輩は指揮官に進言した。
「東の街道に流民が押し寄せてやす。このままじゃ補給線が詰まる。間引きしましょう」
「間引き、とは」
「弱いやつから、消す。簡単な話でさあ」
指揮官は、わずかに眉を顰めた。けれど反対しなかった。次の日、難民の列に、黒い鎧の兵士たちが乗り込んだ。
離れた丘の上から、黒田先輩は煙草を吸いながらそれを見下ろしていた。眼下では悲鳴が、距離のせいで、薄い線にまで細められて聞こえた。本人にとって、それは現実というより、遠くで誰かが立てる音だった。
「いいねぇ。これが本当の、整理ってもんだろ」
風が、黒田先輩の襟元を撫でた。風は、煙草の煙を、丘の下のほうへ、運んだ。煙の行く先を、彼は目で追わなかった。煙の行く先を見ない癖は、彼が日本の現場で、ゴミを分別しないままトラックに乗せていた頃の癖と、同じだった。
彼の傍らで、若い兵士が一人、唇を噛んでいた。
その兵士の名はアグといった。
歳は二十前。生家は南の小作農で、五人兄弟の三番目。家族のうち二人を、流民の混乱の中で失っていた。黒田先輩がここに来る前、彼はその喪失を、誰にも語ったことがなかった。
いま、彼は、唇を噛みながら、丘の下の音を、聞いていた。
悲鳴の中に、彼の妹の声に、似た声が、ひとつ、あった気がした。
たぶん、気のせいだった。
気のせいでも、その音は、彼の唇の内側を、ひと噛み、ふた噛み、深くした。
いずれ、彼は黒田先輩を見限る男だ。
そのことを、彼の唇の傷の深さは、すでに、知っていた。
帝国の老議員ガレシウス公は、書類の山に向かい合い、深く溜息をついていた。
黒田、という名前は、彼にとって最初は他人事の音だった。けれど、その音は、ここ数週間、書類の上で何度も繰り返されるうちに、軋みのある記号として彼の頭に残るようになった。
ガレシウスは、若い頃、各地の運送ギルドで下働きをしていた。配車表というものを、彼は知っていた。だから、別系統の情報網から流れてきた「ヨウジョウ計画」の写しを見たときに、その美しさを、独りで眺めていた。
あれを取りこぼしたのは、誤りだった、と彼は呟いた。
窓の外で、新月が二つ、薄く昇り始めていた。




