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引越し作業員が異世界転生したら世界が引越し中でした  作者: もしものべりすと


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第十八章 白い花の輪

別れは、独立した一日として、用意された。


 神官の長は、儀式の場を、新しい大地の中央広場に整えた。


 朝の空気はまだ新しい大地特有の、淡い乾燥の匂いがした。新しい土地の土は、住み始めて間もない頃、必ずこういう匂いをする。植物の根がまだ深く張っていないからだ。風が地面の表面の細かい砂を軽く舐めていく。砂は、靴の踵の隙間に、すこしだけ入った。


 大陸中の代表が集まった。元帝国の良心派からは、ガレシウス公が、遠路はるばる来てくれていた。彼は、もう杖をついていた。けれど、背筋を、可能な限り、立てていた。


 俺は、彼の前に行き、深く頭を下げた。


「ガレシウス公。あなたの密書がなければ、俺たちは、もっと多くの人を、失っていました」


 彼は笑った。


 笑い皺の奥に、四十年以上前のタコの跡を、彼は、もう一度撫でた。


「貴公、わが密書の欄外の一行を、覚えているか」


「はい」


「あれは、わたしの、もうひとつの履歴書だった」


「現場の言葉、でしたね」


「左様」


 彼は頷いた。


「貴公の現場の言葉が、わたしの、忘れかけていた言葉を、思い出させてくれた」


「いえ、お互いさまです」


「お互いさま、という言葉は、貴公の世界の言葉か」


「はい」


「いい言葉だ。新しい大地の議会で、わたしは、その言葉を、最初に使うことにする」


 彼は、俺の手を、両手で握った。


 彼の手のひらは、薄かったが、握りの強さは、若い時の名残をまだ握っていた。


 若いアグも、既に新しい大地の警備隊長になっていた。彼の顔つきは、最初に見た時の唇を噛んだ若者から、ずいぶん落ち着いた人間の顔に、変わっていた。


「ミサキさん」


「アグくん」


「俺もう唇は噛みません」


 彼は、そう言って、笑った。


 笑った時に、彼の口元に、すこしだけ傷の跡があった。長く、噛み続けた跡だった。傷は、これからゆっくり薄くなっていくだろう。彼の警備の任は、彼自身の口元の傷もたぶん養生していた。


 マルゲンは、新王国の宰相に推挙されていた。彼は、俺の前に立ち、深く礼をした。


「貴公がいなければ、我々は、ここに立っていない」


「マルゲンさん。あなたがいたから、皆、動けた」


「貴公、最後にひとつ、頼みがある」


「はい」


「貴公の世界の、養生という言葉。我らがいただいて、よいか」


 俺は、微笑んだ。


「もう皆さんの、言葉です」


「感謝する」


 マルゲンは、深々と頭を下げた。俺も、同じ深さで返した。


 頭を下げた時、マルゲンの左頬の傷が、朝の光の中でふっと見えた。


 その傷は、昨日までよりもすこし薄かった。


 誰かを送り出すことに、彼はようやく慣れたのかもしれなかった。


 あるいは、慣れた、というよりも、痛みの場所が、変わったのかもしれなかった。


 次に、エリィが来た。


 彼女は、白い花を編んで作った輪を、俺の首にかけてくれた。


 花の匂いは、青臭くて、わずかに甘かった。萎れる前の、生きた匂いだった。


 花は、新しい大地で最初に咲いたものだ、と、彼女は、言った。


 最初に咲いた花を編むのにたぶん彼女は、一晩を使った。指先に、花の汁の薄い緑色が、残っていた。


「養生さま」


「うん」


「もし、向こうの世界で、誰かが養生さまの仕事を見て、馬鹿にすることが、あったら」


「うん」


「私は信じてるよ、って」


「……」


「私たち、みんなずっと信じてるよ」


 俺は、何も言えなかった。


 彼女の手を、握った。


 彼女の手はもう震えていなかった。


 握り返してくる力は、すこし強くなっていた。震えのなくなった指は、握りを、ためらわない。


「養生さま、最後にひとつだけ、頼んでもいい?」


「うん」


「サンダルの紐、もう一回、巻いて」


 彼女は、足を、すこしだけ前に出した。


 革紐はもうしっかりしていた。テープで巻く必要はもちろんなかった。


 俺は、それでもテープを取り出した。


 巻きながら、俺は最後の養生のつもりで、指を動かした。


 指を一本、入れる隙間を、残す。


 彼女が、ここから先、自分で動ける余白を、残す。


 巻き終えると、彼女はふっと笑った。


「ありがとう」


「いえ」


「養生さまの神経質、好きだったよ」


「……ありがとうございます」


「そっち向きで言うと、変な感じ」


 彼女は笑った。


 俺も、笑った。


 二人の笑い声が、朝の空気の中ですこし混ざった。


 混ざった笑い声を、マルゲンが、すこし離れたところで、目を細めて、見ていた。


 別れ際、エリィは、涙をぐっとこらえて、笑った。


「いってらっしゃい、養生さま」


「いってきます」


 神官の長が、文様を、地面に描いた。


 俺を、この世界に呼び込んだのと、同じ文様だった。


 地面が、淡く、光った。


 俺の足元で、見慣れた桐箪笥の文様が浮かび上がった。


 俺は、最後に振り返った。


 マルゲンが、敬礼していた。


 ガレシウス公が深く頭を下げていた。


 アグが、拳を、胸に当てていた。


 各地の現場主任たちが、毛布で養生された荷馬車の上から、こちらを見ていた。


 数えきれない人々が、新しい家の前から、手を振っていた。


 みんな、何も言わなかった。


 ただ、頷いていた。


 俺も深く頷き返した。


 光が、強くなった。


 俺の体が、引き込まれた。


 最後に、エリィの「ありがとう」が、聞こえた気がした。


 目の前が、真っ白になった。


 二つの月が、遠ざかっていった。


 白と、銀の光が、最後に一度だけ、瞼の裏で混ざり合い、ほどけた。


 ほどけた光の最後の一筋に、ばあちゃんの手のひらの温度がふっと似ている気がした。

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