夢
夢だと気づいたのは、ほんの些細な違和感だった。
視界がやけに暗い。
重たい空気。
耳に残るのは、一定のリズムで鳴り続ける機械音と、どこか遠くで鳴る通知音。
そして——身体が、ひどく重い。
「……まだ、終わんないの……?」
自分の声が、驚くほど掠れていた。
目の前にはパソコンの画面。白い光が、疲れ切った目に刺さる。開かれたままの資料、未送信のメール、積み上がったタスク一覧。
どれも見覚えがある。
というより——見覚えしかない。
(あぁ……これ……)
思考がゆっくりと繋がる。
ここは、前の私がいた場所。
会社。
デスク。
終わらない仕事。
カタカタカタ、とキーボードを叩く音が、自分のものなのかも曖昧になる。指は勝手に動いているのに、意識がついてこない。
視界の端に映るデジタル時計。
時刻は、午前二時を少し過ぎていた。
(……また、この時間)
ため息をつこうとして、うまく息が出ない。
喉が乾いている。
肩が痛い。
頭が、ぼんやりする。
「……何連勤だっけ……」
ぽつりと呟く。
答えは、すぐに浮かんだ。
(三十……?)
そこで、思考が一瞬止まる。
(三十連勤……?)
笑えるはずなのに、笑えない。
むしろ、笑い方を忘れてしまったみたいに、口元が動かない。
机の端には、飲みかけのエナジードリンク。ぬるくなったそれを一口飲んで、顔をしかめる。
「…うぇ…まず……」
当然だ。
何時間放置していたのかもわからない。
でも、それでも飲まないよりはマシだと思ってしまうあたりが、もうだいぶおかしい。
ふと、スマートフォンが震えた。
机の上で、控えめに光る画面。
誰かからの着信。
ぼんやりした視界のまま、それを手に取る。
表示された名前を見て、わずかに目を瞬かせた。
「……お母さん……?」
こんな時間に、珍しい。
一瞬だけ迷って、それでも通話ボタンを押す。
「……もしもし」
『あんた、起きてる?』
聞き慣れた声。
少しだけ呆れたようで、それでもどこか気遣うような響き。
「……うん、まぁ……仕事中」
『あんたまた無理してるでしょ』
「してないよ……普通……」
反射的にそう答えたけれど、自分でも説得力がないと思う。
沈黙が、数秒。
電話越しに、軽くため息が聞こえた。
『あのね、ちょっと聞きたいことがあって』
「……なに?」
『あんたの部屋、片付けてたらさ。本がいっぱい出てきたんだけど』
「本……?」
記憶を探る。
けれど、すぐには思い当たらない。
『恋愛小説?みたいなの。やたらキラキラしたやつ』
その一言で、何かが引っかかった。
頭の奥に、かすかな違和感。
「……恋愛……小説……?」
『そうそう。捨てていいの?それとも送る?』
言葉を聞きながら、ぼんやりと画面を見つめる。
白い光が、じわじわと滲む。
恋愛小説。
キラキラ。
中学生の頃。
——あれ。
(……あぁ)
何かが、ゆっくりと浮かび上がる。
放課後の教室。
友達と笑いながら回し読みしていた本。
ページをめくるたびに、胸が高鳴った感覚。
現実とは違う世界に、夢中になっていた時間。
「……あったかも……そういうの」
思わず、ぽつりと漏れる。
『でしょ?タイトルもなんかすごいよ。“婚約破棄から始まる〜”とか、“悪役令嬢が〜”とか』
その瞬間。
胸の奥が、強くざわついた。
(……悪役令嬢?)
どこかで聞いた言葉。
でも、それだけじゃない。
もっと、何か——
「……ねぇ、それ……」
言いかけて、言葉が止まる。
頭の奥で、ノイズのような感覚が走る。
思い出しかけた何かが、指の隙間からこぼれていくみたいに掴めない。
「……なんでもない」
『何よ急に』
「いや……ちょっと、懐かしいなって」
誤魔化すように笑う。
けれど、電話越しの母は少しだけ声を柔らかくした。
『あんた、あの頃好きだったもんねぇ。毎日読んでたじゃない』
「……そんなに?」
『そんなに。寝る前も読んでたし、休みの日なんて一日中じゃなかった?』
言われて、ぼんやりと頷く。
確かに、そうだった気がする。
現実がつまらなかったわけじゃない。
でも、あの物語の中には、確かに惹かれるものがあった。
「……送ってもらおうかな」
気づけば、そう口にしていた。
『いいけど、ちゃんと読む時間あるの?』
「……ないかも」
苦笑する。
今の生活では、そんな余裕はない。
それでも——
「でも、ちょっとだけ……思い出したくて」
自分でも不思議な言葉だった。
何を思い出したいのか、はっきりしているわけじゃない。
ただ、胸の奥に引っかかる何かがある。
『ふーん……まあいいけど。無理しないでよ』
「……うん」
『ちゃんと寝なさいよ』
「……善処します」
軽口を返すと、電話の向こうで小さく笑う気配がした。
『じゃあ切るね』
「うん、おやすみ」
通話が切れる。
画面が暗くなる。
静寂が戻る。
その中で、私はしばらく動けなかった。
(……悪役令嬢…か…)
その言葉だけが、頭の中で何度も反響する。
さっきまでぼんやりしていた思考が、少しだけ輪郭を持ち始める。
けれど、決定的な何かには届かない。
手を伸ばせば届きそうなのに、あと一歩のところで遠ざかる感覚。
「……なんだっけ……」
小さく呟く。
答えは、出ない。
ただ、胸の奥に残る違和感だけが、じわじわと広がっていく。
やがて、視界がゆっくりと滲み始める。
画面の光がぼやける。
音が遠のく。
意識が、沈んでいく。
(……あぁ……)
最後に浮かんだのは。
ページをめくる指先と、夢中になっていたあの頃の自分。
(……中学のとき……ハマってたな……)
そんな、どうでもいいようで——でも確かに大切だった記憶。
それをぼんやりと思い出しながら、私はゆっくりと意識を手放した。




