第四章 二つの月
草原の風は、思っていたより冷たかった。
俺は仰向けのまま、しばらく空を見ていた。月のうち、白いほうは満ちていて、赤いほうは薄い欠けがあった。雲が一筋、二つの月の間を通り抜けていく。雲の縁が、月の光の二色に染まり、白とも赤ともつかない色を一瞬見せて、ほどけた。
夢ではない、と早い段階でわかった。夢のなかでは、こんなに匂いがしない。
胸ポケットを探った。日報のコピーは、まだそこにあった。軍手は片方だけ、なくなっていた。左手の軍手だけが、見当たらない。
桐の木の匂いが、作業着の袖口から、ふっと立ち昇った。気のせいかもしれなかった。
「クソッ。なんだよ、なんだよこれ」
すこし離れたところで、誰かが地面を叩いていた。
黒田先輩だった。膝立ちで、両手の拳で土を叩き、声を荒らげている。鎧の代わりにスウェットが、土埃で汚れていた。煙草はとうに飛んでいた。気の毒なほど、見慣れた姿のままだった。
「先輩」
「うるせえ。お前のせいだろうが」
「すみません」
反射で出た。先輩は顔を歪めた。歪めたあとで、地面に向かってもう一度深く息を吐いた。
風に乗って、別の匂いが届いた。
最初は焚き火だと思った。次の瞬間に、それが違うことがわかった。木が燃える匂いに、肉と布の混ざった匂いが乗っていた。胃の底で、鈍い冷たさが広がった。
胃の底の冷たさは、現場で何度か経験したことのある冷たさだった。火事のあとの依頼で、焼け残ったタンスを抜いた時。長く独居していた人の家の片付けに入った時。ある種の匂いを、人は、教わらなくても、危険として識別する。識別する瞬間、胃の底が、ふっと冷たくなる。
その冷たさは、いま現場の冷たさより、何倍も、深かった。
丘の向こうから、黒い煙が立ち上っていた。
俺は黒田先輩を残して、丘を一つ越えた。
越えた先で、何が見えるかは、見る前から薄々わかっていた。
眼下に、村があった。村は燃えていた。藁葺き屋根の上で炎が踊り、屋根材が一枚ずつ崩れていく。村の中央の井戸の前に、何人もの女と子どもが立ち尽くしていた。井戸の桶は割れて、底のほうから水が黒く滲んでいた。
馬に乗った男たちが、村を駆けていた。黒い鎧、赤いマント。彼らの剣の動きは、ためらいがなかった。
ためらいのない剣、というものを、俺は、それまで、テレビでしか見たことがなかった。テレビの中の動きはいつも再生速度が、現実より少しだけ早かった。けれど、いま見ている剣の動きは、再生速度が、現実そのもので、現実そのものの速度で、ためらいがなかった。
俺は思わずしゃがみ込んだ。膝が震えたわけではなかった。立っているのが、ふいに恥ずかしくなったのだ。立って眺めていることが、一種の加担に思えた。
しゃがんだ姿勢のまましばらく息を、整えた。
現場で重い荷物を運ぶときの、息の整え方だった。腹の底で、ひと呼吸、息を溜めてから、二段階に分けて吐く。一段階目は鼻から、二段階目は口から。整え終わったとき、視界の縁が、ほんの少し、はっきりした。
逃げる人々の中に、一人の老人が荷車を引いていた。
荷車は粗い木組みで、木箱が三つ、紐で乱雑に結わえられていた。ひとつの結び目が緩んでいて、坂を下るうちに、いちばん上の木箱がぐらりと外側へ傾いた。
結び目の緩みは、現場で何度も見たことのある種類の緩みだった。荷台に積んだ家具が、急ブレーキで前へ押されたあとに、ロープの結び目が、決まって、左の上隅でだけ、緩む。緩む位置を、俺の目はもう教わらなくても、見つけられるようになっていた。
俺の足は、勝手に動いていた。
「待ってください!」
声をかけてから、自分が日本語で叫んだことに気づいた。
老人は驚いた顔で振り返った。それでも、足を止めた。俺はその一瞬の隙に、傾いた木箱の角に肩を入れて、滑り落ちる前に押し戻した。荷車の取手側を、老人と一緒に支える形になった。
「あんた、誰だ」
「えっと、運び屋です」
咄嗟に、そう答えていた。
言葉は通じていた。発音はあちらの言葉になっていたのに、俺の口はそれを違和感なく動かしていた。理屈は後で考えるしかない。いまは、坂と荷車と、敵の馬蹄の音だった。
「結び目、緩んでます。ちょっとだけ」
「結ぶ余裕がねえ」
「あ、はい。じゃあ、もう一回、肩で支えますね」
俺は木箱の側面に肩を当て直し、老人と歩幅を合わせた。坂の下に、低い灌木の塊があった。そこまで行けば、騎馬から目線が切れる。
灌木の影に荷車を押し込み、老人をしゃがませた。鞄から毛布を一枚抜き、荷車の上にかぶせた。日本のホームセンターで買った、地味な茶色の毛布。草の色に近い色だった。たまたま、たまたまだった。
馬蹄の音が頭の上を走り抜け、それから遠ざかっていった。
老人は荒い息をしばらく整えた後、俺の顔をまじまじと見た。皺の奥に、灰色がかった青い目があった。
「あんたの服、見たことねえ」
「すみません。事情が、ちょっと」
「事情はいい。あんたの運び方が、見たことねえ」
老人は荷車の取手を一度、軽く叩いた。
「角を支えたな。掴むんじゃなく、支えた」
「あ、はい」
「俺は四十年運び屋だが、あんなふうに肩を入れる若いのは、初めて見た」
風が、また草を撫でた。
遠くで、黒田先輩が誰かに大声を上げているのが聞こえた。村のほうから逃げてきた誰か、あるいは別の難民らしい数人と、揉めているらしい。怒鳴っているのは、いつもの黒田先輩の声だった。場所が変わっても、声の角度は変わらない。
俺はその声に背を向け、老人に頭を下げた。
「えっと、ご無事で何よりです」
「礼を言うのはこっちだ。あんた、名は」
「三崎。三崎怜です」
「ミサキ・レイ。覚えとく。俺はトル」
老人の手が差し出された。掌の真ん中に、深いけれど古いタコがあった。荷車の取手の形そのままの、運び屋のタコだった。
俺は握り返した。手の甲が、すぐに馴染んだ。




