前世の記憶って大抵目覚めた時に思い出すー…はずなんですけど?
「……無意味ではなかったわね」
その一言は、思っていたよりもずっと長く胸に残った。特別な抑揚があったわけでも、感情が滲んでいたわけでもない。
ただ事実を告げるような、いつも通りの淡々とした声音だったはずなのに、なぜかその響きだけが耳の奥に引っかかって離れない。
廊下に差し込む光の中で、リリアーナはすでに元の無表情に戻っている。
さっき見えたわずかな揺らぎは、最初から存在しなかったかのように消えていた。それでも、確かに“何か”が違ったと感じてしまった自分がいる。
(……今の、何だったんだろう)
評価されたわけでもないし、褒められたわけでもない。
それなのに、切り捨てられなかったという事実だけが妙に重く残って、胸の奥をじわじわとざわつかせる。
ふと横顔を盗み見ると、整いすぎた輪郭も冷たい印象の瞳も変わらないはずなのに、さっきよりほんの少しだけ距離が遠く感じない気がした。
(……いや、ちょっと待って。今、私なに考えた?)
一瞬よぎった感情に、自分で戸惑う。かわいい、なんて、そんな言葉が頭に浮かびかけた気がして、慌てて否定しようとしたその瞬間、頭の奥に鋭い痛みが走った。
「っ……」
突然頭に衝撃が走り、足がもつれる。思わずこめかみに手を当てると、視界がわずかに揺れる。
何かを思い出しかけている感覚だけがはっきりしているのに、その“何か”が掴めない。むしろ、触れようとした途端に崩れていくような違和感があった。
断片的な光景が浮かんでは消える。選択肢のようなもの、知らないはずの画面、そして ——金色の髪の少女。
(……誰?)
追いかけようとした瞬間、ノイズのような感覚が思考を遮り、痛みが強くなる。まるでそれ以上思い出すことを拒まれているみたいに、記憶が歪んで遠ざかっていく。
「どうしたの」
低く落ちてきた声に顔を上げると、リリアーナがこちらを見ていた。
ほんのわずかに眉が寄っているだけなのに、それがはっきりと“気にかけている”とわかる変化だった。
「あ……いえ、大丈夫です」
反射的にそう答えると、リリアーナは数秒だけこちらを見つめ、その後静かに視線を外す。
「そう」
とだけ返して、それ以上は踏み込んでこない。その距離の取り方が、なぜか心地よく感じてしまう自分に気づいて、余計に戸惑う。
少しの沈黙のあと、気づけば口を開いていた。
「その、さっきのことですが」
と切り出すと、リリアーナは
「見ていたわ」
と即座に答える。責める響きはなく、ただ事実として受け止めているだけの声音だった。
「あなた、ああいうことはよくするの?」
予想外の問いに一瞬言葉が詰まるが、
「考えるより先に動く、という意味よ」
と続けられて、少しだけ考える時間が与えられる。迷った末に首を横に振ると、
「たぶん、今回だけです」
と正直に答えた。
すると、リリアーナはほんのわずかに目を細め、何かを測るようにこちらを見たあとで、小さく呟いた。
「なら、あれは偶然ではないわね」
「……え?」
思わず聞き返すが、それ以上の説明はなかった。彼女はすでに視線を外し、そのまま歩き出している。
「戻るわよ」
とだけ告げる背中を追いながら、言葉の意味を考えるが、結局答えは出ないままだった。
そして、その引っかかりは昼休みに形を変える。
中庭はご令嬢達の通う学園というイメージとは裏腹に、賑やかで、あちこちに人の輪ができている。
私は端の席に腰を下ろし、目立たないように過ごしていたが、自然と視線は一箇所に向いてしまう。
少し離れた場所に立つリリアーナは、やはり一人で、その周囲だけが不自然に空いていた。
(……やっぱり、誰も近づかないんだ)
そう思った瞬間だった。
彼女がふとこちらを見た。
ほんの一瞬、確かに視線が合う。気のせいかと思うほど短い時間だったが、その目はただの偶然ではなく、何かを確かめるような色を帯びていた。
次の瞬間、リリアーナが一歩踏み出す。
(……え)
心臓が小さく跳ねる。こちらに来るのではないかと、そんな考えが頭をよぎる。
けれど、その動きは途中で止まった。
「リリアーナ様、ごきげんよう!」
「本日も麗しゅうございますわ〜」
明るい声とともに、数人の令嬢たちが彼女の周囲に集まる。
取り巻きというより、様子を窺いながら距離を詰めるような存在たちに囲まれて、彼女の進もうとしていた方向は完全に遮られた。
ほんの一瞬だけ、リリアーナの眉が動いた気がした。しかしそれもすぐに消え、
「何か用でして?」
と、扇を広げ、口元を隠した状態で、彼女達を見下すように笑った。
いつもの調子で返す声には、先ほど感じたわずかな変化はもう残っていない。
その光景を、私は少し離れた場所から見ている。
(……違う)
温室で感じた距離と、今ここにある距離はまったく別物だった。ほんの少しだけ近づいた気がしたのに、現実はあっさりとそれを引き離す。
(当たり前、なんだけど)
胸の奥が、わずかに重くなる。近づこうとしているわけではないのに、自分が“あちら側ではない”と改めて突きつけられたような感覚だった。
そのまま視線を落とし、何事もなかったように昼休みをやり過ごす。
けれど、その感覚は帰宅しても消えなかった。
食事の最中も、ふとした瞬間に思い出すのは彼女のことばかりで、気づけば手が止まっている。味はわかるのに、意識がそこに向かない。
「手が止まっているぞ。学園でなにかあったのか」
「なんでもございませんわ、お父様」
目覚めた直後心配だった礼儀作法や言葉遣いも、この体ー…エリシアが覚えていたからか、すんなりできるようになったわね。
(でも…なんでこんなにリリアーナのことが気になるの…)
たった一言と、ほんの一瞬の変化。
それだけのはずなのに、何度も繰り返し思い出してしまう。声の温度も、視線の揺れも、昼休みのあの途切れた距離さえも、やけに鮮明に残っている。
湯浴みの時間になっても同じだった。
湯気の中で目を閉じれば、余計に思考はそちらへ引っ張られる。
(……変なの、本当に)
自分でそう思いながらも、止められない。そしてもう一つ厄介なのが、あの思い出しかけた“何か”だった。頭の奥に引っかかっているのに、触れようとするとノイズが走って遮られる。
(絶対、何か忘れてる)
(だって、前世の記憶が全て断片的なんだもの)
前世はどんな人間だった?どこに努めていた?いくつの年頃だった?
──どうして死んでしまったの?
時々頭痛とともに見える景色にも、違和感と確信だけが残るのに、その先に進めないもどかしさがじわじわと広がる。
「……何なのよ、これ」
小さく呟いても答えはない。
その夜、ベッドに入っても状況は変わらなかった。目を閉じた瞬間に浮かぶのは、やはりあの横顔とあの言葉。
『……無意味ではなかったわね』
(もういいってば……)
枕に顔を押し付けても、記憶は消えない。むしろ鮮明になっていく。
(……困るんだけど、本当に)
小さくため息をつく。ほんの少しだけ縮まった気がした距離と、すぐに引き戻された現実。その両方が頭から離れず、意識を何度も引き戻してくる。
そして結局——その夜は最後まで、リリアーナのことが頭から離れることはなかった。




