第三章 光る底板
現場までは下道で二時間半かかった。
黒田先輩は山道に入ってから機嫌が悪くなった。カーブごとにハンドルを乱暴に切り、ブレーキを荒く踏んだ。荷台の養生材が時々、固定したロープを軋ませた。俺はバックミラーで荷台のシルエットを確かめながら、口の中だけで「申し訳ない」と荷物に詫びた。
「お前さ、何の取り柄もねえよな」
「すみません」
「なんで毎回謝るんだよ。気色悪いんだよな、その癖」
「すみません」
黒田先輩は鼻で笑った。それから舌打ちと、「俺もこんな仕事いつまでやれっかわかんねえぞ」という独り言を、誰宛でもなく吐いた。これは時々出てくる愚痴で、俺は答えないことに決めていた。答えようとして失敗した日のことを、まだ覚えていた。
現場の旧家は、山道の終わりにあった。
苔むした門柱の文字は、もう判読できない。古い瓦が風で剥がれかけ、屋根の上で薄黒いひびを描いていた。庭木は剪定されていない。つる草が縁側まで這い上がっている。けれど、玄関先だけは誰かが少し前に掃除したらしく、土間の砂利の跡が新しかった。
依頼主の代理人だという男性が、玄関の上がり框で待っていた。グレーのコートに、黒の革手袋をはめている。財産整理の専門業者という雰囲気だった。
「桐箪笥一棹だけ、お持ちください。ほかは廃棄業者に来てもらいます」
差し出された書類に俺はサインをした。男性は印鑑を押すと、すぐに腰を上げた。
「あんな雑な依頼初めてだぜ」
代理人が車に戻った後、黒田先輩は縁側で煙草を吸いながら言った。
「楽勝じゃん。一棹なら、半日で帰れる」
半日では、終わらない。家屋を傷つけずに大型家具を抜くには、それなりの段取りが要る。けれど、その説明をしても、黒田先輩は手を動かさない。説明しないほうが、自分の仕事は進む。
俺は黙って奥座敷へ通る廊下に毛布を敷いた。柱の角に隅当てを当て、障子の枠に細いテープで保護を施す。古い家屋は木が痩せている。普段以上に、養生は必要だった。
奥座敷の中央に、桐箪笥は立っていた。
四段の引き出し。表面には何十年分かの蝋拭きの痕がうっすら残り、取手の真鍮は鈍い飴色になっていた。
ここに住んでいた人は、丁寧な人だったらしい。家屋全体は廃屋に近いのに、桐箪笥の前の畳だけは、長く敷物を敷いていた跡が残っていた。誰かがこの箪笥の前で、毎朝、引き出しを開け閉めしていた、その時間の重さが、薄い擦り跡に残っていた。
俺は引き出しを順番に確かめた。空、空、空──最後の段だけ、軽く引っかかった。
無理に引かないこと、と祖母の声が頭をよぎる。引き出しは、家具のいちばん柔らかい部分だ。
俺はそっと引き出しを抜き、畳の上にひっくり返した。底板を、上から見るようにする。古い木の継ぎ目が、整った直線で並んでいる。
その継ぎ目の中央に、円い文様が彫り込まれていた。
太陽でも、月でもない、不思議な渦のかたち。輪郭は何重にも重ねられ、中心に向かってゆるやかに沈んでいる。彫りはずいぶん古く、彫り跡の角は柔らかく丸まっていた。指先で撫でると、木の温度が指の腹に移ってきた。木はずっと、誰かの手を覚えていたらしい温度だった。
「先輩、これ──」
俺の声に、黒田先輩は欠伸まじりに近寄った。煙草の灰が、俺の隣で畳の上にぱさりと落ちた。
「あぁ? 何だよ。落書きか」
「文様、です」
「ふうん」
その瞬間、文様の中心が、白く光った。
強い光ではなかった。蛍光灯のような均一な白でもない。秋の朝、霧のかかった山に最初に差し込む陽の白さに似ていた。やわらかく、けれど確実に、底板から立ち上がってきた。
俺は思わず、引き出しから手を引こうとした。指先が動かなかった。
黒田先輩が、俺より大きく後ずさった。
「な、なんだこれっ」
悲鳴は、俺の耳に届く前に、薄い膜越しのように遠くなった。
光は二人を呑み込んだ。
箪笥の四段がすべて開いて、内側から白い霧が吐き出される。霧は俺の作業着の袖口から胸へ、首元へ、髪の生え際までを撫でた。冷たい霧と、桐の木の乾いた匂いと、毛布の繊維の匂いが混じった。世界が一段、輪郭をぼやかせた。
最後に俺が見たのは、黒田先輩のジャンパーの背中が、引き出しの中に吸い込まれていく光景だった。それから、自分の足元の畳の目が、光のなかでひとつずつほどけていくのが見えた。
次の瞬間、俺は草の上に倒れていた。
草の匂いが、濃かった。
日本のものとは違う。甘くて、生臭くて、湿った土の匂いと混じっていた。鼻の奥に、見たこともない種類の植物の蜜が、ふっと触れて消えた。
俺はゆっくりと身を起こし、空を見上げた。
月が、二つあった。
ひとつは白く、もうひとつは赤かった。
その二つは、時計の文字盤のように、すこし離れて空に並んでいた。




