第六章 ようじょう、と呼ばれる
その夜、俺の隣に、若い女が座った。
歳は、十六か十七くらいだろうか。金色に近い、けれど少し茶の混じった髪を、首のうしろで一つに束ねている。膝にのせた両手の指は細く、爪は短かった。サンダルの紐が片方ほどけて、足首のあたりで力なく揺れていた。
「あなた、運び屋なの?」
「はい。引越し作業員、です」
「ヒッコシ……?」
「物を、別の場所に運ぶ仕事です」
彼女は、ふっと笑った。緊張のほどけ方ではなく、聞き返すのを諦めるための笑いだった。それから、肩をかすかに震わせた。震えたのは寒さのせいではなかった。火のすぐそばだったし、汗ばむほどの距離だった。震えは、もっと内側のものだった。
俺は鞄から毛布を一枚出し、彼女の肩にかけた。
「ありがとう」
「いえ」
「私、エリィ」
「ミサキ・レイ。三崎、で、大丈夫です」
エリィは、自分のサンダルの紐を見た。
「これずっとほどけたままで」
「ちょっと貸してもらえますか」
俺は鞄から、養生テープを取り出した。布製のガムテープに似た、現場で何にでも使える種類のテープだった。靴の応急修理にも使える。粘着面を一度、軽く指で温めて、紐の切れた断面に貼り、足首の骨の少し上に巻いた。あまり強く巻きすぎないように、指を一本入れる隙間を残す。
「これ、何?」
「テープです。ただの、テープ」
「魔法に近い」
「いえ、現場の応急処置です」
エリィは、巻かれた足首を持ち上げて、しばらく眺めた。それから、口の端だけで、本当に小さく笑った。
その笑いが、彼女の今日初めての笑いであることが、なぜか俺にはわかった。
翌朝から、キャンプの空気はすこしずつ変わった。
マルゲンが正式に俺を「軍師」として紹介した、と言われた。俺は何度も否定した。マルゲンは譲らなかった。
「人を動かす言葉を持つ者を、軍師という」
それが彼の定義だった。
俺は答えに困って結局毛布の畳み方を、別のキャンプから来た数人に教える時間に逃げた。逃げたつもりが、それが結果的に、彼らの中で「ミサキの仕事」を一段と具体化した。
俺は教えた。
毛布で家具を包む手順。隅当ての当て方。崩れない積み方の法則。重い荷物の背負い方と、二人運びの呼吸の合わせ方。歩幅の取り方。声のかけ方──「行きます」と「下ろします」と「もう一度お願いします」、それだけでよい、と。
最初は数人だった。次の日には十人になり、その次の日には三十人を超えた。
子どもたちが、毛布の角を見て「ここ、養生する」と口にし始めたのは、四日目の朝だった。
大人たちもそれを使い始めた。「もう少し養生しよう」「養生が雑だぞ」「養生が足りない」。意味はわからないままに、人の口から口へ、その言葉だけが移っていった。
夕方、エリィが鍋を運んできた。
「ねえ、ようじょうさま」
「やめてください」
俺は肩越しに反射で言った。
「最初に養生さまの仕事を見たとき」
「はい」
「これが何なのかは、わからなかった」
エリィは、鍋の縁を指で撫でた。
「丁寧、っていうのが、何なのかは、わかった」
俺は答えなかった。答えなかった代わりに、エリィの足首のテープを、もう一度確かめるように見た。テープは少しよれていた。新しいのに巻き直そうかと思って、思いとどまった。彼女が、巻き直すかどうかを自分で決められるくらいにはもう震えていなかったからだ。
夜、マルゲンが俺の天幕に来た。
彼が抱えてきたのは、紙の束だった。羊皮紙のように見えたが、もっと薄い、紙に近い素材だった。
「貴公に、これを見ていただきたい」
広げられたのは、大陸の地図だった。
大陸の中央に、太い亀裂のような線が斜めに走り、その亀裂の片側が、現在の大地、もう片側が、新しい大地、と書かれていた。
「これが、結界回廊だ」
「結界、回廊」
「あと三月のうちに、ここが一度だけ開く。その間に、すべての民を、新しい大地へ運ばねばならぬ」
俺は、地図に手を当てた。
亀裂の長さは、ざっと数百キロ。各地の難民キャンプは、地図上だけで百以上点在している。総人口は、おそらく数百万。
頭の中で、計算が始まった。
搬出のルート、中継地点、一日の移動可能距離、運搬車の台数、ボトルネック、養生材の総量──現場で何度も組み立てた言葉が、規模を変えただけで、ぜんぶ同じ場所にあった。
胸ポケットの日報のコピーがふいにすこし重く感じられた。
「マルゲンさん、紙を、もっとください」
「いくらでも」
「あと、各キャンプから、運搬経験のある人を一人ずつ集めてもらえますか」
「承知した」
マルゲンは、深く頷いて天幕を出た。
俺は地図の前で、しばらく動かなかった。
遠くで、火が一本、軽く弾けた。火の粉は、二つの月のあいだの空に、一瞬だけ届きそうに見えて、消えた。




