第十九章 帰還、冷たい床
頭が、ぼんやりした。
頬に、冷たいものが当たっていた。
俺はゆっくりと目を開けた。
古い畳の匂いと、埃の匂い。薄暗い天井。虫が一匹、天井板の継ぎ目を渡っていた。
虫はゆっくり計画的に、節と節のあいだを渡っていた。彼にとって、それは多分、毎日の通勤路だった。世界が向こう側で巨大に揺れていたあいだ、こちら側のこの天井で、虫は同じ道を、何往復もしていたのだろう。
俺は、仰向けに寝ていた。頭の上に、桐箪笥の影。胸ポケットには、日報のコピー。軍手は、片方だけ、なくなっていた。
左手の指先をゆっくり開いて閉じた。指先には、新しい大地の縁の岩を握ったときの、岩肌のざらつきがまだ薄く残っている気がした。けれど、現実の指先には、何もなかった。畳の繊維が、指の腹に、当たるだけだった。
ここは。
俺は、勢いよく、身を起こした。
左腕が、動いた。
右目も、開いた。
骨にひびが入っていたはずの腕も、傷一つない。あの世界での怪我は、ここには、持ち越されていなかった。
そのことに、最初に感じたのは、安堵ではなかった。
あれはぜんぶ俺の中だけの出来事だったのか。
そう疑う自分が、ふっと浮かんだ。
けれど、左手の軍手だけが消えている事実が、それを否定した。
軍手は、向こうの世界に、置いてきた。
そう思いたい自分が、軍手の不在を、握りしめていた。
俺はゆっくり立ち上がった。
膝が震えた。それは、異世界の怪我のせいではなかった。ただの、現代の凡庸な疲れだった。
立ち上がってから、世界の縮尺がふいに戻ってきた。
異世界では、俺の前にある景色はいつも地平線まで開けていた。歩いて何日もかかる距離が、目の高さに、薄く層をなしていた。けれど、ここでは、目の前は、襖一枚の距離だった。三歩、歩けば壁。五歩で廊下の角。歩幅は、現代の家の寸法に、戻されていた。
戻された寸法の中で、俺はしばらく息の長さを、調整した。
桐箪笥の引き出しは、半分開いていた。
底板の文様は、消えていた。ただの、古い木の板に、戻っていた。
俺は引き出しを、丁寧に元に戻した。
元に戻すとき、引き出しの木が、軽く乾いた音を立てた。あの日と、同じ音だった。同じ音であることが、奇妙に、慰めになった。
文様にはもう触らないことにした。
「先輩」
声に出してから、いないことに、気づいた。
黒田先輩はもういない。
ここにも。あの世界にも。
声に出して呼んだ、という事実だけが、自分の口の中に残った。呼んだ、という動作だけは、現実だった。返事のないことが、その現実をすこし柔らかくした。
俺は、深く息を吐いて、廊下に出た。
雨戸の隙間から、昼の薄い光が差していた。
時間の感覚は、狂っていた。
あちらでは何ヶ月も過ごしたのに、こちらでは、何時間も経っていない感覚があった。
時計を見ようとしてから、自分が時計を持っていなかったことを、思い出した。腕時計は、一年前から、つけるのをやめていた。安物の時計の革ベルトが、皮膚にかぶれを起こしてから、つけなくなった。代わりに、携帯電話の時計を見る癖が、ついていた。
俺は廊下の柱に巻いたままになっていた毛布を、一枚ずつ外し、丁寧に畳んだ。
仕事の続き、だった。
仕事を続ける、というだけの動作が、俺をこちらの世界に少しずつ、繋ぎ直した。
毛布の繊維のひとつひとつが、新しい大地の縁の岩の上で、養生材として敷かれた毛布の繊維と、同じ密度で並んでいた。同じ密度の繊維を、同じ手の動きで、畳む。世界が変わっても、手の動きは、変わらない。
手の動きが変わらないことに、俺は深く救われた。
玄関先で、携帯電話が振動していた。
着信履歴は、十数件。
会社からだ。黒田先輩が現場から戻らない件で、社内が騒ぎになっていた。
最後の着信は、施設からだった。
介護施設。祖母の入っていた、あの施設。
俺は、震える指で、施設にかけ直した。
「あ、三崎さん。お電話、ありがとうございます。あの……今朝、お祖母様が、安らかに」
看護師さんの声は、丁寧にゆっくり続いた。
俺は何度か瞬きをした。
声が、出なかった。
「最期は、笑顔でしたよ。誰かに『おかえり』って、呟いていらして」
俺は廊下に、しゃがみ込んだ。
膝が、冷たい床に、当たった。
目の奥が、じわりと、熱くなった。
あの夢は、本当だった。
ばあちゃんは、もう疲れて、行ってしまった。
でも、最後に笑っていた。
誰かに、「おかえり」と、言ってくれた。
俺は携帯電話を、握ったまま、何度か頷いた。
頷きの一回ごとに、胸の中の、最後に残っていた風の冷たい部分が、すこしずつ和らいでいった。
しばらくして、俺は立ち上がった。
廊下の毛布を、最後まで、畳み終えた。
養生は、完了させなければ、ならなかった。
ばあちゃんが、そう、教えてくれたから。
俺は桐箪笥を、丁寧に布で包み直した。
軍用毛布、隅当て、養生テープ。いつもの手順で。
でも、運ばないことにした。
代理人に、電話した。代理人は出なかった。留守電に「廃棄業者に廃棄せず、どこか博物館にお願いできないでしょうか」とだけ、吹き込んだ。
返事は、来なかった。それでよかった。
その日の夜、俺は、トラックを一人で運転して、会社に戻った。
黒田先輩は、失踪扱いになっていた。
社長は青ざめて、警察を呼んでいた。
俺は現場で先輩の姿が消えました、自分にもわかりません、とだけ言った。
警察は、俺の作業日報を確認した。日報には、いつも通り、「養生:完了」と書かれていた。
黒田先輩の項目にだけ、空欄があった。空欄のまま、捜索は、数日後に打ち切られた。
黒田先輩は、行方不明者リストに、載った。
会社では、誰も彼の話をしなくなった。
葬儀の日が来た。
ばあちゃんの葬儀だった。
小さな式場に、家族と親戚だけが集まった。
みんな、ばあちゃんが俺のことを忘れていたことを、知っていた。
だから、誰も俺に何も言わなかった。
俺も、ただ、棺の前で、頭を下げた。
遺影のばあちゃんは、若い頃の写真だった。白い割烹着を着て、毛布の山の前で、笑っていた。たぶん、家業を手伝っていた頃の写真。
俺は、遺影に向かって、心の中で呟いた。
ばあちゃん、養生、完了したよ。
世界もすこし丁寧に運べたよ。
遺影のばあちゃんは、相変わらず、笑っていた。




