第六話「婚約破棄と、妖精姫の選択」
王宮に、ひとつの噂が広がっていた。
第一王子エドワードが、グランツ辺境伯令嬢ベルベットとの婚約を解消しようとしている。
その理由は、彼女が王妃マルグリットの不正を告発し、王家に恥をかかせたからだという。
もちろん、それは事実とは異なる。
しかし、エドワードにとって重要なのは真実ではなかった。
自分の思い通りにならない婚約者を追い出し、新しい後ろ盾を得ること。
ただ、それだけだった。
***
「ベルベット嬢との婚約を解消する」
王宮の会議室。
エドワードは国王ローデリックの前で、堂々とそう宣言した。
「理由を聞こう」
「彼女は王家に忠誠を尽くしておりません。母上を告発し、僕にまで反抗しました。あのような女性を王妃に迎えることなどできません」
「……それだけか?」
「それだけで十分でしょう!」
国王は目を閉じた。
息子は、まだ何も理解していない。
「ベルベット嬢は王家を裏切ったのではない。国を守ろうとしたのだ」
「父上まで彼女の味方をするのですか!」
「味方かどうかの問題ではない。何が正しいかの問題だ」
「もう結構です! 僕は婚約を解消します!」
エドワードはそう言い残し、会議室を出ていった。
国王はその背中を見送りながら、深く息を吐いた。
「……あの子は、自分が何を失おうとしているのか分かっていない」
***
数日後。
王宮の大広間には、主要な貴族たちが集められていた。
第一王子エドワードが、正式に婚約解消を発表するためだった。
ベルベットは父アルベルト、母エレノアとともに会場へ入った。
ーーいつもと変わらぬ美しい姿。
黒髪は艶やかにまとめられ、紫水晶の瞳には一切の迷いがない。
貴族たちは小声で囁き合っていた。
「本当に婚約を解消するつもりなのか?」
「グランツ辺境伯家を敵に回して大丈夫なのか?」
「王太子殿下は何をお考えなのだろう……」
やがてエドワードが壇上へ上がった。
「本日は重要な発表がある!」
広間が静まり返る。
「私は、ベルベット・フォン・グランツとの婚約を解消する!」
その瞬間、会場にざわめきが広がった。
エドワードは満足そうにベルベットを見た。
彼女が泣き出すか、取り乱すとでも思っていたのだろう。
ーーしかし。
「承知いたしました」
ベルベットは静かに一礼した。
あまりにもあっさりとした返答に、エドワードの顔から笑みが消えた。
「……何?」
「殿下のお申し出、確かに承りました」
「お、お前は悔しくないのか?」
「何を悔しがる必要がございますか?」
「僕との婚約を失うのだぞ!」
ベルベットは不思議そうに首を傾げた。
「殿下。婚約とは、互いに国と家を支え、信頼し合うための約束ではございませんか?」
「そ、それがどうした!」
「信頼がないのであれば、続ける意味はございません」
広間が静まり返った。
ベルベットは一歩前へ進み、エドワードをまっすぐ見つめた。
「わたくしは、王太子妃になるために生きているわけではございません。グランツ辺境伯家の娘として、この国を守るために生きております」
そして、穏やかな声で告げた。
「殿下との婚約がなくなりましても、わたくしの責務は変わりませんわ」
エドワードは言葉を失った。
彼はベルベットが自分に執着していると思い込んでいた。
だが、彼女にとって婚約は人生のすべてではなかったのだ。
***
「それでは、グランツ辺境伯家は今後も王家に協力するということか?」
貴族の一人が尋ねた。
アルベルトが静かに答える。
「我が家は王家の私物ではありません。国と領民を守るために存在しております」
「しかし、王家との関係が悪化すれば、辺境伯家の立場も危うくなるのでは?」
「我が家が恐れているのは、王家との関係悪化ではありません」
アルベルトは会場を見渡した。
「王家が国を守る責務を放棄することです」
その言葉に、何人もの貴族が目を伏せた。
彼らもまた、王宮の不正を知りながら声を上げられなかった者たちだった。
「我が家は今後も国境を守ります。必要な物資も兵士たちへ届け続けます。それを妨げる者がいるならば、相応の対応をいたします」
辺境伯の言葉に、誰も反論できなかった。
***
その頃、王宮の別室。
第二王子アレクシスは、側近から婚約解消の報告を受けていた。
「ベルベット嬢は、あっさり受け入れたそうです」
「そうか」
「第一王子殿下は、かなり動揺しておられたとか」
アレクシスは小さく息を吐いた。
「兄上は、彼女が自分の地位を望んでいると思っていたのだろう」
「違うのでしょうか?」
「違うだろうな」
アレクシスは窓の外を見た。
「彼女は、自分の立場よりも守るべきものを大切にしている。だからこそ、あれほど迷いなく行動できるのだ」
「殿下は、ベルベット嬢をどう思われますか?」
アレクシスは少し考えた。
「……もっと話をしてみたいと思っている」
それは、彼自身にも意外な感情だった。
王宮で出会う者たちは、彼が王子であることを意識して話す。
しかしベルベットは違った。
彼女は相手が王族であっても、正しいことを正しいと言う。
その真っ直ぐさに、アレクシスは惹かれ始めていた。
***
一方、婚約解消の発表を終えたベルベットは、王宮の庭園を歩いていた。
「ベルベット嬢」
声をかけられ、振り返る。
そこにいたのは第二王子アレクシスだった。
「アレクシス殿下」
「先日の話ですが、財務局の資料について、追加で確認したいことがあります」
「もちろんです。わたくしも父に相談したいことがございます」
「では、少しお時間をいただけますか?」
「構いませんわ」
二人は庭園の東屋へ向かった。
アレクシスは用意していた資料を広げる。
「新たに見つかった記録です。王妃の親族が関係する商会だけでなく、複数の貴族が不正な資金の流れに関与していました」
ベルベットは書類に目を通した。
「これは……」
「国境だけではありません。地方の領地でも、同じようなことが起きている可能性があります」
「すぐに調べる必要がありますわね」
「ただ、調査を進めれば、反発する貴族も増えるでしょう」
ベルベットは顔を上げた。
「それでも、止めるわけにはいきません」
「危険が伴います」
「危険だからといって、見て見ぬふりをする理由にはなりませんわ」
アレクシスは彼女を見つめた。
「あなたは、本当に強い方ですね」
「剣の腕のことでしょうか?」
「いいえ。ご自身の信じることを曲げない、その心のことです」
ベルベットは少しだけ頬を緩めた。
「殿下も、同じではありませんか?」
アレクシスは答えず、静かに微笑んだ。
そのとき、東屋の外から慌ただしい足音が聞こえた。
「殿下! 大変です!」
側近が駆け込んできた。
「どうした?」
「第一王子殿下が、ヴァルド公爵家と関係の深いハーゼル公爵令嬢との婚約を進めておられます!」
アレクシスの表情が険しくなった。
「ハーゼル公爵家……?」
ベルベットも書類から顔を上げる。
ハーゼル公爵家は、王宮財務局の不正に関わる商会と深いつながりを持つ一族だった。
「兄上は、何も反省していないのか……」
アレクシスが呟く。
ベルベットは静かに立ち上がった。
「殿下。これは単なる婚約の問題ではございません」
「ええ。分かっています」
「王太子殿下が、新たな後ろ盾を得ようとしているのなら、その一族についても調べる必要がありますわ」
アレクシスは頷いた。
「協力をお願いします」
「もちろんです」
二人は同じ資料に目を落とした。
かつて王宮の不正を告発した少女と、静かに国の未来を見つめていた第二王子。
その二人が手を組んだことで、王宮の勢力図は少しずつ変わり始めていた。
***
その夜。
第一王子エドワードの私室には、ハーゼル公爵家の当主と令嬢が招かれていた。
「殿下。娘との婚約が成立すれば、我が家は全力でお支えいたします」
「うむ。これでグランツ辺境伯に頼らずとも、王太子としての力を保てる」
公爵は深く頭を下げた。
「もちろんでございます」
エドワードは満足そうに笑った。
しかし、彼は知らなかった。
ハーゼル公爵家が、ヴァルド公爵家とともに不正な資金の流れを支えていたことを。
そして、その証拠の一部が、すでに第二王子アレクシスの手に渡っていることを。
――王太子エドワードの選択は、さらなる破滅への扉を開こうとしていた。




