第二十章 祖母の手紙
四十九日が過ぎてから、施設の遺品整理に行った。
施設の入り口の自動ドアは、相変わらずアルコール消毒の匂いを混ぜた風を、外へ吐き出していた。リノリウムの床は、職員さんたちのスリッパの足跡で、薄く擦り切れていた。
手続きの紙にサインをしてから、職員の女性が、奥の個室まで案内してくれた。彼女は、ばあちゃんが施設に入った頃からの担当の方で、廊下の途中で何度か申し訳なさそうに、俺の顔を見た。
「お祖母様、最後まで穏やかでしたよ」
「はい」
「不思議と、亡くなる前の一週間、急に、いろんなことを思い出されてね」
俺は彼女の横顔を見た。
「思い出して、ですか」
「ええ。お孫さんのこととか、ずっと話してました」
「えっ」
「どこにお住まいだったか、まではわからなかったみたいだけど。とにかく、いい子で、優しい子だ、って」
俺は立ち止まりかけた。
止まるのを、足の方が、断った。立ち止まると、廊下のリノリウムの上でたぶんしゃがみ込んでしまうから。
俺は頷いた。頷きながら、職員さんに礼を言って、ばあちゃんの個室に、入った。
ばあちゃんの個室には、ほとんど何も残っていなかった。
着替えと、入院時に使っていた歯ブラシ。古い写真が、数枚。机の引き出しの奥に、白い封筒が、一通あった。
封筒の表面は、長く引き出しの中で寝ていたせいか、紙の繊維が指先にすこし湿って馴染んだ。
表書きには「怜へ」とだけ。
文字の太さは、若い頃のばあちゃんの太さだった。
俺は、震える手で、開けた。
封の糊は、長い時間で固くなっていた。指先で押すと、糊の繊維がぱりっと小さく鳴った。
『怜へ。
いつか、おばあちゃんが何もわからなくなった時に、これを読んでね。
あんたは、いつも気の優しい子だった。
だから、人より少し、傷つきやすいと思う。
たぶん、人生の中で何度も誰にも見えない仕事をすると思う。
誰も褒めてくれない仕事を。
でもね、怜。
あんたの仕事は、誰にも見えないけど、世界で一番大事な仕事よ。
物を運ぶことじゃないの。
傷つけないことなのよ。
それは、誰でもできることじゃないの。
優しい人にしか、できないの。
だから、自分を養生してね。
あんた自身も、傷つきやすい人だから。
ばあちゃんより。』
文字は、ばあちゃんの字だった。
最近の字ではなかった。たぶん十年前くらいの、まだしっかりしていた頃の字。
筆圧の強さと、罫線をきっちり守る癖。「養生」の「養」の字の、最後のはらいが、ふっと長い。それが、ばあちゃんの字の、一番の癖だった。最後の一画にだけ、必ずすこし時間がかかった。
俺はその手紙を、握ったまましばらく動けなかった。
窓の外で、雀が、鳴いていた。
部屋の片隅に、毛布が一枚、畳まれていた。ばあちゃんが、ずっと使っていた、薄い毛布。
俺はそれを膝の上に置き、手紙を、もう一度最初から読み返した。
二度目に読むと、字面の意味よりも、行間の音のほうが、強く耳に残った。
ばあちゃんは、これを、どこで書いたんだろう。
たぶん、施設に入る前。まだ、自分の家の縁側があった頃。蚊取り線香の煙の真っ直ぐ立ち昇る縁側でたぶん薄い座布団の上で。
書きながら何度かペンを止めただろう。
書く手の止まるたびに、彼女はたぶん孫の俺の顔を、思い浮かべていた。
俺の顔をいずれ忘れるであろう自分のことを、誰よりも先に、知っていた人。
知っていた人が、忘れる前に、書いた手紙だった。
俺は毛布の角を、握り直した。
毛布は、薄かった。けれど、薄さの中に、長い時間の重さが、染みていた。
俺は手紙の最後の一行を、もう一度口の中で、読んだ。
あんた自身も、傷つきやすい人だから。
ばあちゃんが、俺のいちばん奥の、いちばん小さな弱さを、知っていてくれた、ということだった。
そのことに、はじめて目の奥が、熱くなった。
ばあちゃんは、俺の表面の優しさを褒めるだけの人ではなかった。
俺の中の、誰にも見せない、傷つきやすい部分を、わかっていてくれた。
わかっていて、それを、責めなかった。
ただ、自分を養生して、と書いてくれた。
その一言の重さに、俺は、毛布に額を当てしばらく動けなかった。
毛布の繊維が、額に、くっついた。
深く息を吸った時、毛布の繊維の奥から、すこしだけ桐の木屑のような乾いた匂いが、した。
ばあちゃんの祖母の桐箪笥の奥に、ばあちゃんの嫁入り道具のたとう紙が眠っていた、と、いつかの夏に聞いた話を思い出した。たとう紙の桐の匂いが、毛布のどこかに、何十年か、潜んでいたのかもしれない。
毛布は、ただの毛布ではなかった。
毛布も、人と同じで、いろんなものを覚えていた。
帰り道、電車の中で、俺は、窓に映る自分の顔を見た。
ヘルメット焼けの跡がまだ薄く残っていた。
異世界に行く前と、同じ顔だった。
けれど、目の中の、冷たい風はもう消えていた。
車窓の外を、夕方の景色が、流れた。住宅街の屋根、電線、信号機の橙色の光。それぞれが、ばあちゃんの手紙の一行ずつに、似ているような気がした。
優しい人にしか、できないの。
屋根。
あんた自身も、傷つきやすい人だから。
電線。
ばあちゃんより。
信号機の橙色。
その夜、アパートで、三年分の作業日報を、すべて見直した。
ぜんぶの最後に、養生:完了、と書かれていた。
書かれていない日も、二日だけ、あった。
一日は、ばあちゃんの面会で、ばあちゃんが俺のことを覚えていなかった日。
もう一日は、ばあちゃんが亡くなって、施設から電話があった日。
その二日の空欄に、俺は、新しいペンで、いまの自分の字で、書き足した。
養生:完了。
書きながら、それが、過去の俺へ向けた手紙でもあることに、気づいた。
俺はようやくわかった。
俺はばあちゃんに、報告していたのだ。
ばあちゃんが、もう俺のことを覚えていなくても、俺は心の中のばあちゃんに、毎日の仕事を、見せていた。
俺は最新の日報の最後にまた同じ文字を書いた。
養生:完了。
ペン先が、紙の上で、優しく止まった。




