第十六章 岩塊が落ちて
大移動の最終日。
古い大地は、悲鳴を上げていた。
地面が割れ、川が氾濫し、山が崩れた。いくつもの街が、砂のように沈んでいった。空の二つの月は、両方とも、血のような赤に染まっていた。
俺は南峠の上に立っていた。
最後の難民列を見送るためだった。
マルゲンが、隣にいた。
怪我は完全には治っていない。それでも、彼は肩を後ろに引いて立っていた。
俺の前を、最後の百人ほどが、ゆっくり通過していった。
子どもが、養生材の上を歩いた。老人が、誰かに支えられながら歩いた。若い母親が、赤ん坊を抱いて歩いた。背中の赤ん坊は、母親の肩越しに、俺と一瞬目が合った。何のためらいもない目だった。
全員、無事に渡った。
マルゲンが、各地の現場主任に手信号を送った。
各セクターの主任から、合図が次々に返ってきた。
ぜんぶの小回廊で、難民は、渡り終えていた。
「マルゲンさん」
「うむ」
「最後の養生を、しましょう」
俺は岩盤の隙間に、最後の楔を打ち込んだ。
大陸全体の振動を、均等に分散させるための最後の一打。打ち込む金属音が、岩の体内で長く響いた。
その瞬間、世界が、震えた。
古い大地は、ゆっくりと沈んでいった。
南峠は崩れた。けれど養生材が衝撃を受け止め、誰一人取り残されなかった。
大陸中の小回廊で、同じことが、起きていた。
俺たちは、新しい大地の縁に立ち、古い大地が遠ざかっていくのを見ていた。
その時、結界回廊の方角から、誰かの叫び声が、空気越しに伝わってきた。
遠目に、結界回廊の入口で、黒田准将の部隊が立ち往生しているのが見えた。
結界回廊は、本来の主回廊だった。けれど俺たちが小回廊を使ったため、回廊への力学が乱れていた。結界回廊は、開く前に閉じ始めていた。
黒田准将は、自分が押さえた回廊の中で、孤立していた。
部下たちはとっくに脱走していた。
残ったのは、黒田准将と、数人の腰巾着だけ。
俺は、マルゲンに告げた。
「もう一つ、養生をします」
「えっ」
「黒田先輩を、迎えに行きます」
マルゲンは、口を半分開いて、俺を見た。
「貴公──」
「はい」
南峠から、北の結界回廊まで、俺は、駆けた。
怪我した左腕は、まだ動かなかったが、足は動いた。
マルゲンと若い騎士たちが、ついてきた。
結界回廊の入口に着いたとき、足場は半ば崩れていた。
黒田先輩は、岩の上に立ち往生していた。顔は煤で黒く、鎧は外れかけ、髪は乱れていた。鎧の関節の革紐が、何箇所もほつれていた。あの日、俺が指摘したまま、彼は養生していなかった。
「先輩」
「……ミサキ」
黒田先輩は、呆然と、俺を見た。
俺は毛布の束を、こちらの岩から、向こうの岩へ、放り投げた。
毛布は、間の谷を渡り、黒田先輩の足元に落ちた。
「これを足場にして、こっちまで来てください」
黒田先輩は、震える手で、毛布を一枚拾った。
「お前──」
「先輩」
「なんで、来た」
彼の声には、ふだんの嘲りの音は、なかった。
俺は答えなかった。代わりに、もう一枚、毛布の束を投げた。
「先輩、傷んでます。鎧の関節もたぶん心も」
「うっせえ」
「だから、養生してください。来てくれれば、俺、巻きます」
黒田先輩は、何かを言いかけて、口を、開いた。
唇の形が、母音をひとつ、作りかけた。「お」とも「あ」ともつかない、息に近い形だった。それは怒鳴り声の口の形ではなかった。命令の口の形でも、嘲りの口の形でもなかった。たぶん、自分でも、何を言うか決まっていない口の形だった。
現場で人の口を、何百回となく、毛布越しに見てきた俺はその口の形を、知っていた。荷物を運ぶときの「もう少し」と「すみません」の中間に出る、誰にも教わらない口の形だった。
その瞬間、足場が、崩れた。
崩れる音が、岩のどこか深いところから、湿った布が裂けるような音で、湧き上がってきた。下から上へ。順序が、逆だった。
彼の体が、傾いた。
時間がふいに薄く伸びた。一拍が二拍に、二拍が四拍に。彼の鎧の留め金のひとつが、革紐を残して外側へ跳ねた。煤の混じった髪の一房が、額から離れて、宙に浮いた。耳のうしろで、煤の粒がいくつか、光を反射した。彼の目がふっと空を見た。それから、俺を見た。
俺は思わず手を伸ばした。
左腕は、動かない。腕の根元から、肩甲骨のあたりまで、骨の代わりに鈍い熱が走った。動かない腕を動かそうとしたとき、人の体は、痛みではなく、熱を返す。
右腕一本で、毛布の端を、最後の力で投げた。
毛布は、ふくらんで、ひと呼吸、空中で形を保った。風を孕んだ毛布は、ちょっとした生き物に見えた。
黒田先輩は、それを掴みかけた。
彼の指が、毛布の繊維のあいだに、半分まで、入った。爪の先までは、届かなかった。爪と、繊維のあいだにたぶん髪一本分の隙間があった。
目が、合った。
彼の目にはもう嘲りはなかった。
恐怖もなかった。
あったのはたぶんずっと長いあいだ、自分が誰にも見せなかった、なにか古い種類の困惑だった。困惑、というより、子どもの頃に取り落としたものを思い出した、その瞬間の表情に近かった。
俺はその表情を、憎めなかった。
最後に、彼は、何かを言いかけた。
唇が、もう一度息の母音を、作った。今度のは「す」とも「ご」ともつかない音だった。
けれど、岩塊が間に落ちて、声は届かなかった。
岩塊は、二つあった。古い大地の縁から、ほぼ同時に、ふたつの大きな塊が、垂直に、落ちた。最初の一つが、彼と俺のあいだの空中を、横に裂いた。続く二つ目が、それより少し低い位置で、谷の底へ消えた。岩同士のぶつかる音が、やや遅れて、地響きとして戻ってきた。
黒田先輩の姿は、崩れる古い大地と一緒に、見えなくなった。
最後の瞬間、俺の網膜には、彼の指のあいだから抜けていく毛布の繊維だけが、白い線として、焼き付いた。
その白い線が、消えるまでたぶん一秒もなかった。
けれど、その一秒は、あとから何度も、頭の奥で、再生されることになった。
俺は、膝をついた。
膝の下の岩は、温まっていた。たった今まで世界が震えていた岩は、人の手の温度に近い温度だった。岩は、揺れたあともしばらく生きていた。
俺は毛布のなかった右手を、岩に当てた。岩の温度はゆっくり引いていった。
誰も、何も言わなかった。
マルゲンがそっと俺の肩に手を置いた。
俺は深く息を、吐いた。
空の二つの月はいつのまにか白と銀の元の色に戻っていた。
古い大地はもうない。
俺たちは、新しい大地に、立っていた。




