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第二話 妖精姫の剣と、愚かな王子

ベルベット・フォン・グランツが第一王子エドワードの婚約者に決まってから、六年の月日が流れた。


十二歳になったベルベットは、以前にも増して美しく成長していた。

艶やかな黒髪は腰まで伸び、紫水晶の瞳には知性と気品が宿っている。


王都では彼女を知らぬ者はいない。


「グランツ辺境伯家の妖精姫」


いつしか、そんな愛称で呼ばれるようになっていた。

しかし、その美貌ばかりが注目されているわけではない。

グランツ辺境伯領では、彼女のもうひとつの顔を知る者が大勢いた。


「ベルベットお嬢様! お待ちください!」


「どうなさいました?」


「訓練場にいらっしゃると聞いたのですが……」


「はい。少し身体を動かそうと思いまして」


そう答えたベルベットの手には、子供用とはいえ本格的な訓練用の剣が握られていた。

その向かいには、屈強な騎士が一人。


「お嬢様、本当に私がお相手してよろしいのですか?」


「もちろんです。遠慮はいりませんよ」


「しかし……」


「実戦で相手が遠慮してくれるとは限りませんもの」


ベルベットはにっこりと微笑んだ。


ーー次の瞬間。


「では、参ります!」 


騎士が踏み込んだ。

剣が振り下ろされる。

だが、ベルベットの姿はすでにそこにはなかった。


「――遅いです」 


小さな声。

騎士が振り返るより早く、ベルベットの剣先がその喉元に添えられていた。


「勝負あり、ですね」


訓練場が静まり返った。

そして次の瞬間、周囲の騎士たちから歓声が上がった。


「また勝ったぞ!」


「今の踏み込み、見えたか?」


「いや、まったく見えなかった……」


ベルベットは剣を下ろし、相手の騎士に頭を下げた。


「ありがとうございました。とても勉強になりました」


「い、いえ……こちらこそ」


騎士は苦笑するしかなかった。十二歳の少女に完敗したのである。

しかも、彼女は決して力任せに勝ったのではない。

相手の癖、重心、呼吸、そして剣を振るう直前のわずかな動きを見抜いていた。


剣術だけではない。

ベルベットは地図を読むことにも、兵站を計算することにも優れていた。


父が軍議を開けば、幼いながらも隣で話を聞き、時には大人たちが見落としていた問題を指摘することさえあった。


「お父様。この街道を使う場合、補給部隊の移動に三日余計にかかると思います」


「ほう。なぜだ?」


「この時期は北側の川が増水します。地図には橋があると記されていますが、昨年の洪水で流されたままではありませんか?」 


父は目を見開いた。


「……その通りだ」


「でしたら、こちらの街道を使う方がよろしいかと」


父は娘の頭を撫でた。


「まったく。お前には驚かされてばかりだな」


ベルベットは嬉しそうに微笑んだ。 


そんな彼女とは対照的に、王宮では第一王子エドワードが育っていた。 


「母上! 僕はあの教師が気に入りません!」


王宮の一室に、少年の怒鳴り声が響いた。


十二歳になったエドワードは、すでにその傲慢さを隠そうともしなくなっていた。


「どうしたのです、エドワード?」


「剣術の教師が僕に説教したのです! 王族に向かってなんという無礼でしょう!」


「まあ、なんてこと!」


王妃マルグリットは眉をひそめた。


「教師風情が王子に意見するなんて、許されることではありませんわ」


「そうでしょう? 僕は王子なのですよ!」


「もちろんです。あなたはいずれこの国の王になるのですから」


王妃は息子の頬を撫でた。


「あなたは何も心配する必要はありません。面倒なことは臣下に任せればいいのです」


その言葉を聞いていた侍従長は、深く目を伏せた。

王妃は知らない。

その教師が、エドワードの剣術の成績を正当に評価しただけであることを。


そして、エドワードが訓練を怠り、同年代の貴族子弟にすら勝てなくなっていることを。


彼にとって重要なのは、努力することではなかった。

自分が王子であるという事実だけだった。



ーーそんなある日、王宮で小さな茶会が開かれた。

招かれたのは、王族と婚約関係にある貴族の子供たち。

もちろん、ベルベットも参加していた。


「ベルベット!」


エドワードが声をかける。


「ご機嫌麗しゅうございます、殿下」


ベルベットは優雅に礼をした。

エドワードは彼女を上から下まで眺めた。


「お前、また背が伸びたな」


「そうでしょうか?」


「まあいい。僕の婚約者なのだから、もっと僕の隣にいろ」


「かしこまりました」


ベルベットは静かに答えた。

エドワードは満足そうに頷いた。


「それにしても、お前はずいぶん大人しいな。辺境伯の娘なら、もっと男勝りなのかと思っていた」


「どういう意味でしょうか?」


「女が剣を振り回すなど、はしたないだろう。王太子妃になるのなら、もっと美しく着飾っていればいい」


ベルベットは微笑みを崩さなかった。


「殿下。ひとつお尋ねしてもよろしいでしょうか?」


「なんだ?」


「王国の北部にある国境線の長さをご存じですか?」


「……は?」


「現在、北部国境には何名の兵士が配置されているか、ご存じでしょうか?」


エドワードは眉をひそめた。


「そんなこと、僕が知る必要はないだろう!」


「そうですか」


「国を守るのは騎士や兵士の仕事だ。王族がそんな細かいことを知ってどうする!」


ベルベットは少しだけ首を傾けた。


「では、殿下は何をなさるおつもりなのですか?」


「決まっている! 王として命令するのだ!」


その場にいた貴族の子供たちが、気まずそうに視線を交わした。

ベルベットは穏やかに微笑んだまま、言った。


「命令するためには、何を命じるべきか知っていなければなりませんわ」


「なっ……!」


「兵士が何人必要なのか。食料がどれだけ必要なのか。どこに敵が現れる可能性があるのか。それを知らずに命令すれば、命を落とすのは殿下ではなく、国を守る兵士たちです」


「お前! 僕に説教する気か!」


エドワードの顔が真っ赤になった。


「婚約者のくせに生意気だぞ!」


「申し訳ございません。ですが、殿下が将来この国を治められるのであれば、知っておいて損はないかと存じます」


ベルベットは一歩も引かなかった。

そのとき、王妃が会話に割って入った。


「ベルベット。あなた、少し口が過ぎるのではなくて?」


「王妃殿下?」


「エドワードは将来の国王です。あなたは婚約者なのですから、もっと殿下を立てることを覚えなさい」


「かしこまりました」


ベルベットは素直に頭を下げた。

しかし、その瞳から笑みは消えていた。

王妃は満足げに頷く。


「そうです。あなたは美しいのですから、余計なことを考えず、王太子妃としての振る舞いを身につければよいのです」


その言葉を聞き、ベルベットは静かに答えた。


「王妃殿下。ひとつだけ、申し上げてもよろしいでしょうか」


「何です?」


「美しさだけでは、国境を守ることはできません」


一瞬、空気が凍った。

王妃の顔が険しくなる。


「……何ですって?」


「失礼いたしました」


ベルベットは再び優雅に礼をした。


「わたくし、少し失礼いたします」


そして、誰にも気づかれないほど小さく息を吐いた。

その日の夜。

グランツ辺境伯邸では、父と母がベルベットから茶会の報告を受けていた。


「なるほど。王妃殿下は相変わらずか」


父は苦々しく呟いた。


「第一王子殿下は、王族としての責任を理解されていないようでした」


「お前から見てもそうだったか」


「はい。ですが、もっと問題なのは王妃殿下です」


母が静かに尋ねる。


「どういうこと?」


「殿下が何も学ばなくても、何も努力しなくても、それを正しいこととして認めていらっしゃいます。あのままでは、殿下はますます何もできなくなってしまいます」


父は深く息を吐いた。


「……王妃殿下は息子を王にしたいのではない。ただ、王という地位を息子に与えたいだけなのだろうな」


「お父様」


ベルベットは真剣な表情で父を見つめた。


「グランツ家が守っているのは王家ではなく、この国ですわよね?」


「そうだ」


「でしたら、わたくしは王太子妃になることよりも、この国が正しくあることを望みます」


父は娘を見つめ、やがて静かに頷いた。


「その考えを忘れるな、ベルベット」


「はい」


「王家に仕えることと、国に尽くすことは同じではない。そこを見誤れば、我々は守るべきものを失う」


ベルベットはその言葉を胸に刻んだ。

その夜、父は古参の家臣を呼び出した。


「王宮の財務状況を調べろ。特に軍事費の流れだ」


「軍事費でございますか?」


「ああ。近頃、国境警備に必要な物資の到着が遅れている。王都からの予算も減らされている。偶然で済ませるには不自然だ」


「承知いたしました」


父の表情は険しかった。

国を守るために命を懸けてきた兵士たち。

その兵士たちに必要な食料や武具が、王都のどこかで失われているかもしれない。


もしそれが事実なら、決して見過ごすわけにはいかなかった。

そして、その調査が後に王国を揺るがす大事件へとつながることになる。



ーー 一方、王宮の王妃の私室。

マルグリットは侍女に髪を整えさせながら、不機嫌そうに呟いていた。


「まったく、ベルベットには困ったものね」


「何かございましたか?」


「美しいのは認めますけれど、あの子は少々賢すぎるわ。王妃になる女性が、軍事だの政治だのと口を出す必要はありませんもの」


「しかし、グランツ辺境伯家は王国の防衛を担う名門でございます」


「だから何です?」


王妃は鏡越しに侍女を睨んだ。


「いくら軍隊を持っていようと、王家に逆らえるはずがないでしょう?」


侍女は何も答えなかった。

王妃は知らない。

その軍隊がいなければ、王国の国境は一日たりとも安全ではないことを。


そして、自分が軽んじた少女こそが、王国の未来を左右する存在になることを。


妖精姫ベルベットの婚約者としての生活は、まだ始まったばかりだった。

だが、王家の腐敗を暴くための歯車は、すでに静かに動き始めていた。

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