第二十二章 終わりの光景
春の彼岸。
俺は一人でばあちゃんの墓に来ていた。
郊外の小さな霊園は、小高い丘の上にあった。墓石は石の年代がそれぞれ違い、新しいものほど黒く、古いものほど薄灰の色をしていた。風が、その色のあいだを、ゆっくり吹き抜けていった。
俺はバケツに汲んだ水で墓石を洗った。水ぶき、空ぶき。桐箪笥を養生する時の丁寧な手つきで。
墓石の角に、長年の風雨で出来た小さな欠けがあった。
そこに、ハンカチを当てて、優しく水を吸わせた。
墓石にも養生は必要だった。
花を供えた。
白い花を中心に、淡い色をいくつか。ばあちゃんが、若い頃、割烹着の前に挿していたような、地味で品のある色。
線香をあげた。
白い煙がまっすぐ立ち上った。
風はあるのに、煙だけは不思議とまっすぐだった。
俺は墓石の前で、しゃがみ込んだ。
「ばあちゃん」
声に出して呼んだ。
誰もいない丘の上で、声がすうっと消えていった。
「報告しに来たよ」
俺は懐から一冊のノートを取り出した。
養生引越の社内マニュアル。最初のページの五ヶ条。ばあちゃんの言葉がその下に書かれている。
ノートを墓石の手前の平らな石の上に開いた。風で頁がめくれないようにハンカチの端で押さえた。
「会社、ね。社員、六人になった。みんな、いい子だよ」
風が線香の煙をすこしだけ揺らした。
「コウタくんは、もう一人前。新人のサオリさんっていう女の子も、入った」
「リエさんは、子どもを連れて事務所に来るようになった。子どもね、毛布で遊ぶの、好きみたい」
「ミゲルくんは、結婚した。奥さん、料理が上手い。事務所に時々、お弁当持ってきてくれる」
「高橋さんは、相変わらず、依頼主の昔話を聞いてる。ノブコさんは、相変わらず、お茶を入れてる」
俺は、ぽつぽつ話した。
誰にも話さない、家族のような会社の、家族のような話だった。
話しているうちに、自分の声の温度がすこしずつ戻ってくるのを感じた。声を出すことも、ひとつの養生なのかもしれなかった。
俺は深く息を吸った。墓地の春の空気は、湿っていた。湿っているのに、重くなかった。
「ばあちゃん、俺ね、向こうの世界にも、行ってきたよ」
声に出してから、自分でもすこし笑った。
信じてもらえる話ではなかった。けれど、ばあちゃんになら、言える気がした。
言える気がしたから言ってきた、というそれだけのことだった。
「月が、二つあった世界。みんな、家を失って、新しい大地に移らなきゃならない世界」
「俺、養生したよ。世界を」
「ばあちゃんが、教えてくれたやり方で」
風は相変わらず、線香の煙をすこしだけ揺らしていた。揺らすのに、煙はまっすぐな線を保とうとしていた。
「あの世界に、エリィって女の子がいてね。元気でやってる。もう夢にも、出てこなくなった。それは、彼女が、もう俺なしで歩けるようになった、ってこと」
「マルゲンさんも、アグくんも、みんな、新しい大地でちゃんと暮らしてる」
「黒田先輩は……いなくなったよ。自分の選んだ道の、果てで」
俺はしばらく口を、閉じた。
黒田先輩の名前を墓前で言ったのは、初めてだった。
言ったあと、罪悪感のような、けれど少し違う感情が胸の真ん中に降りた。
あの夜、彼が言いかけた言葉を俺は知らない。
知らないまま、覚えている。それがたぶん俺がまだやれる養生なのだった。
「ばあちゃん、俺、誰のことも、恨まないで済んでる」
「あの先輩のことも、嫌いだったけど、最後は、ただ、養生してあげたかった」
「うまく、できなかったけどね」
「先輩の妹さんも、いい人だった。古い軍手、片方、返してくれた」
俺は胸ポケットから軍手を取り出した。
黒田先輩のロッカーから出てきた左手の軍手。
もう使っていなかった。けれど、毎日、持ち歩いていた。
俺はそれを墓石の角にそっと置いた。
「ばあちゃん、これ、預かっといて」
「先輩の代わりに」
軍手の繊維が風に軽く揺れた。
軍手は墓石と同じ角度で、墓石の上に収まった。
収まりがよかった。最初からそこにあったみたいな収まり方だった。
「ばあちゃん」
「うん」
「俺、ようやく自分の養生ができるようになってきたよ」
声がすこしかすれた。
「自分のこと、誰よりも傷つけてた時期が長かったから」
「でも、いまは、自分も養生してる」
「ちゃんと、休む。ちゃんと、食べる。ちゃんと、寝る」
「会社の仲間が、それを、教えてくれた」
俺はノートをふたたび胸に抱えた。
「ばあちゃん、俺、いまたぶん、人生で一番温かい場所にいるよ」
「冷たいトラックの荷台じゃなくて、ストーブのある事務所で毎日お茶を飲んでる」
「窓の外で月が一つ出てる」
「白い月だけ出てる」
「それで、十分」
風がまた線香の煙を揺らした。
今度は煙のまっすぐな線がすこしだけ崩れた。崩れた線が空中でふっと丸い形になり、それからほどけた。
俺は、墓石にそっと触れた。
墓石は冷たかった。けれど、その冷たさはもう寂しい冷たさではなかった。ただの石の冷たさだった。
春の昼の石の冷たさは、優しい類のものだった。
「ばあちゃん」
「うん」
「ありがとう、ね」
俺は深く頭を下げた。
頭を上げた時、目の縁に温かいものが滲んでいた。
悲しい涙ではなかった。
立ち上がろうとした時ふと墓石の隣の、小さな野草に、気づいた。
名前のわからない白い小花。
俺はそれを一輪、根元から、摘んだ。
摘みながら、その場所に軽く土を、寄せた。
次の花がそこに咲けるように。
花にも養生は必要だった。
摘んだ一輪を、ノートに、挟んだ。
乾いたら押し花になりそうな小花だった。
「ばあちゃん、これ、もらうね」
俺は、もう一度墓石に、頭を下げた。
帰り道、丘を下りながら空を見た。
昼間なのに、白い月が、薄く、浮かんでいた。
春の青空に溶け込みそうな薄い白い月。
月は一つだった。
二つだった頃の自分がもう遠い夢のようだった。
けれどその夢を、今の自分がここに連れてきた。
俺はふっと笑った。
その風の中に、ばあちゃんの声がする気がした。
怜、養生、忘れちゃだめだよ。
俺は頷いた。
忘れない。ぜんぶぜんぶ忘れない。
夏の朝。
俺はいつものように、事務所の鍵を開けた。
まだ薄暗い時間だった。けれど、外の空気はもうぬるかった。
夏はトラックの荷台が冷蔵庫の中身に近い温度になる季節とは、対極の季節。
季節はちゃんと巡っていた。
事務所のドアを開けると、ノブコさんがすでに来ていてお茶の準備をしていた。
「あら、社長、おはよう」
「おはようございます」
俺はストーブの代わりに、扇風機を、つけた。
ぶうん、と優しい音がした。
壁に貼った五ヶ条の紙が、扇風機の風に軽く揺れた。
高橋さんが達筆で清書してくれた紙の、墨の香りはもう抜けていた。
扇風機の風は紙を傷めない強さに調整してあった。
たぶんノブコさんが毎朝調整しているのだ。
誰も気づいていない調整が、家にはたくさんある。
しばらくしてコウタくんが入ってきた。
最近、彼は社員の中で一番早く出社する。
俺の朝の動作をいつのまにか引き継いでいた。
「おはようございます、社長」
「おはよう」
「今日の現場、確認しておきました」
「うん、ありがとう」
彼は軽トラの鍵を取り、外で点検を始めた。
軽トラを磨く音、養生材の点検音。
それは俺がかつて一人でやっていた作業だった。
今は彼が、自分からやる。
誰に頼まれたわけでもない。
社内マニュアルの第二条が、彼の手に染みている。
次にサオリさんが入ってきた。
もう新人ではなかった。入社してしばらく経っていた。
手は現場の手になっていた。
「おはようございます」
「おはよう」
「今日のお客さん、確認しました。引っ越し先までの動線もう頭に入ってます」
「うん、よろしく」
彼女は、コウタくんを手伝うためにすぐ外に出た。
ミゲルくんが奥さんと生まれたばかりの赤ん坊を連れて、事務所の前を通った。
奥さんを駅まで送る途中だった。
「シャチョー、おはよう」
「おはよう。赤ちゃん、元気?」
「げんき。よく寝るデス。よく飲むデス」
「いい子だね」
「シャチョー、抱っこしますか」
「いいの?」
俺はミゲルくんの赤ん坊を軽く抱いた。
軽かった。驚くほど軽かった。
桐箪笥よりもずっと温かい温度。
赤ん坊は、俺の腕の中でもぞもぞ動いた。
俺は無意識に、自分の腕を、毛布のように丸めて、赤ん坊の背中を、支えた。
「シャチョー、上手デス」
「うん、慣れた」
「ヨウジョウ、ね」
「うん。これも、養生」
しばらくしてリエさんが、自分の子どもの手を引いて入ってきた。
もう小学生になっていた。
「おじちゃん、おはようございます」
「おはよう」
「今日も、引越し?」
「うん、お引越し」
「人を、運ぶ?」
「うん。人と、物と、思い出を、運ぶよ」
女の子は、頷いた。
彼女には、養生という言葉がもうお母さんの仕事の言葉として、染み込んでいるらしかった。
最後に高橋さんが入ってきた。
杖をついていた。最近、膝が痛むらしい。けれどまだ現場には、行きたいと言ってくれていた。
「おはようございます。三崎社長」
「おはようございます、高橋さん。今日は、依頼主との会話、お任せします」
「ありがたい仕事だ。最後まで、続けますよ」
全員が揃った。
六人と、奥さんと赤ん坊と女の子。
小さな事務所が、夏の朝の光で明るかった。
扇風機の風は相変わらず、紙を傷めない強さで回っていた。
今日の現場は近所の高齢のご婦人の引越しだった。
長年住んだ家から子どもの家へ。
大きな仕事ではなかった。けれどご婦人にとっては、人生最後の引越しかもしれなかった。
俺たちは、いつも通り、丁寧に養生する。
みんな車に乗り込んだ。軽トラ二台。
ノブコさんが事務所で見送ってくれた。
ミゲルくんの奥さんと赤ん坊も、リエさんの女の子も、玄関先で手を振ってくれた。
俺は、運転席で、最後にもう一度事務所の窓を、見た。
扇風機の薄い影が、ガラス越しにゆっくり回っていた。
胸の奥が温かかった。
冷たいトラックの荷台で白い息を吐いていた朝。
黒田先輩が遅刻してきて舌打ちしていた朝。
誰にも気づかれない養生をしていた朝。
あの朝からもう何年が経ったろう。
俺の朝は変わった。
冷たい荷台から温かい事務所へ。
一人から、家族のような仲間と一緒へ。
誰にも気づかれない仕事から、客と仲間に深く頭を下げてもらえる仕事へ。
でも、俺がやっていることは、何も変わっていない。
ばあちゃんに教わった、たった一つのこと。
傷つけないこと。
それだけ。
現場のご婦人は、庭の梅の木の下で俺たちを待っていた。
白髪に薄い水色のセーター。
寒そうに見えたからまずノブコさんが──いや、ノブコさんは事務所にいたから、サオリさんがブランケットを膝にかけた。
「ご丁寧にありがとうね」
「いえ、これも、養生のうちです」
「あら、養生」
「うちは引越しの会社です。物だけじゃなく、いろんなものを養生します」
「あら。いい言葉ね」
ご婦人は、笑った。
俺たちは、まず家を、養生した。
床、壁、ドア、階段。
二階の和室に桐箪笥があった。
中サイズの、特に古いわけでもないが、ご婦人にとっては大事な箪笥。
「これね、私が嫁入りに持ってきた箪笥なの」
「はい」
「もう五十年、使ってる」
「立派な箪笥ですね」
「あんた、丁寧そうだから、安心して任せられる」
俺は深く頭を下げた。
いつも通り、毛布で全体を包み、隅当てを当て、テープで二重に巻いた。
コウタくんが横で同じ動作をした。
サオリさんがその横で補助していた。
俺たちは、桐箪笥を、二階から一階へ、慎重に運んだ。
階段の角は、すべて養生材で保護されていた。
箪笥の角も、すべて隅当てが、当てられていた。
無事に軽トラの荷台に積み込んだ。
ロープで固定。毛布で覆い、最後にもう一枚、養生用のシートをかけた。
ご婦人は、軽トラの後ろから深く頭を下げた。
「ありがとう、本当に丁寧に」
「いえ。お客様の人生のお手伝いをさせていただきました」
俺はそう答えた。
ご婦人は目を細めて笑った。
「いい言葉ね、養生。私もね、今日からその言葉使うわ」
「ぜひ、使ってください」
新居でも俺たちは、家全体を養生した。
桐箪笥を、ご婦人が指定した部屋の壁際に、丁寧に置いた。
毛布をはがし、隅当てを外し、テープを切った。
桐箪笥は傷一つなく、新居に立っていた。
ご婦人は桐箪笥に手を当てて微笑んだ。
「ありがとう。ちゃんと新しい家に来られたわね」
俺は深く頷いた。
全ての作業を終え、料金の精算をした。
ご婦人は息子さんと一緒に、玄関先まで見送ってくれた。
「あんたの会社ずっと続いてほしいね」
「はい」
「うちの息子も、いずれ引越しすると思うから」
「お任せください」
俺は深く頭を下げた。
軽トラに乗り込みながら、サオリさんがぽつりと言った。
「社長」
「うん」
「私、今日思いました」
「うん」
「お客さんの『ありがとう』が、すごく深いものなんだって」
「うん。深いよ。ぜんぶ深い」
彼女は深く頷いた。
軽トラを走らせながらバックミラーで、玄関先のご婦人を見た。
彼女はまだ手を振っていた。
息子さんが彼女の肩を抱いていた。
二人の影が夕方の光の中で優しく重なっていた。
俺は息を、吐いた。
夕方の光は、夕日の赤と、まだ青さの残る空と、二つの色を持っていた。
その二つはちょうど、俺の知っている二つの月の色に似ていた。
白と、銀。
ここではそれは、夕焼けの色としてひとつの空に混ざっていた。
その日の夜、事務所のデスクで作業日報を書いた。
日付。現場名。作業内容。使った養生材。関わった社員。
最後の欄に、いつもの一行を書く。
養生:完了。
ペンを置いて、俺は壁の五ヶ条を見た。
壁に貼られた達筆の文字。その下のばあちゃんの言葉。
胸の中の冷たい風はもうない。
ただ、温かい風が、扇風機の音と一緒にゆっくり揺れていた。
窓の外で月が一つ、空のいちばん高いところに昇っていた。
白い月だけだった。
それで十分だった。
俺は、最後にノートを閉じた。
明日また現場に、行く。
明日も、誰かの大事なものを傷つけずに運ぶ。
誰にも見えないかもしれない。
でも世界でいちばん大事な仕事だ。
ばあちゃんがそう言ってくれた。
俺はそれを信じている。
──了──




