第五章 動線という発明
俺たちが辿り着いたのは、谷ひとつ越えた草原の縁にある、難民キャンプだった。
キャンプ、と呼ぶには整いすぎていなかった。何枚もの粗い布が、不揃いの杭に括りつけられて屋根代わりになり、その下に、家族らしい単位ごとに焚き火が並んでいる。煙が低く流れて、目の高さで滞留していた。煙は風で散る前に、人の背のあいだを縫って、すこし留まっていた。
数えるのが嫌になる人数がいた。三百か、四百か、もう少し奥まで含めれば五百を超えるかもしれない。
黒田先輩は、しばらく前から俺と別の集団に紛れていた。武装した男たちと笑い合っているのが、目の端に映った。元自衛隊だ、と本人は何度も繰り返していた。彼の中ではどうやら、出自の改変は今夜が最も都合のよい時期だった。
俺はトル老人について、キャンプの中央へ歩いた。
あちこちで、何かが少しずつ崩れていた。
炊事場の鍋が傾き、湯がこぼれて、子どもの足にかかりそうになっていた。母親が叫んだ。子どもは泣きながら別の天幕の影に隠れた。
水汲みの列の中ほどで、年寄りが押されてふらつき、後ろの男に肘で押し戻された。年寄りは何か言いたげに口を開いたが、声を出すのを諦めた。
寝床の周りでは、木の枝を運ぶ若者が、人の頭の高さで枝を回した。隣の天幕の角に枝先がぶつかり、布の端が裂けた。誰も気にしなかった。
動線がない、と思った。
頭の中で、これまでの現場の記憶が呼び戻された。古いマンションのエレベーター前。狭い玄関。子どものいる家のリビング。すべての現場で、最初に俺が組み立てたのは、人と物の通り道だった。
俺は足元の草に、枝の先で線を引いていた。
炊事場と水場と寝床を、一旦、別の三角形に分ける。通路は二系統。荷の流れを片側通行にすれば、肘の押し合いはなくなる。子どもの寝床は、人の通る道から二歩離す。それだけで、走り抜ける誰かに踏まれる確率が、たぶん半分以下になる。
頭が動き出すと、手は勝手に枝を動かしていた。
「何をしている」
声に振り返ると、背の高い男が立っていた。
歳のわりに背筋が伸びていた。左頬に古い切り傷の跡があり、傷の縁は治りきっていて、皮膚の色が周りより薄かった。革鎧の下の白い布の襟が、意外なほど清潔だった。
「あ、すみません。何でもないです」
俺は枝を地面に置こうとした。男の目は、地面の図のほうを見ていた。
「これは、何だ」
「えっと、動線、です」
「ドウセン。聞かない言葉だ。説明しろ」
言い方は強かったが、目はまっすぐだった。詰問ではなく、本当に説明を求めていた。
俺は、枝を握り直した。
炊事場の位置をこっちに動かす。水場の前は、二列にする。荷物を抱えた人と、空のバケツの人で、列を分ける。子どもの寝床は、もう一段奥に。風下に荷置きを集めて、火事のときに延焼を遅らせる──と、現場で何度も繰り返してきた言葉が、なぜかすらすらと出た。順序立てて話そうとしたわけではなかった。手が線を引きながら、口が勝手についてきた。
男は、しばらく黙っていた。
「貴公の名は」
「三崎です。三崎怜」
「ミサキ・レイ殿。私はマルゲン。このキャンプの責任者だ」
マルゲンは、革鎧の胸の前で軽く拳を当てた。
「即刻これを実行する。指示をくれ」
俺は耳を疑った。
貴公、という呼ばれ方をされたのも、初めてだった。
「いえ、俺はただの──」
「貴公の前は、毎日二人三人と死んでいた。老人と子どもが」
マルゲンの声は、とくに大きくはなかった。
「動線というものをあなたは知っている。私たちは知らない。それで充分だ」
俺は、口を閉じた。
マルゲンは振り返り、近くにいた何人かを呼び寄せた。
「皆、この方の指示に従え。ミサキ殿、人を集めた。続けてくれ」
集まった顔は、警戒よりも疲労が濃かった。家を失った直後の人間の顔だ。けれど、彼らの目は、誰かが何かを始めようとしていることに、わずかに反応していた。生存に必要な反射だ、と俺は思った。
半日で、キャンプは動線を取り戻した。
炊事場は風下にずらし、水場の前は左右二列で行きと帰りを分けた。寝床は通路から二歩離した。荷置きは、火が出ても延焼が遅れる位置に集めた。子どもの遊び場を、一段奥のくぼ地に作った。怪我人の天幕は、医師代わりの女性の天幕の隣に並べ替えた。
誰が動いても、誰かを押すことが減った。
夕方、火に当たっていると、マルゲンが俺の隣に座った。
「貴公は、戦士か」
「いえ、引越し屋です」
「ヒッコシ」
「物を、別の場所に運ぶ仕事です」
マルゲンは、ゆっくり頷いた。それから、自分の左頬の傷を、指の腹で軽く撫でた。
「人を運ぶことは、できるか」
「えっ」
「この大移動の世界で、貴公の動線が要る場面が、いずれ来る」
マルゲンの声は静かだった。けれど、その声の底に、何か疲れたものと、何か希望に似たものが、二重に響いていた。
俺は答えなかった。答え方がわからなかった。
火が、薪を一本、軽く弾けさせた。火の粉が真上へ伸びて、すぐに消えた。




