第三話 消えた軍事費と、辺境伯家の決断
グランツ辺境伯領に、冷たい北風が吹き始めた頃。
辺境伯アルベルトの執務室には、数冊の分厚い帳簿が並べられていた。
「……これは、間違いないのだな?」
アルベルトの声は低かった。
向かいに立つのは、辺境伯家の財務を長年担当している家令のセバスチャンである。
「はい。過去五年分の軍事費を調査いたしましたが、毎年相当額が本来の用途に使われておりません」
「具体的には?」
「国境警備用の武具購入費、兵士たちの食料費、砦の修繕費。いずれも予算として計上されているにもかかわらず、実際に届いた物資は帳簿の半分にも満たない状況です」
ーーアルベルトは帳簿を閉じた。
「差額はどこへ消えた?」
「王都の複数の商会を経由し、最終的には王妃殿下に近い貴族たちの口座へ流れております」
沈黙が落ちた。
その金額は、決して小さなものではなかった。
国境に駐屯する兵士たちが一年間、安全に生活できるだけの金額。
それが王都の貴族たちの贅沢に使われていたのだ。
「……兵士たちは、冬用の外套が足りずに古いものを繕って使っているというのに」
アルベルトの拳が机を叩いた。
「砦の屋根も修繕できず、雪が降れば兵士たちは凍える。それなのに王都では新しい舞踏会場を建てていたというのか」
「はい」
家令は深く頭を下げた。
「さらに申し上げにくいことがございます」
「何だ?」
「軍事費の横領に、王宮財務局の高官が関与している可能性がございます」
アルベルトの目が細くなった。
「王家の中枢まで腐っているということか」
その頃、ベルベットは領地の兵士たちが暮らす宿舎を訪れていた。
「お嬢様! こんなところまでいらっしゃるとは!」
兵士たちは慌てて姿勢を正した。
「皆さん、どうか普段通りになさってください。今日は少しお話を聞きたくて参りましたの」
ーーベルベットは兵士たちの衣服を見つめた。
何度も繕われた外套。
擦り切れた手袋。
古くなった靴。
「今年の冬も、この装備で国境を守るのですか?」
兵士の一人が苦笑した。
「仕方ありません。予算が足りないのです」
「王都からの支給は?」
「届くことは届きますが、予定されていた数よりずっと少ないのです」
「それでも、皆さんは国境を守ってくださっているのですね」
「我々はグランツ家に仕える兵士ですから」
その言葉に、ベルベットは胸が締め付けられた。
彼らは自分たちの待遇に不満を言うことなく、厳しい寒さの中で国を守り続けている。
その努力を、王都の貴族たちは何だと思っているのだろう。
「分かりました」
ベルベットは小さく頷いた。
「今年の冬までに、新しい外套と手袋を全員分用意いたします」
「お嬢様! それは……」
「心配なさらないでください。必要なものを必要な場所に届けるだけですわ」
そして彼女は、兵士たち一人ひとりに微笑みかけた。
「皆さんが命を懸けて守ってくださるから、わたくしたちは安心して暮らせるのです。どうか、ご自身のお命も大切になさってくださいね」
兵士たちは深く頭を下げた。
その日、ベルベットは父に兵士たちの状況を報告した。
「お父様。王都からの軍事費が不足している件ですが、わたくしたちの領地だけの問題ではないのではありませんか?」
「どういう意味だ?」
「北部以外の国境も同じような状況になっている可能性があります」
アルベルトは娘を見つめた。
「確かに、その可能性はある」
「でしたら、他の辺境伯家にも確認するべきです。王都が軍事費を横領しているのであれば、被害を受けているのはわたくしたちだけではありません」
「……なるほど」
「それに、軍事費を横領している者たちがいるなら、彼らは証拠を隠すでしょう。今のうちに記録を確保しておくべきです」
アルベルトは感心したように笑った。
「お前は本当に十二歳なのか?」
「十二歳ですわ」
「そうだったな」
父娘は顔を見合わせて笑った。
だが、ベルベットの表情はすぐに真剣なものへと変わった。
「お父様。ひとつお願いがございます」
「何だ?」
「兵士たちの待遇改善に、王都の許可を求めないでください」
アルベルトは目を見開いた。
「それは……」
「国を守るために必要な物資を購入するのに、どうして王都の許可が必要なのでしょうか。兵士たちの命より、王都の面子が大切だというのであれば、そんな仕組みは間違っています」
父はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「分かった。必要な物資はグランツ家の財産から購入する」
「ありがとうございます」
「ただし、王都に対する調査は続ける。証拠を揃えなければ、連中は必ず言い逃れをするだろう」
「はい」
こうしてグランツ辺境伯家は、王都の許可を待つことなく兵士たちへの物資補給を開始した。
ーー数週間後。
王宮では、ある報告を受けた王妃が声を荒らげていた。
「何ですって? グランツ辺境伯家が独断で軍事物資を購入した?」
「はい。国境警備に必要な外套や武具を、独自の資金で購入したとのことでございます」
「なぜ王宮に相談しなかったのです!」
「軍事費が不足しているため、やむを得ずとの説明でございます」
王妃は扇を乱暴に閉じた。
「無礼な! 王家の許可もなく軍事に関することを勝手に決めるなんて!」
そこへ、第一王子エドワードがやってきた。
「母上、どうしたのです?」
「グランツ辺境伯家が勝手なことをしているのですよ」
「ふん。辺境伯なんて、王家に仕える臣下でしょう? 少し強く言えば言うことを聞くはずです」
王妃は息子の言葉に満足げに微笑んだ。
「そうね。あなたから命令なさい」
「分かりました。ベルベットにも言っておきます。僕の婚約者なのだから、父親に言うことを聞かせろと」
王妃は嬉しそうに頷いた。
その二人は、グランツ辺境伯家がどれほどの軍事力を持つのか、まるで理解していなかった。
翌日。
ベルベットは王宮に呼び出された。
王妃の私室には、王妃とエドワードが待っていた。
「ベルベット、こちらへいらっしゃい」
「お招きいただき、ありがとうございます。王妃殿下」
「あなたのお父様のことなのですが」
王妃は扇を広げた。
「最近、少々勝手が過ぎるようですね」
「勝手、でございますか?」
「王宮の許可もなく軍事物資を購入したそうではありませんか。王家の権限を軽んじているのではないですか?」
ベルベットは静かに答えた。
「兵士たちに必要な物資が不足しておりましたので、補充したと聞いております」
「それは王家が判断することです」
「では、王妃殿下にお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何です?」
「国境の兵士たちに支給されるはずだった軍事費が、どこへ消えたのかご存じでしょうか?」
王妃の手が止まった。
「……何を言っているの?」
「五年分の軍事費の帳簿を調べましたところ、計上された金額と実際に使用された金額に大きな差があるそうです」
「それは財務局の問題でしょう!」
「はい。ですから、調査が必要だと考えております」
「あなたは何を言っているの!」
王妃の声が高くなる。
だがベルベットは表情を変えなかった。
「王妃殿下。兵士たちは寒さに耐えながら国境を守っております。彼らが命を懸けているということを、お忘れにならないでくださいませ」
「小娘が! 王宮の財政に口を出すつもりですか!」
ーーその瞬間。
「ベルベット! 母上に失礼だぞ!」
エドワードが怒鳴った。
「お前は僕の婚約者だろう! 母上に逆らうなんて許さない!」
ベルベットは王子を見つめた。
「殿下。わたくしは王妃殿下に逆らっているのではございません」
「では何だ!」
「国を守っている兵士たちを守りたいだけです」
「そんなことは騎士にやらせればいい!」
その言葉に、ベルベットの紫水晶の瞳がわずかに細くなった。
「……殿下」
「何だ!」
「その騎士たちが、何のために剣を握っているのかをご存じですか?」
「国のためだろう!」
「はい。では、その国を守る者たちを軽んじてよい理由にはなりません」
「生意気な!」
エドワードは怒りに任せてテーブルを叩いた。
カップが倒れ、紅茶が白いクロスに広がった。
ベルベットはその様子を静かに見つめた後、深く一礼した。
「王妃殿下。本日は失礼いたします」
「待ちなさい! まだ話は終わっていません!」
「申し訳ございません。ですが、わたくしには領地に戻り、確認しなければならないことがございますので」
「あなた、自分の立場が分かっているのですか!」
ベルベットは振り返った。
「はい。グランツ辺境伯家の娘でございます」
そして、微笑んだ。
「それだけは、決して忘れておりません」
その夜。
グランツ辺境伯家の執務室には、他の二つの辺境伯家から届いた報告書が並べられていた。
結果は予想以上に深刻だった。
南部の国境でも軍事費が不足しており、西部の砦では修繕費が何年も支払われていない。
そして、三つの地域すべてに共通する資金の流れがあった。
王妃の実家である公爵家。
そして、王宮財務局の高官たち。
「……間違いないな」
アルベルトが呟いた。
「はい。こちらが資金の流れをまとめた資料です」
家令が書類を差し出した。
そこには、王妃の実家が経営する商会を経由した不自然な送金記録が記されていた。
アルベルトは深く息を吐いた。
「国防費の横領だけではない。これは王家と王妃の実家が一体となった腐敗だ」
ベルベットは資料を見つめた。
そして、静かに尋ねた。
「お父様。陛下は、このことをご存じなのでしょうか?」
「まだ分からん。だが、知らなかったでは済まされない立場だ」
「そうですね」
ベルベットは少し考えた。
「まずは陛下に事実をお伝えするべきだと思います」
「王家に直接か?」
「はい。もし陛下が正しい判断をなさるのであれば、まだこの国を立て直すことはできるかもしれません」
アルベルトは娘を見つめた。
「もし、陛下も関与していたら?」
ベルベットは迷わず答えた。
「そのときは、国を守る方法を考えなければなりません」
十二歳の少女の言葉とは思えないほど、そこには確かな覚悟があった。
アルベルトは静かに立ち上がった。
「分かった。王都へ使者を送る」
そして、娘の肩に手を置いた。
「ベルベット。これから先、王家との関係は今まで通りではいられなくなるかもしれない」
「構いません」
「怖くはないのか?」
ベルベットは父を見上げ、優しく微笑んだ。
「わたくしには、お父様もお母様も、そしてグランツ家の皆さんもおりますもの」
その笑顔を見て、アルベルトは思った。
この娘なら、きっと大丈夫だ。
だが、王都に待ち受けるものがどれほど醜悪なものなのか。
それを知るには、まだ少し時間が必要だった。
ーー同じ頃、王宮の地下にある一室。
王妃の実弟であり、財務局に強い影響力を持つ公爵が、ある男と向かい合っていた。
「グランツ家が動いているそうだな」
「はい。軍事費の流れを調べているようです」
「厄介だな」
公爵はワイングラスを傾けた。
「辺境伯家の軍事力は無視できん。だが、あの家には弱点がある」
「弱点、でございますか?」
公爵は薄く笑った。
「第一王子の婚約者だよ」
その言葉に、男は顔を上げた。
「ベルベット嬢を利用するおつもりですか?」
「そうだ。あの娘が王家に逆らえば婚約者としての立場を危うくする。逆に王家に従わせれば、辺境伯家も動きにくくなる」
公爵はグラスを置いた。
「どちらに転んでも、こちらに有利になるように動けばいい」
そして、冷たく告げた。
「グランツ家には、少し身の程を教えてやる必要があるな」
その日、王家と辺境伯家の対立は、もはや避けられないものとなった。
そして、ベルベットを利用しようとする者たちは、まだ知らない。
彼女こそが、彼らの計画を最初に打ち砕く存在になるということを。




