第五十六話 ソフィア・ローレン⑨
「あなた、バカなの?」
ミアは拳を握り締め、自分を落ち着かせるために深く呼吸をしている。
彼女なりに、自分の感情を抑えようと懸命になってくれているようだ。
「成績が悪いことなんて許されない? だから教師にお願いしてそれをごまかす? 何もわかってないわ。娘がそんなことをしていたと知った時の方が、よっぽどあなたの両親はがっかりするでしょうね」
先ほど専門科校舎の門の前でソフィアを問い詰めていた時に比べれば、ミアはいくらか落ち着いている。
「そんなこと……私だって……」
ソフィアは今にも消え入りそうな震えた声を発しながら、両膝においた拳を強く握りしめている。
「何? そんな声じゃ聞こえないわ!」
「私だって……そんなこと分かってる!」
急に大声を出したので、ソフィアの声はわずかに裏返っていた。
今までソフィアからは聞いたことがないほどの大声だったが、それでもアルジーノの部屋全体に響き渡るには遠く及ばず、たちまち静寂が四人を包み込む。
「でも、仕方なかった……! 優秀な人たちを親に持つ辛さが、あなたたちに分かるの? 成績が悪ければ、親にはどうしてこんな簡単なこともできないのかって呆れられる。必死に頑張って多少それが良くなっても、そんなの当たり前、むしろまだ努力が足りないと責められる。たまに会う親戚も、顔を合わせている時は笑顔でも、陰では両親が優秀なのにどうして出来が悪いのかって囁いてる。優秀じゃなきゃ、わたしは家族に認めてもらえない。でも、自分の力にも限界がある……。じゃあもう、他の手段に頼るしかないじゃない! 家族が幸せになるには……お父さんやお母さんを喜ばせるには、そうするしかなかったの……。親の望む理想の子であろうとすることが、そんなにいけないことなの……?」
「両親のためだった、なんて、体のいい言い訳ね。どんな目的であれ、あなたの選んだ手段は正当化されないわ。親のためだからと言って、成績をごまかそうとすることなんて許されない。それ以前に、『成績を良くすること』自体が目的になっている時点であなたは間違っている」
今にも涙が溢れそうな瞳をしているソフィアに対して、ミアは一切の気遣いを見せない。
しかし、彼女の言葉に、既に怒気はなかった。
「学園の成績っていうのは、それまでの学習がどれだけ身についているかを確かめる指標なの。定期試験の前に慌てて勉強して徹夜をする連中や、あなたみたいな人には、ただの数字でしかないんでしょうけど」
「……でも事実、数字でしかないじゃない」
「そうね。そのただの数字に一喜一憂しているあなたのご両親も大概だけど、それをごまかそうとするあなたも大馬鹿よ。数字をごまかしたところで、あなた自身は何も変わっていない。いずれその化けの皮は剥がれる。それまで取り繕っていた分、剥がれた皮から出てきた中身との差に周囲は落胆する――それこそ、あなたの一番望まない結末なんじゃなくて?」
ソフィアは何も答えない。
「あなたは、成績というただの数字欲しさに、ご両親が一番大切にしているものを傷つけた。そして、傷ついて初めて、あなたは自分の犯した間違いの重さに気づいた。でももう遅いわ。今さら自分だけ痛い目を見ずに済まそうなんて。――ねぇ、ローレンさん。あなた、一体何がしたかったの? こうなることが想像できなかったわけじゃないでしょう? これが本当に、あなたが望んだことなの?」
俯いたままのソフィアの表情は横からしか見えないが、それでもミアの言葉に苛立っているのが、隣にいるジョンにはよく分かった。
太陽のように笑った時もそうだったが、口から発せられる言葉よりも、彼女の表情は雄弁にその心情を語ってくれる。
「だから……私はただ、両親の理想の子供になろうと――」
「ごめんなさい、言い方を間違えたわ。あなたの言っているそれは、あなた自身が、本当にしたいことなの?」
「……何が言いたいの?」
ソフィアはようやく顔を上げてミアの目を見た。
彼女は相変わらずソフィアのことを見下ろし、軽蔑した眼差しを向けていたが、その目にはどこか優しさも垣間見える。
「優秀な両親の間に生まれたから優秀でなきゃいけない――そうやって親の言われた通り、お人形みたいに生きるのがあなたの望みなの? そのためには自分の体すら差し出せるの?」
「そんなわけないじゃない……。誰が好きでこんなこと……」
ミアの目を見つめていたソフィアは再び視線をローテーブルの角に向けると、唇を強く噛みしめる。
「でも、親の言うことに逆らえるはずないじゃない……! 自分を生んで、育ててくれた親の望むような人間になろうとするのが、子供の役目でしょ……?」
「そのためなら、自分の意志を殺すっていうの? あなたはそれでいいの?」
「……だって、どうしようもないじゃない」
「どうにかしようとしたの?」
……
「ご両親に本当の自分をさらけ出して、彼らと本音で話し合ったの?」
……
――はぁ、と大きくため息を吐いたミアは、ソファに落ちるように腰かけた。
その衝撃で反対側のクッションが跳ね上がり、アルジーノの腰がわずかに浮き上がる。
しかし、彼はそんなこと気にも留めず、ソファに背中を預けて腕を組んだまま、俯いたソフィアの頭頂部をまっすぐに見つめていた。
「親がいつも正しいわけじゃない――」
腕を組んで壁を見つめたままのミアが呟いた。
「優秀な人なら子供に自分と同じように人生を歩むように強いるし、そうでない人は子供に自分と同じ苦労はしてほしくないと願う。そうしていつの間にか、子供の意志なんて二の次になっている。きっと、あなたのご両親もそうなのよ」
まるで壁に向かって独り言を話しているようだったが、ミアの言葉は、間違いなくソフィアに向けられたものだった。
そして、その声色は実に優しい。
「親が子の意志や個性を否定するなら、子がそれを主張し続けるしかないのよ。きっと」
ミアの視線は、壁の向こうにあるどこか遠くを見据えていた。
ジョンにはその視線の先に何があるのか、何となく分かった気がした。
「そんなの、それができる人の理屈よ……」
ソフィアはミアの脚をちらと見てそう言った。
開いた窓の外から、何かを炒めている香りが漂ってくる。
屋敷の厨房で、夕食の準備が進んでいるのだろう。
四人の間を、静寂が包んでいた。
しかし、そこには先ほどまでのような気まずい空気は流れていない。
誰もが何かを想い、考え、掴みどころのない答えに手を伸ばそうとしている。
理想を求める親とそれを体現しようとする子供――アルジーノにとっても、ジョンにとっても、ミアにとっても、それは決して他人事ではなかった。
「ねぇ、ローレンさん。俺はさ、じいちゃんに憧れて魔法師を目指してんだ」
ジョンの一言で、まるで優しくカーテンを開いたかのように静寂が退いた。
顔を覗き込まれたソフィアは微動だにしない――しかし、その耳はしっかりと、ジョンの言葉を聞こうとしていた。
「ミアも、親父さんみたいな魔法師になりたがってるもんな?」
自分に話が振られると思わず驚いたミアは首を一瞬ジョンの方に傾けたが、すぐに壁の方へと視線を戻す。
先日、父親と泣きながら和解した光景は今でも鮮明に思い出せるが、その話をここでされるのをミアは嫌がるだろうし、ジョンもそれが察せないほど野暮な人間ではなかった。
先ほどのミアの言葉も、もしかしたらその時彼女が感じたことだったのかもしれない。
「もちろん、両親の期待に応えたいし、その恩に報いたいから学園で勉強してるってのもあるけど、でも、何よりも自分のためなんだよなーって思って。成績ももちろん大事だけど、そのために勉強してるってよりは、あくまで自分のため。ローレンさんにも、もしそういうのがあるなら、そのために頑張れたら、今までとは少しだけ、学園での生活が変わってきたりしないかなー、とか……」
――最後までちゃんと言い切らないと説得力ないぞ、とアルジーノは思ったが、確かにジョンの言うことには一理あると感じた。
ソフィアは親の言う通りに勉強し、二人に怒られたくないから、落胆されたくないからそれをごまかそうとした。
だが――優等生みたいな台詞で反吐が出るが――勉強とは本来、自分のためにするものだ。
将来どうなりたいか、何を為したいか。
それに必要なことを学ぶ――そうすれば、その進捗を確認するための手段でしかない成績というものを、ごまかそうという気は起きないのかもしれない。
もちろん、ジョンやミアには夢を応援してくれる家族がいるが、それに恵まれていないソフィアにとっては、それを考えられなかったことは仕方のない事だったのかもしれない
しかし――
――どうにかしようとしたの?
ミアの言葉はアルジーノの中で何度も跳ね返り、胸の痛いところに何度もぶつかってくる。
ソフィアは自分を見つめ、親に自分を主張すべきだった。
――じゃあ俺は?
主張した。
幼い頃、父に、魔法が使えないから農民を目指すのだ、と。
言下にそれは否定され、それ以降、見向きもされなくなり、兄弟からも馬鹿にされ続けたアルジーノは、いつの間にか、彼らを見返すことが目的になってしまっていた。
――親が子の意志や個性を否定するなら、子がそれを主張し続けるしかないのよ
――そんなの、それができる人の理屈よ……
アルジーノもいつの間にか、ソフィアと同じようにローテーブルの角を見つめていた。
「ローレンさんには、そういう夢とか目標とか、ない? もちろん、そんな大層なものじゃなくても、ただ好きなこととか、やってて楽しいこととか」
ジョンの言葉に、ソフィアの瞳が彷徨い始める。
――好きなこと、楽しいこと
親に強要された学園生活――碌に友達もできず、勉強も運動も思うようにできない。
こんな学園生活で楽しいことなんて――
――お弁当、毎日作ってるの?
ソフィアの頭の中で、昼休み食堂で目の前に座ったジョンの放った言葉がこだまする。
そう、ソフィアは毎日、自分の弁当を作り、持参していた。
「料理……」
――うん? とジョンは、ソフィアの言葉を一言も漏らさないよう耳を近づける。
ソフィアは、自分の心にかかっていた雲の隙間から、陽の光が差し込んでいる気がした。
自分でも知らなかった部屋の扉が、急に目の前に現れたような気がする。
「料理が……好き……」
「料理か! へー、いいじゃん!」
ジョンが笑顔になってソフィアに言うと、彼女が急に目を見開いてジョンを見つめるので、少し驚いてしまう。
「うん……?」
何事かとソフィアの瞳を覗き込むジョン――彼女の表情は、生き別れた母と久方ぶりに再会した時のそれと言って納得できるものだった。
ソフィアは思い出した――むしろ、どうして今まで気づかなかったのかと、自分の自分に対する解像度の低さに呆れてため息も出ない。
扉の向こうにいたのは――自分にこの感情を与えてくれたのは、今目の前にいる、ジョン・フォーバーだったのだ。




