第七章 百八の地点
翌朝、俺はキャンプの片隅に、布を四方に張っただけの「現場事務所」を作った。
現場事務所、と心の中で呼んでみると、奇妙に落ち着いた。所長も部下もいない。ただ俺と、紙の束と、墨のように黒い液体が入った壺と、羽根のペンが数本。日本のホームセンターで売っているなら、千円もしない道具一式だった。
各地から運搬経験者が集まった。十二人。
元軍の輜重兵、元商隊の隊長、元荷馬車の御者、元行商人。歳もばらばらで、顔立ちもまちまち、訛りも違う。共通していたのは、掌の真ん中の古いタコと、目の奥の落ち着きだった。何かを長く運んできた人間の目は、似ている。
俺は彼らの前で頭を下げた。
「俺は、引越し作業員です。皆さんのほうが、この世界のことには詳しい。教えてください」
彼らは、最初きょとんとした。それから、互いに顔を見合わせた。
そのあと、年長と思しき元輜重兵が、ひと呼吸おいて頷いた。
「何が知りたい、ミサキ殿」
「全部です。各地の距離。使える道。使えない道。一日に進める距離。馬車の積載量。水場の場所。橋の幅。峠の傾斜。冬の風向き。雨の多い月。──ぜんぶ、です」
彼らは、答えはじめた。
最初に口を開いたのは、元輜重兵のヴォルだった。歳は六十手前。右手の薬指の先が、第一関節から欠けていた。
「軍の輜重隊の頃、北の街道で、一日に進めた距離は十里」
「馬車の積載は」
「馬二頭立てで、二十石。雨の翌日は、半分」
「橋の幅は」
「中央橋、八歩。北橋、五歩。東橋、三歩」
俺は彼の数字を、聞こえた順に書き取った。書いていると、横から元商隊の隊長のラスが、口を挟んだ。
「ミサキ殿。中央橋は、夏に板を二枚替えた。今は九歩だ。八歩のままで計算すると、二頭立てが詰まる」
「九歩で計算しなおします」
「あと、東橋は、雪が降るともう渡れん。冬は迂回路を使う。迂回は二日増える」
元荷馬車の御者の老人、コロが、頷いた。
「迂回路の途中、ガネトの泉。あそこは水が硬い。馬が腹を壊す。あの水を飲ませた馬は、二日寝込む」
「飲ませない経路は」
「西から回って、ハーリの井戸。ただし、井戸の番人に通行料」
俺は紙の隅に、料金交渉の備考欄を、新しく書き足した。書きながら、現場の人間にしか知り得ない数字が、自分の手元に溜まっていく感触を、味わった。それは、配車表という様式の上で、はじめて意味を持つ知識だった。書式の升目が、彼らの掌のタコの記憶を、文字に置き換えていった。
元行商人のひとり、女性のサヴァが、口の端で笑った。
「ミサキ殿。あんた、書きながら、書いた数字を、頭の中で組み直してるね」
「えっ」
「目の動きが、違う。ここを書いてるとき、別のところを見てる」
俺は頷いた。否定しなかった。
書きながら、俺の頭の中では、数字が地図の上を歩き始めていた。北の街道を一日十里。新しい大地までの距離を逆算。途中で水場が三、橋が四、峠が二。そのうちの一つは雪で塞がる。塞がる前に通すべき隊列の人数。塞がってから残る隊列の代替路。代替路で必要な追加日数と、その日数分の食糧。食糧の重量。重量を分配する馬車の追加台数。追加台数を出すために、別のセクターから引き抜く馬の頭数。引き抜いたあと、そのセクターで補う徒歩搬送の人員。
頭の中の地図は、紙の上の地図よりずっと立体的だった。
俺は書いた。羊皮紙に、現代日本の作業日報の書式を当てはめながら、聞き取った数字を当て込んでいった。日付の代わりに、季節の指標を入れた。現場名の代わりに、移動の区間名を入れた。作業内容の代わりに、運搬する人数と物資の種類を入れた。ボトルネックの欄には、橋・峠・川渡りを、養生材の欄には、現地で調達できる素材を書き込んだ。
書式は、何も変わっていなかった。
規模だけが、桁違いに大きくなっていた。
三日三晩、ほとんど寝なかった。
エリィが粥を運んできた。粥は穀物と乾し肉を細かくしたもので、塩のすこし強い味がした。匙を入れるたびに湯気が立ち、鼻の奥が開く。俺は片手で匙を動かしながら、もう片方の手でペンを動かした。
夜半、ペン先が紙の上ですこし滲みはじめた。墨壺の墨が、薄くなっていた。エリィが、新しい墨をすってくれた。墨をする音は、ゆっくりした、規則的な、誰かの寝息に近い音だった。その音のあいだ、俺の手は、すこしだけ動きを緩めることができた。
眠気は、来なかった。
来ない代わりに、視界の隅で、燭台の炎の影がたまに二重に見えた。二重に見える影を、俺は、片方ずつ、目で追って、ひとつに重ね直した。重ね直す動作で、頭の奥の集中が、辛うじて、保たれた。
四日目の朝、最初の配車表が、形になった。
大陸全土を、移動の区間で百八のセクターに分けた。
区間ごとに、人数、物資、馬車、人員、ボトルネック、養生材を割り出した。各セクターに「現場主任」を一人立てる前提で、引き継ぎの帳票も整えた。
百八という数は、最初の段取りで自然と出てきた。気を抜いて切り上げると、たぶんもう少し丸い数字になる。けれど、現場の事情を一つ一つ拾うと、どうしても百八に落ちた。マルゲンに見せたとき、彼は何度かその数を口の中で繰り返し、それから「神官の祈祷の数珠の珠は、百八だ」と短く言った。偶然ではないかもしれぬ、と言いかけて、彼は途中で言葉を切った。
俺はその偶然を、深追いしないことに決めた。深追いしても、現場の役には立たない。
マルゲンは紙の束を撫で何度か自分の左頬の傷に触れた。
「貴公の世界では、これを誰が組むのだ」
「配車係、という人が」
「それは、神官か」
「いえ、サラリーマンです」
「サラリーマン」
「会社員、です」
マルゲンは、複数回、頷いてから、よく分からない、という顔をした。それから、よく分からないことを了解した、という顔に切り替えた。
「貴公の組んだこれを、議会に通す。名は、何とつける」
「名前、ですか」
「人を動かす計画には、名が要る」
俺は、数秒、迷った。
迷ったあげく、口から出てきたのは、聞き慣れすぎた言葉だった。
「養生計画、で」
「ヨウジョウ」
「物を、運ぶというより、傷つけずに移すための計画です」
マルゲンは深く頷き、その夜の議会に持ち込んだ。
翌朝、計画の名前は、キャンプの誰の口にも乗っていた。「養生計画」。何度か繰り返されるうちに、誰のものでもない言葉になっていった。
そのほうが、たぶんよかった。




