第五十五話 ソフィア・ローレン⑧
ソフィアを見つけるのは思いの外簡単だった。
専門科校舎の正門に寄りかかるように立った彼女をミアが見つけ、駆け寄って力強く肩を掴んだ。
「ローレンさん!」
力の加減が出来ず、思わず強く彼女の肩を掴むと、勢いよくソフィアの体は反転した。
彼女が一切の抵抗をせず想像以上に軽く動いたため、ミアも一瞬戸惑ってしまう。
太い黒縁の眼鏡の向こうにあるソフィアの瞳から滝のように溢れた涙は、振り向いた瞬間に地面へと滴り落ちる。
彼女の表情を見て一瞬言葉に詰まったミアよりも先に、ソフィアが口を開いた。
「ごめん、なさい……」
「どうして嘘をついたの……?」
「ごめんなさい……」
「真実を話してくれる気はないの? このままじゃ、スミスとの関係が続くだけよ……?」
「ごめん、なさい……」
「自分を売ってまで、成績を維持することが大事なの……?」
「……」
「ローレンさん!」
「ミア――やめよう」
ソフィアに迫るミアの勢いがさらに増していきそうだったので、咄嗟に彼女の肩に手を置いてジョンは優しく囁いた。
「俺たちが軽率だったんだ。もっとちゃんと、彼女にも話を聞いて、事情を理解してから――」
「事情ってなによ……。教師の言いなりになって成績をごまかしてもらっているから、それがバレて関係が終わってしまうと成績が落ちて困るっていう事情?」
「やめろ、そんな言い方」
ジョンはミアの肩から手を下ろすと、俯いているソフィアに視線を移す。
「ごめんね、ローレンさん。俺たちも、まだどうするのが正解なのか分かってないんだ。だからまずは君の話を――」
「話を聞くまでもないわ――こんなこと、今すぐやめなさい」
「だからやめろって。君にとってはたかが成績なのかもしれない。でも、きっと彼女にとってはそうじゃない。確かに、それをごまかそうとした彼女の行動が正しいとは言えないけど、そうなってしまった背景も理解してあげないと――」
「理解しようとする気すら起きないわ――自分を売ってまで、成績が欲しい人の気持ちなんて」
――もしかしたら、ローレンさんの気持ちを理解できる人間から、ミアは最も遠い存在なのかもしれない
ソフィアに話を聞くはずが、ジョンはいつの間にかミアを説得することに努めていた。
「そりゃあ成績優秀なミアには分からないかもしれないけど、それが悪いと困る人たちだって――」
「違う、成績をごまかしたことに対して怒っているんじゃないわ。 ローレンさん――あなたが自分の体を粗末にしたことに対して怒っているの」
ミアの言葉にハッとしたのは、ソフィアだけではなかった。
「たかが学校の成績が良いとか悪いとか、それが一体何だって言うのよ。両親が大切に育ててくれた自分の体の代わりになるものなんて、この世界のどこにもありはしないわ! あなただって、今のままで良いと思っているわけじゃないでしょう? どうして誰にも相談しなかったの? どうしてあんな奴の言いなりになんかなろうとしたの?」
「ミア、やめるんだ」
「どうして――」
「ミア!」
ジョンが彼女の肩を強く引くと、彼女の顔は憤怒にまみれていたが、どこか悔しそうにも見えた。
ミアも、ソフィアのことをただ責めたかったわけではないのだろうが、スミスに挑発され感情が抑えられず、思わずきつい言い方になってしまっている。
しかし、傷ついている今の彼女に必要なのは、叱咤や教訓ではなく慰撫と共感だ。
「ローレンさん、もし嫌じゃなければ、ちゃんと話を聞かせてくれないかな」
ジョンの言葉に、ソフィアは迷うことなく小さく頷いた。
ミアに対してはまだ怯えているようだったが、彼女自身、ミアが言ったようにこのままで良いとは思っていないのだろう。
「よし、じゃあとりあえず、場所を変えようか」
辺りを見回すと、ミアが大声を上げたせいか、周囲を歩く生徒たちの視線が集まっていた。
女性二人の喧嘩を、ジョンが仲裁しているように見えていたのかもしれない。
ミアも渋々頷くと、三人はそのまま博士の研究室に向かうことにした。
「で? なんでわざわざ俺の部屋で集まることに?」
「なんか博士に急なお客さんが来たらしくてさ。ついでにこれ、また博士から差し入れ。玄関で追い返された時に渡してきたやつ」
ジョンはソファに腰かけたアルジーノの前にあるローテーブルに、いつもの茶葉が入った缶を置いた。
――待ってました、と小さく呟いたアルジーノはそれをすぐに手に取ると、定位置と思われる食器棚の二段目にそれをしまった。
前にジョンが持ってきた茶葉は、既にほとんど消費してしまったようだ。
研究室へと向かった三人だったが、道中は誰も口を開かず気まずい時間が流れていた。
さらに研究室に着いてみれば、博士が慌てた様子で玄関までやってきて、今日は客が来るから帰ってくれと追い出されてしまった――なお、紅茶はこの時に渡してきた。
落胆した三人はその後どうしようかという話になり、アルジーノの屋敷へと向かうことになったのである。
ちょうど三人が出発しようとした時、スーツ姿の男性が数人、研究室の玄関の前に立ち、博士がそれを招き入れているのが見えた。
あれが博士の言っていた客人なのだろう――博士とスーツ姿の彼らは一体どういう関係なのか。
アルジーノの屋敷にやってくると、今日は前回とは違い、守衛が門を開き、屋敷の中へと案内してくれた。
前回訪問した際に、次にジョンたちが来たら自室へ案内するようにアルジーノが守衛に伝えておいてくれたらしい。
門から眺めたことしかなかった噴水を周って屋敷の目の前に立つと、城のようなその構えにジョンは開いた口が塞がらなかった。
少し田舎の方に行けば目の前にあるような石造の巨大な屋敷は点々としているものだが、一国の首都にこのような建築物が残っていることは珍しいのではないだろうか。
帝都ヘルムントの中でも、ローゼンベルグ家の屋敷を含む周辺の地域には、同様の屋敷が複数並んでいる。
他の地域なら数十世帯は家を構えられるほどの土地を、田舎に比べて圧倒的に地価が高い首都で占有しているのだから、ローゼンベルグ家がどれだけ裕福なのかが窺える――元々この屋敷がローゼンベルグの持ち物ではないのだと、別の日にアルジーノの部屋を訪れた際にジョンは説明されることになる。
大きな両開きの玄関、入った先にある広間には両側に二つの階段が二階へと伸びており、使用人に連れられその左手を上ってさらに奥へと進んでいく。
スミスの部屋よりもずっと重厚な木製の扉をノックすると、中からいつもと変わらぬアルジーノが顔を出した。
ジョンの自宅の倍はあろうかという高さの天井の大部屋は、ダイニングルームも兼ねた書斎になっているようで、手前には食卓として利用しているのだろう大きなテーブル、奥の壁際には勉強用の机と本棚がある。
部屋の中央には来客用と思われる三人掛けのソファがローテーブルを挟んで向かい合わせに置かれており、今は部屋に入って手前側にソフィアとジョン、奥側にアルジーノとミアが腰かけている状態だった。
まだソフィアはミアに対して怯えていたため、ジョンが気を遣って彼女と対角線の位置に座るよう促していた。
「じゃあなんか仕切り直しって感じになっちゃったけど……ローレンさん。話せそうかな……?」
ジョンが恐る恐る尋ねると、ソフィアは小さく頷いて、スミスと現在の関係に至ってしまった経緯を話してくれた。
事情を聞いてみれば、きっかけは別になんてことはない――と言ってしまうと本人に失礼かもしれないが――ごくごくありふれた話だった。
研究室でも聞いたように、政界に多く名を連ねるローレン家――その長女として生まれたソフィアは、当然のように国に仕えるに相応しい人間になることを求められ、来年以降は法律科に所属するように親から厳しく言いつけられていたそうだ。
しかし、彼女自身がどれだけ努力しても、数学と魔法だけは成績が伸びなかった。
両親だけでなく、その他の親族からのプレッシャーもあり、ひどい成績を晒してはならないと当時の彼女は考えた――そこで、教員に対して、追加の課題をこなす代わりに、成績を譲歩してくれないかと相談を持ち掛けたことが始まりだったらしい。
「その時、魔法科のレオンハルト先生は全く取り合ってくれなくて……」
――あぁ、とアルジーノは納得したような声を出す。
一昨日聞いた彼の思想から察するに、成績をごまかそうとする生徒に対して、彼なら憎悪すら抱くことだろう。
「ただ、スミス先生は、私のお願いを聞いてくれると言ってくれたの……。でも……」
その見返りとして、彼はソフィアの体を要求したのだった。
当然、彼女の性格上断れないことを分かった上でスミスはその条件を提示したのだろう。
彼の思惑通り、ソフィアはその成績をごまかすために、自らの体を差し出す関係が始まってしまったのだ――それが二か月ほど前の話だったらしい。
「でも私……耐えられなくなって……」
スミスの要求は日を追うごとに過激なものになっていった。
はじめは制服のスカートの上から臀部を触ったり、髪の匂いを嗅いだりなどの範疇で収まっていたが、最近は胸や脚を直接触ることを要求してきた上、下着を脱いで校内で生活するように指示を出されたこともあったという。
このままではいずれ、彼に全身を弄ばれてしまうと思った彼女は、スミスとの関係を終わらせる相談を彼にしたのだという――それが、ちょうどミアとジョンの二人がスミスの部屋を訪ねた昨日の出来事だったのだ。
「あの人は、私の相談を、嘲笑った……。それだけじゃない……。あの人は、私を脅してきて……もし、このまま関係を終わらせるなら、これまでのことを、学園で口外するって……」
「自業自得よ」
「やめろ、ミア」
「だってそうでしょ!」
ジョンは再びミアの発言を止めさせようとしたが、彼女は勢いよくソファから立ち上がると、今にも殴りかかりそうな形相でソフィアを見下ろすのだった。




