第二十一章 養生引越
俺は会社を辞めた。
社長は驚いた顔をした。それから笑った。
「黒田が消えて、お前まで辞めたらうちは回らねえぞ」
「すみません」
「お前みたいな万年ヒラに、何ができる」
俺は深く頭を下げた。
答えなかった。
答えなかったのは、答える言葉がばあちゃんの手紙以外には見つからなかったからだった。
外の空気は冷たかった。
でも清々しかった。
胸ポケットには、ばあちゃんの手紙と最新の作業日報。
俺は実家の貯金を切り崩し、地元の小さな倉庫を借りた。中古の軽トラを一台買った。養生材をしこたま発注した。
看板を一枚、自分で書いた。
『養生引越』
その三文字だけ。
ホームページもチラシも作らなかった。
最初の三ヶ月は、依頼が一件もなかった。貯金は減った。
でも俺は毎朝、軽トラを磨き、養生材を点検し、作業日報を書いた。
依頼がなくても書いた。空欄が多い日報だった。最後の一行だけは書いた。
養生:完了。
書く一行があるかぎりたぶんまだ、職業はあった。
四ヶ月目、最初の依頼が来た。
近所のおばあさんからだった。長年住んだ家から施設に移るための引越し。
「テレビで見るような立派な引越し屋さんはちょっと、と思って」
「はい」
「あんた、丁寧そうだから」
「ありがとうございます。最善を尽くします」
俺は、その日おばあさんの家に着くと、まず家全体を、養生した。
床、壁、ドア、家具。どこも傷つけないように。
時間はかかった。けれどおばあさんは、縁側で俺の作業をずっと見ていた。
「あんた、ばあちゃんに似た仕事するね」
「えっ」
「うちのおばあさんも、引越し屋の娘でね」
「そうですか」
「この毛布の畳み方、うちのばあさんと同じ」
俺は手を止めた。
胸の奥が温まった。
おばあさんはぽつぽつと、自分の昔話をしてくれた。
戦後の時代、リヤカーで物を運んだ家業のこと。毛布の重要性。養生の意味。
ばあちゃんとは別人なのに、彼女はばあちゃんとよく似た言葉を使った。
俺は仕事を終えて、深く頭を下げた。
依頼料は相場の半分にした。
おばあさんは相場通りの金額を、無理やり封筒に押し込んできた。
「いいから取っとき。あんたみたいな仕事には、ちゃんと払わないと世界が回らないよ」
俺はその言葉を、ばあちゃんの言葉として、ありがたく受け取った。
その日から口コミで、依頼はゆっくり増え始めた。
最初に雇った社員は二十歳の若者だった。
名前はコウタくんといった。大学を中退して、何をしようか迷っていた青年だった。ハローワークで俺の求人を見て来てくれた。
「面接、お願いします」
履歴書にはほとんど何もなかった。学歴は中退、資格はゼロ、部活もバイトもすべて短期で辞めていた。
俺はそれをざっと眺めた。
「明日から来てください」
「えっ。面接、これだけですか」
「うん。手を見せてもらえますか」
彼はためらいながら、両手を差し出した。
手のひらはまだ柔らかかった。けれど指先には、ペンだこのような跡があった。
「絵、描いてた?」
「あ……はい。中学からずっと」
「いい手です。物を運ぶ仕事も覚えてもらえると思う」
彼は目を、瞬いた。
翌朝から、コウタくんは時間ぴったりに倉庫に来た。
俺は彼に作業着を渡し、軍手を渡した。最後に養生材の使い方を教えた。
彼は最初、不器用だった。
毛布の畳み方が雑だった。養生テープを、皺になるように貼った。
俺は何度も教え直した。怒鳴らなかった。ただ、丁寧に何度も。
「すみません、できなくて」
「大丈夫。最初は誰でもそう」
「俺、不器用なんで」
「大丈夫。手が動くようになるまでやります」
彼は目を伏せた。
ある日、依頼主の家でコウタくんが大型冷蔵庫の角に毛布をかけ忘れた。
冷蔵庫の角がドアの框に擦れた。依頼主の若い奥さんが声を上げた。
「ちょっと、それ新築だよ!」
コウタくんは凍りついた。
俺は自分の頭を下げた。
「申し訳ありません。私の指導不足です。すぐ補修します」
俺は補修キットで傷を消した。表面の薄い擦り傷で、ほとんどわからない程度に直った。奥さんは最後には頷いてくれた。
帰りの軽トラで、コウタくんは長く黙っていた。
信号で止まったとき、彼はぽつりと言った。
「俺、辞めたほうがいいですよね」
「えっ」
「俺いつもこうなんです。何やっても結局人に迷惑かけて」
「コウタくん」
「絵も続かなかったし。バイトもいつも怒られて辞めて」
俺はハンドルを握ったまましばらく考えた。
「コウタくん」
「はい」
「俺の前職場の先輩、すごく嫌な人で」
「えっ」
「いつも俺のこと、ノロマって呼んでた」
「うわ」
「で、その人、ある日消えました」
「消えた、って」
「いなくなった。ぜんぶ自分で壊した結果」
彼は俺の横顔をしばらく見ていた。
「俺はその先輩のおかげで、自分の仕事の意味を、知った気がするんです」
「はい」
「俺の仕事は目立たないけど、何かを傷つけないことなんだ、って」
「……」
「コウタくんの今日のミスも、誰かを傷つけたかもしれない。でも、それを補修しようとした手を見て、俺は君を辞めさせる気はないですよ」
信号が青になった。
彼は、何も言わなかった。けれど頷きの角度は深かった。
翌日から、彼は変わった。まだ不器用だった。けれど養生に対しての手の動きが丁寧になった。
三ヶ月後、彼の手は立派な現場の手になっていた。
一年が経った。
養生引越の社員は五人になっていた。
コウタくんに加え、シングルマザーのリエさん。外国から来た若者のミゲルくん。退職後の趣味で身体を動かしたい元教師の高橋さん。事務を担当してくれる近所のおばちゃん、ノブコさん。
全員、うちで初めて引越しの仕事を覚えた。
元プロは一人もいなかった。
でも客の評判は、不思議と良かった。
雑な人は長続きしなかった。うちには雑な仕事が合わなかった。
俺は社員みんなに、最初に教えることを、決めていた。
「いいですか、養生引越の仕事は運ぶことじゃありません」
「はい」
「傷つけないことです」
「傷つけない、こと」
「物も家も、お客さんの気持ちも、自分自身も。ぜんぶ養生する仕事です」
社員たちは最初、意味がわからない顔をした。
半年も働けば、意味がわかるようになった。
二年目の夏、地方の小さな民俗博物館から、手紙が届いた。
差出人は博物館の学芸員。あの旧家の桐箪笥について。
『時間がかかりましたが、無事、当館の展示物として収蔵させていただきました。よろしければ一度ご覧になりに来てください』
俺は休みの日、軽トラに乗って、博物館へ向かった。
学芸員は白髪の女性だった。
「あの箪笥には、ちょっとした言い伝えがあるんですよ」
「言い伝え」
「江戸末期に、ある家の主人が家業の引越し屋を畳む時、最後に残った桐箪笥に自分の家業の魂を込めたと」
「えっ」
「『この箪笥に触れた者の中で、本当の養生師は別の世界へ行く』そうです」
俺は息を、止めた。
学芸員は微笑んだ。
「私は迷信は信じないんですけどね。でも、不思議な箪笥でしょう」
「ええ」
俺は深く頭を下げた。
帰り道、夕焼けの空に月が一つ薄く浮かんでいた。月は白かった。あの世界の銀の月、赤い月、両方を俺は知っている。
今、ここの月は白いだけだ。
それで十分だった。
三年目の秋、見知らぬ女性から電話があった。
「あの、三崎怜さんですか。黒田と申します」
俺は受話器を、握り直した。
黒田先輩の妹だった。
彼女は丁寧な声で、当時の社長から俺の連絡先を聞いた経緯を話した。
俺たちは駅前の喫茶店で会った。
彼女は二十代後半。兄とは似ていない、おっとりした顔の女性だった。
「兄が失踪して、もう三年になります。家族としてはもう諦めるしかないんですが」
俺は頷いた。
「兄の最後の現場で、何か言葉を残していなかったかとだけ、知りたかったんです」
俺は迷ったが、答えた。
「最後の現場では、特に何も、おっしゃっていませんでした。ただ、最後に何かを言いかけて、口を、閉じた瞬間が、ありました」
「えっ」
「何を言いたかったかは、わかりません。でも、何かを言おうとしたということだけは、ありました」
彼女は目を伏せた。
しばらくして深く頭を下げた。
「ありがとうございます。兄が、最後に何かを言いかけた、ということだけでも、家族としては、救いです」
別れ際、彼女は俺に小さな包みを渡した。
「兄の遺品から見つけたものです」
包みの中には古い軍手が一双。
左手だけ、古い。それは俺のものだった。あの異世界に行った日、消えていた左手の軍手。
黒田先輩は俺の軍手の片方を、自分のロッカーに紛れ込ませて持ち帰っていたらしい。たぶん嫌がらせのつもりで。
でも、それは、いま俺の手元に、戻ってきた。
「ありがとうございます。たぶん、これは、俺のです」
「そうでしたか」
「先輩は最後、これを俺に返したかったのかもしれません」
俺はそう答えた。
黒田先輩の妹さんは、目を瞬き、それから微笑んだ。
「兄のお詫びとして受け取ってください」
俺は深く頷いた。
四年目の春、依頼の電話が、入った。
ばあちゃんが入っていた、あの介護施設。新築の建物に、丸ごと移るという。
「以前、お祖母様の遺品を取りに来てくださったときの三崎さんの仕事ぶりを、職員一同、覚えていまして」
「はい」
「もしよろしければ、当施設の引越し、お願いできないでしょうか」
俺は、二つ返事で、引き受けた。
現場は大変だった。
介護施設の引越しはただの物品移動ではなかった。入居している老人たち一人一人の生活を、丸ごと傷つけずに運ぶ必要があった。
俺は社員総出で取り組んだ。
二日目の朝、ある女性入居者が俺の手を握った。車椅子の上で、白髪のおばあさん。
「あんた、レイさんかい」
「はい」
「あんた、ハル子さんの孫だね」
俺は驚いた。ハル子はばあちゃんの名前だった。
「ハル子さん、最後まであんたの話ずっとしてた」
「えっ」
「ハル子さん、あんたのこと覚えてないって、家族には言ってたけどね」
「はい」
「私にはよくあんたの話してた。リヤカー押してた頃の話、毛布の畳み方の話、桐箪笥の話。あと、孫が引越しの仕事についた、って」
「それは……」
「ハル子さん、嬉しそうにね、『あの子、ちゃんと養生してるかしらね』って」
女性は俺の手の甲を、ぽんぽんと叩いた。
「あんた、ちゃんと養生してるよ。そんな顔の若者、見ればわかる」
俺は深く頭を下げた。
涙が一粒、車椅子の上に落ちた。
「あ、すみません」
「いいんだよ」
彼女の笑みは、ばあちゃんとは違う笑みだった。けれど根っこの優しさが似ていた。
その夜、社員みんなに集まってもらった。
「みんな、いまから話すこと聞いてほしい」
「はい」
「うちはこれ以上、大きくしません」
みんなが瞬きをした。
「人を増やせば、依頼に応えられる。お金も、もっと、稼げる。でもたぶん養生の質が、落ちる」
「はい」
「俺はそれはしません」
コウタくんが深く頷いた。リエさんも、ミゲルくんも、高橋さんも、ノブコさんも頷いた。
その夜、俺は新しいノートを取り出した。
表紙に丁寧に書いた。
『養生引越 社内マニュアル』
最初のページに、こう書いた。
一、引越しは運ぶことではなく、傷つけないことである。
二、現場では誰よりも先に養生する。誰も見ていなくても。
三、自分自身も養生する。疲れたら、休む。怪我をしたら、治す。
四、お客さんの気持ちも養生する。話を聞く。声を荒げない。
五、毎日、作業日報を書く。最後に必ず「養生:完了」と書く。
その下にばあちゃんの言葉を書いた。
傷つけないことは、運ぶことよりも難しい。だから、ありがたい仕事である。
ノートを閉じた。窓の外で白い月がゆっくり傾いていた。
ある依頼で銀色のハサミを運んだ。
依頼主の四十代の男性は、離婚に伴う引越しで、新居は古いアパートの一室だった。
「これは亡くなった娘の使ってたハサミなんです」
彼はぽつりと言った。
「離婚の理由もそれです。娘を亡くしてから夫婦が壊れて」
「はい」
「妻は娘の遺品を全部処分しようとして。俺はこれだけ隠して持ってた」
「これは、お客さんが直接新居まで持っていってください。それが一番の養生だと思います」
彼はしばらく言葉を出せなかった。
帰り際、軽トラの中で、コウタくんがぽつりと言った。
「社長、今のお客さん、ちょっと泣いてましたね」
「うん」
「俺たち、何もしてないのに」
「養生は、何かをしないことじゃないからね」
「はい?」
「お客さんがちゃんと自分で大事なものを抱えていけるように、周りを整えるんだよ。うちは」
彼はしばらく考えてから、頷いた。
雨の日の現場で、ある桐箪笥の引き出しの底から薄い手紙が出てきたことがあった。
ぼろぼろの便箋に、亡くなった老婆の字。
『誰か、これを読んでくれた人へ。
もしあなたが引越し屋の人ならば、私の老いた家具を丁寧に運んでくれたことに、心から感謝します。
あなたの仕事は誰にも見えないかもしれない。
でも、運ばれる物の側には見えています。
ありがとう』
俺は手紙を、依頼主の男性に、渡した。
彼は頬を、雨より重い水滴で濡らした。
その日の作業日報の最後に、いつもの一行を書きながら、俺は目頭を、軽く押さえた。
養生:完了。
時々、夢を見た。
月が二つある世界の夢。
夢の中で、エリィが俺の隣を歩いている。マルゲンが地図を広げている。アグが警備の指示を出している。ガレシウス公が静かに頷いている。
みんな笑っている。
みんな忙しい。
ある夜の夢で、エリィが俺に最後の言葉を告げた。
「養生さま、私たち、こっちでいい暮らしをしてる。マルゲン卿は宰相になって結婚もした。アグくんは警備隊長で子どもが二人。ガレシウス公は亡くなったよ、三年前。でも最後まで、養生さまの計画を丁寧に守ってくれた」
「そうか」
「私もね、養生学校を作ってる」
「養生、学校」
「養生は引越しのためだけの言葉じゃないんだよ、こっちじゃ。人を傷つけないこと、世界を傷つけないこと、自分を傷つけないこと。みんな養生って言うようになった」
俺は頷いた。
「養生さま、最後の養生をありがとう」
「最後の」
「私もう夢の中でも、養生さまに会わなくても、生きていけるよ」
「うん」
「だから、これがたぶん最後の夢」
俺は彼女を、見た。
彼女は笑っていた。けれど目が潤んでいた。
「ありがとう、エリィ」
「私こそ」
彼女は、俺の手をゆっくり離した。
月が二つ、風に揺らぐようにかすかに光った。
夢は白い光にほどけた。
目が覚めた。
部屋の窓から白い月が一つ傾いていた。
五年目の夏、新しい問い合わせが来た。
大学を卒業したばかりの二十二歳の女性。サオリ、と名乗った。
「私の祖母が二年前に亡くなって。祖母の家を整理する時に、養生引越さんにお願いしたんです」
その現場を、俺は思い出した。雨の日の、あの古い民家。引き出しの底に貼られていた、見ず知らずの引越し屋への感謝の手紙。
「あの手紙のおかげで、父は祖母とちゃんと別れられた、と言いました」
「はい」
「私も、祖母の最後の見送りができたと思いました」
彼女の声は少し震えていた。けれど目はまっすぐだった。
「あの日から、私、誰かの大事なものを、丁寧に運ぶ仕事って、すごく素敵だな、って思って」
「はい」
「で、社会福祉も学んだけれど、やっぱり現場に立ちたくて」
俺は深く頷いた。
「サオリさん」
「はい」
「手を見せてもらえますか」
彼女は戸惑いながらも、両手を差し出した。
手のひらは柔らかかった。けれど指の付け根に、薄いペンだこがあった。ボランティアで、お年寄りに手紙を代筆していたらしい。
俺は頷いた。
「いい手です。明日から来てください」
翌日、サオリさんは約束の時間ぴったりに事務所に来た。
ノブコさんがお茶を出した。コウタくんが作業着とヘルメットと軍手を渡した。
「初めまして、コウタです。先輩なんて呼ばないでね」
「あ、はい」
「うちは、上下関係薄いから」
俺はコウタくんの後ろ姿を見てふっと笑った。
昔、俺を「ノロマ」と呼んだ先輩がいた。
今、俺たちの会社では、誰も誰のことも、そう呼ばない。
たぶんこれも俺の養生だった。誰かが誰かに対して、そう呼ばない世界をひとつ作ること。
たぶんそれも、養生のうちだった。




