第五話 愚かな王子の命令と、静かなる第二王子
王妃マルグリットとヴァルド公爵家の関係者が拘束されてから、十日が過ぎた。
王都は大きな騒ぎに包まれていた。
国防費の横領だけでなく、孤児院への補助金や貧困地域への食料支援金まで不正に流用されていたことが明らかになったからだ。
民衆の怒りは日に日に高まり、王宮には連日のように抗議の声が届けられていた。
しかし、その状況をまったく理解していない人物がいた。
第一王子エドワードである。
「どうして僕がこんな目に遭わなければならないんだ!」
王宮の一室に、少年の怒声が響いた。
「母上は悪くない! 叔父上も悪くない! 全部グランツ辺境伯が仕組んだことだ!」
側近たちは何も答えられなかった。
「そうだ! ベルベットだ!」
エドワードは突然顔を上げた。
「僕の婚約者なのだから、あいつが父親を説得すればいいんだ!」
「殿下、それは少々難しいかと……」
「黙れ! 僕は王太子だぞ!」
エドワードは机の上にあった書類を床へ投げ捨てた。
「すぐにベルベットを王宮へ呼べ! 命令だ!」
その命令は、グランツ辺境伯領へ届けられた。
***
グランツ辺境伯邸。
ベルベットは父アルベルトとともに、王宮から届いた書状を読んでいた。
そこには、第一王子エドワードの命令が記されていた。
『第一王子婚約者ベルベット・フォン・グランツは、直ちに王宮へ参上すること。なお、辺境伯家は王家への忠誠を示すため、現在進めている独自の軍事物資調達を停止せよ』
ベルベットは静かに書状を置いた。
「……お父様」
「どうした?」
「殿下は、何も理解されていないようですね」
アルベルトは深いため息をついた。
「残念ながら、そのようだ」
「王妃殿下たちが拘束された理由も、国民が怒っている理由も理解されていないのでしょう」
「それどころか、我が家が母君を陥れたと思っているらしい」
ベルベットは少し考えた後、顔を上げた。
「王宮へ参ります」
「ベルベット!」
母エレノアが心配そうに娘を見つめた。
「殿下が何をおっしゃるか分かりません。無理をする必要はありませんよ」
「大丈夫です、お母様」
ベルベットは優しく微笑んだ。
「わたくしは逃げているわけではありませんもの。それに、殿下が何をお考えなのか、直接確かめておきたいのです」
アルベルトはしばらく娘を見つめ、やがて頷いた。
「分かった。ただし、護衛をつける。何かあればすぐに戻ってくるのだ」
「はい。ありがとうございます、お父様」
こうしてベルベットは、再び王宮へ向かうことになった。
***
王宮の謁見の間。
そこには第一王子エドワードと、数人の側近たちが待っていた。
「遅いぞ、ベルベット!」
「お招きいただき、ありがとうございます。エドワード殿下」
ベルベットは優雅に一礼した。
エドワードは彼女の挨拶を無視し、いきなり声を荒らげた。
「お前の父親は何を考えているんだ!」
「何のことでしょうか?」
「母上と叔父上を陥れたことだ! すぐに父親へ命じて、調査をやめさせろ!」
ベルベットは一瞬だけ目を伏せた。
「殿下。調査は王宮監察官によって正式に行われております。わたくしに止める権限はございません」
「お前は僕の婚約者だろう!」
「はい」
「ならば僕の言うことを聞け!」
「殿下」
ベルベットは静かに顔を上げた。
「婚約者であることと、不正を見逃すことは別でございます」
「なっ……!」
「国防費の横領によって、兵士たちは必要な装備を与えられませんでした。食料支援金の不正によって、冬を越せなかった民もおります」
「そんなことは大げさだ!」
「大げさではございません。記録も証言も残っております」
「うるさい!」
エドワードは顔を真っ赤にした。
「お前など、ただの辺境伯の娘だろう! 僕が婚約を破棄すると言えば、それで終わりなのだぞ!」
その言葉に、ベルベットは少しだけ首を傾げた。
「殿下。それは婚約破棄をなさりたいという意味でしょうか?」
「そうだ! お前のような生意気な女など、僕の妃にはふさわしくない!」
謁見の間にいた側近たちが息を呑んだ。
しかしベルベットは、まったく動じなかった。
「承知いたしました。ですが、婚約については国王陛下の正式なご判断をお待ちくださいませ」
「何だと?」
「わたくしはグランツ辺境伯家の娘として、国と民を守る責務を忘れるつもりはございません」
ベルベットは深く一礼した。
「それでは、失礼いたします」
「待て! まだ話は終わっていない!」
だがベルベットは振り返らなかった。
その背中を見つめながら、エドワードは怒りに震えていた。
***
その様子を、謁見の間へ続く廊下から見ていた人物がいた。
第二王子アレクシス・フォン・ローゼンベルク。
第一王子エドワードの異母弟であり、王宮の表舞台にはほとんど姿を現さない少年だった。
年齢は十四歳。
銀色がかった淡い金髪に、澄んだ青い瞳。
整った顔立ちをしているが、その表情は穏やかで、どこか近寄りがたい静けさをまとっていた。
彼は側近の青年に尋ねた。
「今の令嬢が、グランツ辺境伯の娘か?」
「はい。ベルベット・フォン・グランツ嬢でございます」
「そうか」
アレクシスは、ベルベットが去っていった方向を見つめた。
「第一王子にあれほどのことを言われても、まったく怯まなかったな」
「それどころか、殿下の発言を冷静に受け止めておられました」
「……興味深い」
アレクシスは小さく呟いた。
彼は以前から、王宮財務局の不自然な支出について独自に調べていた。
王妃の実家であるヴァルド公爵家が不正に関与していることも、薄々察していた。
しかし、証拠が足りなかった。
そこへ突然、グランツ辺境伯家が動いたのである。
しかも、中心にいるのは十二歳の令嬢だった。
「兄上は、彼女を婚約者として大切にするつもりはないようだな」
「残念ながら……」
「ならば、なおさら会ってみたい」
アレクシスは静かに微笑んだ。
***
翌日。
ベルベットは王宮の庭園を訪れていた。
父から預かった追加資料を王宮監察官へ届けるためだった。
書類を渡し終え、帰ろうとしたとき。
「失礼。少しよろしいでしょうか?」
背後から穏やかな声が聞こえた。
振り返ると、そこには見知らぬ少年が立っていた。
淡い金髪に青い瞳。
仕立ての良い衣装を身につけた少年は、ベルベットより少し年上に見えた。
「何かご用でしょうか?」
ベルベットが尋ねると、少年は丁寧に一礼した。
「私はアレクシス・フォン・ローゼンベルク。第二王子です」
ベルベットはわずかに目を見開いた。
王宮の表舞台にほとんど姿を現さない第二王子。
名前こそ知っていたが、実際に会うのは初めてだった。
「ベルベット・フォン・グランツでございます。第二王子殿下にご挨拶申し上げます」
「こちらこそ。以前からお話は伺っていました」
「わたくしのことでしょうか?」
「ええ。剣術に優れ、軍事にも詳しく、領地の兵士たちからも慕われていると」
「まあ。少し大げさに伝わっているようですわ」
ベルベットが微笑むと、アレクシスも穏やかに笑った。
「そうでしょうか。昨日の兄上とのやり取りを見て、噂だけではないと分かりました」
「ご覧になっていたのですね」
「はい。兄上にあれほどはっきり意見を言える方は、王宮にはほとんどおりません」
「殿下は、第一王子殿下のご意見に賛同なさるのですか?」
ベルベットの問いに、アレクシスは少しだけ表情を引き締めた。
「いいえ。国を守る者たちの苦しみを知ろうともせず、王族という立場だけを振りかざすことは、正しいとは思いません」
その答えに、ベルベットの紫水晶の瞳がわずかに揺れた。
「……殿下は、国境の状況をご存じなのですね」
「ええ。兵士たちの待遇が悪化していることも、食料支援が滞っている地域があることも知っています」
「では、どうして何もなさらなかったのですか?」
ベルベットは遠慮なく尋ねた。
アレクシスは責められたとは思わなかった。
むしろ、その問いを待っていたかのように静かに答えた。
「私には、まだ十分な権限がありませんでした。そして、確かな証拠もなかった」
「そうですか」
「ですが、今は違います」
アレクシスは懐から一通の書類を取り出した。
「王宮財務局の内部記録です。国防費だけではなく、地方への支援金にも不正な流れがあることを示しています」
ベルベットは書類を受け取らず、まずその表紙に目を向けた。
「これは、どこから?」
「長年、財務局に勤めている者から預かりました。彼は不正を告発しようとして、職を失った人物です」
「その方は今も安全なのでしょうか?」
「私の保護下におります」
ベルベットはようやく書類を受け取った。
ページをめくるにつれ、その表情が真剣になっていく。
「……これは重要な資料ですわ」
「グランツ辺境伯家の調査と照合すれば、さらに多くの事実が明らかになるはずです」
アレクシスはベルベットを見つめた。
「ベルベット嬢。もしよろしければ、私と協力していただけませんか?」
ーーベルベットはすぐには答えなかった。
目の前の少年は王族である。
しかし、その言葉には兄や母とは違うものが感じられた。
権力を誇示するのではなく、自分にできることを探そうとしている。
「ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「もちろんです」
「殿下は、王位を望んでいらっしゃるのですか?」
アレクシスは少し驚いたように目を瞬かせた。
そして、静かに首を横に振った。
「王位そのものが欲しいわけではありません。ただ、この国を正しく治められる者が必要だと思っています」
「もし、その役目が殿下に回ってきたら?」
「逃げるつもりはありません」
その言葉を聞き、ベルベットは初めて心から微笑んだ。
「分かりました。わたくしも協力いたします」
「ありがとうございます」
「ただし、ひとつだけ条件がございます」
「何でしょう?」
ベルベットは紫水晶の瞳をまっすぐに向けた。
「わたくしたちが守るべきものは、王家の面目ではありません。国民の命と暮らしです。そのことだけは、決してお忘れにならないでくださいませ」
アレクシスは真剣な表情で頷いた。
「約束します」
二人の間に、静かな信頼が生まれた。
***
その日の夕刻。
王宮の執務室では、国王ローデリックが一人の人物と向かい合っていた。
「アレクシスがグランツ辺境伯令嬢と接触したそうだな」
「はい。どうやら、協力関係を結んだようでございます」
国王は目を閉じた。
「そうか……」
第一王子エドワードは、王族としての責任を理解していない。
一方、第二王子アレクシスは、表舞台に出ることなく国の現状を調べていた。
そして、その傍らにはグランツ辺境伯家の令嬢がいる。
「アルベルトの娘か」
国王は窓の外を見つめた。
「あの少女が、我が国の未来を変えることになるのかもしれんな」
しかし、そのとき国王の知らないところで、エドワードはある決断を下していた。
ベルベットに婚約を破棄される前に、自分から婚約を解消する。
そして、グランツ辺境伯家に代わる新たな後ろ盾を手に入れるため、別の大貴族の令嬢を婚約者に迎えようとしていた。
その相手は、ヴァルド公爵家と深い関係を持つ一族の娘だった。
愚かな王子は、まだ気づいていない。
自ら選んだその道が、王太子の地位だけでなく、自分自身の未来さえも失わせることになるのだと。
――妖精姫ベルベットと第二王子アレクシス。
二人の出会いは、王国の運命を大きく動かし始めていた。




